小下村塾/投球の仕方--自分で発信!

東京大学「メディア表現演習」講義

第13講 2003年9月8日

ケース・スタディ―≪情報伝導率≫向上への新しい試み

「単純に」「分かりやすく」伝えた方が、情報伝導率は上がる。

―これが、テレビ界の常識だ。私も、その通りだと思う。しかし、テレビ制作者の「情報伝導率を上げよう」とする工夫が裏目に出て、世の中の事象があまりにも「単純に」「分かりやすく」伝えられ過ぎている、という弊害も、近年顕著になってきている。 では、リポートする事象を単純化せず、敢えて"複雑に"伝えたとしたら、どうなるだろうか?  全く違う視角を提示された視聴者は、戸惑うのか、それともより深く「わかった」と感じるのか―。
今回は、TBS『みのもんたのサタデーずばッと』下村コーナーを教材に、≪情報伝導率≫向上への新しい試みを考えたい。


[1]教材:塩釜女子高生死体遺棄事件/容疑者逮捕に異見あり

02.08.24放送

こいつが犯人に違いない!
(警察発表型リポーター)
現材料では言い切れない
(不明点強調型リポーター)

"ダブル・キャスト"リポートによる両論併記で、≪見立ての旬をはずす≫可否

 被害者の携帯電話を持っていた男が逮捕され、容疑を大筋で認める供述をした、と報じられ、事件は解決に向かっているかのように見えていた。しかし、出てきた事実を別の角度から見ると、違った筋書きが浮かび上がってくる。警察発表型リポーターと不明点強調型リポーターが、各現場に並び立ち、「容疑者はやはりクロだ」と 「まだ分からない」とを代わる代わる伝える。

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[2]ディスカッション
≪放送のタイミング-"結論"を待つべき?≫

赤:「タイミングが悪かった」派の意見  青:「タイミングは良かった」派の意見


◆見ていてすっきりしないというか、どっちなの?と思ってしまう。今後の動きを見守るというより、早くどっちか決めてくれ!という感じ。
◆今はまだ"シロ"とも"クロ"とも言えないっていうのは分かったけど、じゃあ、このリポートの続き、結論はちゃんと放送してくれるの?
◆容疑者が「供述は待ってくれ」と言っている=供述を始めたらすぐにも状況が変わるかもしれない、という時に、放送する意味はあった? 来週変わるかもしれないものを、今週やる意味は?

●事件報道は、そんなに早く結論が出るわけではない。結論が出るまで取り上げるのを待っていたら、世間の関心が薄れてしまう。
●被疑者の供述は、いつになるのか分からないし、供述があったとしても、内容がいつ変わるかわからない。

◆「警察や世間の見方が"クロ"に傾いているけれど、そうじゃない見方もある」という事を放送で取り上げる必然性が、どの程度あったのか気になる。"シロ"である可能性を示唆する材料がもう少し取材で出てきてから放送しても良かったのでは?

<下村私見>

何をもって、放送に踏み切る"結論"とするのか。

 当然ながら、容疑者の逮捕は、事件の"結論"ではない。(こんな当たり前の事も、今、世間では常識として通用していないが。)皆がここで言う"結論"とは、一体何なのだろう。自分の好きなタイミングに発信できる市民メディアならば、"結論"を伴った明確なメッセージも可能だろう。しかし、日々"現状"を伝えるノルマを負った大手メディアでは、放送に踏み切る判断基準も自ずと違ったものになる。受け手側は、そんな事情もわきまえて、いわば"留保付き"で情報を受け取らなければならない。

「今やらなくても次できる」保証はない。

 大手メディアは、常に新しい事件を追いかける習性を持っている。一つのニュースについて、どんなに綿密な取材をして放送のタイミングを計っていても、新たな事件が起これば、古くなったニュースを諦めざるを得ない。
 私もTBS時代に苦い経験をした。1994年に起きた松本サリン事件の後、世間が"河野犯人説"に走る中、当時私が出ていた『スペースJ』という番組では、オウム真理教の動きをキャッチしていた。しかし、確証を得られずに慎重に放送の時期を待っていたところ、いよいよオンエアしようという前日になって、阪神大震災が起きてしまった。メディアは(我々も含め)震災の話題一色になり、松本サリン事件を一瞬皆が忘れた時、地下鉄サリン事件が起きた。
あの時、"オウム犯人説"を打ち立てられないまでも、≪見方≫だけでも提示できていたら、もしかしたら地下鉄サリン事件での5500人の被害者は出なかったのかもしれない。それは今でも心に重くひっかかっている。
(ただあの時は、今回の教材にはなかった非常に大きなファクター、「宗教」が絡んでいた。日本人は"カルト=怖い、危険"という非常に強いアレルギー反応を表す。「オウムが犯人かもしれない」と言った瞬間、今度は逆に一斉にそちらへ突っ走ってしまう危険性があった。その時その時、そのテーマに対する世間の"風圧"がどうなっているかによって、メディアが発信に踏み切るタイミングも微妙に影響を受けているように思える。)



≪"見方"の提示は必要?≫

赤:「必要ない」派の意見   青:「必要」派の意見


●他が全て「クロだ」と言っている時に、1つだけ「どっちか分からない」と言っている番組があるなら、視聴者にとってはその方が面白いと思う。視聴率も上がるのでは?

◆番組独自の取材による≪新たな事実≫の提示がなく、ただ「こういう見方もできる」という≪見方≫の提示にしかなっていない。「こういう見方もできるし、別の見方もできる」というやり方は、放送する側の責任も曖昧にしてしまったんじゃないか。

●現在明らかになっている情報を可能な限り提示して、選択を視聴者に委ねている。視聴者の選択肢を増やせたのでは?

●「事件報道を見る時にはこういう風に見なくちゃいけないんだ」というフレームの提示にはなった。

◆それすらも、"与えられた見方"にしか過ぎない。新たな≪事実≫を提示されて、視聴者自身が疑問を持って考えるならともかく、≪見方≫そのものを放送から与えられてしまったら、それは本当の意味での視聴者自身の複眼思考にはならない。

●残念な言い方かも知れないけれど、視聴者の中には、オプションを与えてあげないと自ら深く考えない人もいるのでは。

<下村私見>

世間に≪見方≫はいくつあるか

ある事象の報道の仕方は、「世間に多彩な見方がどの程度存在しているか」によって変わる。ニュースの作り手は、制作の最初の時点で、その題材に関する世間の≪見方≫が何通りあるかを読む。あまりに世間の見方の種類が少ない時には、新事実がなくても、新しい見方の提示だけで、視聴者にとっては"面白い!"ニュースになる訳だ。
警察発表は、警察が被疑者を逮捕した理由を説明する場だから、当然"クロ"寄りの情報が多くなる。このリポートでは、警察発表の情報だけでなく、「今後この事件を見るとき、こういう見方もしてください」というフレームの提示をしたかった。
日ごろから意識してニュースを見るトレーニングができている人には、この放送は「そんなの、あたり前じゃん」と言われてしまうだろう。しかし、世間が一つだけの見方に突っ走ってしまう事というのは、本当にある。前述した松本サリン事件の当時には、「河野さん宅の薬品をどう組み合わせてもサリンはできない」と放送したところ、視聴者から「じゃあ一体、"シロ"か"クロ"か、どっちなんだ」というクレームが殺到した。更には、「なんで殺人者の肩を持つんだ」という非難の声すら、少なからずあった。

入試問題集の解答編のように「真実」を分かりやすく提示する事が、ジャーナリズムに幻想のように期待されている。記述式の答よりは、○×式の答の方が、明確で「面白い」という空気。しかし、現実社会はそんなに「わかりやすい」ものではない。「まだわかりません」「これは今こういう状態です」といった、"解答の手前"の中間報告を「面白い」と感じる受け止め方―「面白い」と感じてもらえる発信の仕方を、確立していかなければならない。

それは、送り手・受け手、全ての人に課せられた、大急ぎの宿題である。

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