小下村塾/投球の仕方--自分で発信!

東京大学「メディア表現演習」講義

第10講 2003年7月7日

制作実習(映像編)―撮影

前回講義終了から今回までの1週間、各グループで撮影・編集に取り組んでもらった。今回は、現時点で出来ているものを中間発表してもらい、情報伝導率を更に上げるためのアドバイスを加えていく。

各班の中間発表
        ―情報伝導率を更に上げるためのアドバイス

[1]A班:社情研の校舎の不思議
あらすじ:

地上10階建てなのに4階建てに見える、建物の広さに対して教室は異様に狭いなど、謎の多い社情研(社会情報研究所)の校舎。カメラが校舎内を探検し、その謎を解明していく。
画面に現れるのは、廊下の途中にある、普段は見過ごしている何気ない"継ぎ目"と、壁の小さな「新館」の表示。実は外から見えているのは旧館(4階建て)で、その中庭部分に、10階建ての新館が建っていたのだ。カメラは10階の屋上に上がり、眼下の旧館の屋上を映し出す。
異様に狭い2階の教室奥には、鍵のかかった"開かずのドア"が一つ。このドアの向こうには何があるのか? 校舎の平面図では"吹きぬけ"となっているが、誰も見たことがない。そこで、教室内で制作メンバーの一人がドアを叩き続け、その音を頼りに、大回りしてドアの向こう側を他のメンバーが探りにいく。
上の方の階にある図書室の司書に聞いてみると、2階の知られざるスペースは書庫になっているという。図書室から、普段一般学生が使わない階段を降りて真っ暗な書庫に入っていくと、確かにあるドアの向こう側から、彼のノックの音が聞こえてきた。納得し、家路につく制作メンバー。ドアを叩き続ける仲間を残したまま…。というオチ。

アドバイス:

建物の敷地に対して、2階の教室は異様に狭い。教室の奥には鍵のかかった"開かずのドア"が。学校側に話を聞いてみたところ、この扉の向こうは書庫になっているという。その事実を映像で現すには、どう撮影すればいいだろう? ドアが開けられないので、教室から直接書庫へ入っていく、というカットは撮れない。カメラマンとリポーター役が、このドア経由とは別ルートから書庫に入り、もう1人が教室側から呼びかける、という方法を考えている。構成は、
 教室でリポーターが前振り「このドアの向こうはどうなってるんでしょう?」
  ⇒カメラ、書庫の中へ移動
  ⇒ドアの向こうから、教室に残ったもう1人の声が聞こえる

―という感じ? ただ、リポーターの前振りが"創作"になってしまわないだろうか?

アドバイス:
="お節介"か"不親切"か?=

【他班学生の意見】
「メンバーの一人がなぜドアを叩き始めたのか、視聴者に伝わっていない。少なくとも私は、ラストシーンにきてやっと分かった。」

【制作チームの答】
「そこまでネタばらしすると、この後の展開の予想がついてつまらなくなると思ったから、あえて言わなかった。」

≪分かりすぎてつまらなくなる≫場合と、≪分からないからつまらなくなる≫場合がある。両者のリスクを天秤にかけて判断することが、難しいけど大切。今回の場合、≪分からない≫と、ドア叩きシーンが単なる無意味なギャグと受け取られてしまい、リスクが大きい。それに対し、この後の展開が≪分かる≫ことになっても、むしろ惹き付け効果が出て、興ざめとなるリスクは小さい。例えば、「この音を手がかりに、僕らは謎解きに出かけた。」といった一言は、あっても良いのでは。


=不完全映像にはアシストを=

書庫の奥、教室につながるドアの前に到達したシーン。真っ暗で、何を撮っているのか全く見えず、ただ黒い画面にノックの音だけが聞こえる。

撮影の際に、懐中電灯を持ち込むなど、下見段階での周到な準備を。それが出来ずに不完全な映像になってしまった場合も、あきらめずに編集段階で建て直す努力をしよう。例えば、「ここにドアが→」というテロップを出すとか、ナレーションを補うなど。(ただし、最初からこうした小細工を当てにして、撮影段階の工夫をおろそかにしては本末転倒である!)


=ジレンマを両立できる≪言葉≫はきっとある!=

ラストのオチでは、夜道を遠ざかって行く制作メンバーの後ろ姿から、「何か忘れていませんか?」というナレーションが入り、暗くなった教室でまだドアを叩き続けるメンバーの映像に切り替わり、そのままノーコメントで「終」の文字が出る。

【他班学生の意見】
「この編集では、オチの意味が分からなかった。『撮影が終わって夜になってもまだドアを叩き続けていた』ということをナレーション等で補足した方が良いのでは」
【制作チームの答】
「そこまで言う必要はないと思うけど…」

これも、"お節介"vs"不親切"の一例。この場合、私は作品の現状通りの方が、スマートに笑えて良いように思うが、「分からない」という視聴者がもし多数出てしまう恐れがあるなら、どんな補足があり得るか?
そういう板ばさみに陥った時は、≪どんな気付きレベルの視聴者にも受け入れられる表現≫を探そう。ここでは、"オチに気付かぬ人にとっては親切"で同時に"気付いている人にとっても付加価値となる"ようなコメントを練る。例えば、暗い教室に戻ったカメラマンが、ノックを続ける仲間を黙って撮るのではなく、ポツンと一言「もういいよ、健太」とだけ言うとか。


="オチ"をつけたのは創作か?=

【制作チームの答】 「このオチは、禁じ手の『創作』に該当しないか、不安なんですが…。」

→この場合は、次の3つの理由により、自制すべき『創作』の範疇には入らない。

  • (1)ノック自体は、実際に≪必要≫な取材行為だった。
    図面(吹きぬけ)が真実と違っており、しかもドアを開く事ができない以上、書庫の奥のドアが教室の物と表裏一体であることは、音で確認するしかない。制作班自身が、ノックという行為を「既に≪事実≫を知っているのに敢えて加えた"演出"」のように自覚したのは、図書室の職員の説明を≪事実≫として鵜呑みにしてしまった証拠である。説明を聞いた時点でまだ自分達は事実を確認していないのだから、あのノックは不可欠な取材行為だったのだ!
  • (2)≪嘘≫を付け加えていない。
    例えばここで、「社情研の教室に、ドアを叩き続ける怪しい男が実際にいる」といったナレーションをしたら、その時点で初めて『創作』となる。
  • (3)視聴者を騙していない。
    実はラストシーンに限って言えば、ノック行為も既に取材上の≪必要≫性を完了しており、本当にスタッフがこの間ノックを続けていた訳ではないという意味では、≪嘘≫とも言える。よって、極めて厳密に考えれば、(1)(2)の免除要件には該当しないことになる。しかし現実にこの場面は、映像上、誰が見てもシャレだと分かる。そもそも『創作』がなぜ禁じ手なのかというと、それは≪視聴者を騙すこと≫が問題なのだから、このシーンにまで機械的にそれを適用するのは、過剰な自主規制(ルールの一人歩き)と言えよう。

=取材拒否された事まで言う?言わない?=

作品中では触れられなかったが、実はもう1ヵ所、学校側から防犯上の理由で取材を拒否され、撮影できなかった場所がある事を、制作チームが裏話として紹介した。

【他班の学生の意見】
「"取材拒否された"という事自体にも情報性があるので、作品中で言及した方が良いのでは」

→こうした悩みにぶつかった場合には、青臭いようだが、≪どんな情報発信をすることが社会全体の為になるか≫で判断しよう。

  • (ア)現時点での取材拒否に正当な理由が無い場合
    プロの送り手は、『相手は取材に応える責任があるのに応えなかった』、あるいは『放送することで社会の利益につながる』と判断される場合、取材拒否された事自体も放送でバラすことがある。例えば、政治家の汚職事件で当人から取材を拒否された場合など、実際に断られるシーンや、相手事務所からの断りのFAXまで画面に出すことも、表現手法としてあり得る。
  • (イ)現時点での取材拒否に正当な理由がある場合
    私人のプライバシー侵害にあたるケースが最も多い該当事例だが、その他の理由もあり得る。例えば、今回の作品で「○○○の部分は防犯上の理由により撮影を拒否されました」などとナレーションで具体的に言及すれば、デリケートな点がどこにあるかを示唆して犯罪のヒントを提供することにもなりかねない。それでは、結果的に取材対象者の荒捜しをするだけの、悪意の情報発信になってしまう。何でもかんでも真実を暴けば良い、という独善的な姿勢には、賛成できない。
  • (イ-2)取材拒否し続けることに正当な理由が無い場合
    しかし、(イ)の事情を汲んで、こうした取材で知り得た事実をいつまでも公開しなければ、結果的にその問題点を温存し続けることになってしまう。そもそも≪問題点を暴く≫のは、≪問題点を無くす≫為である、という原点を忘れてはいけない。この場合、知り得た事柄が、放送しても犯罪を誘発しない程度に策を講じられるまで粘り強く取材を続け、それから「こんな問題があった」と全貌を放送して他山の石としてもらう、といった道もあろう。

今回のケースはどう対処するべきか、制作者は一考してみてもらいたい。


=カメラはいつから回すべき?=

【制作チームの答】
「取材拒否された場面を作品上に出そうにも、そのシーンを撮っていないので、映像が無い!」

今回の場合は、その時点で取材拒否を通告されるとは予測できない状況だったので、「そこからカメラを回しているべきだった」というアドバイスには無理がある。以下は、今回には当てはまらない一般論として述べる。
もともとテーマがデリケートで、取材申し込みへの反応自体にも情報性が滲み出ることが予測される場合に限り、プロは、取材交渉の時点からカメラを回すこともある。隠し撮りはもちろん禁じ手だが、特に隠すでもなく自然にカメラを回しておく、という事は、あり得る。ただし、こうした場合、初めから≪放送≫を狙った撮影ではなく、その時点では≪記録≫用の撮影である、という明確な自覚が必要である。
≪記録≫用の撮影とは何か? 文字メディアの記者は取材の際、記事用にメモをとる以外に、記憶にも留める。そして、後から必要とあらば、メモだけでなくこの記憶も基にしながら記事を書く。同様に、映像メディアの記者は、後から必要とあらば、放送用撮影テープ(メモに該当)だけでなく、記録用撮影テープ(記憶に該当)も基にしながらリポートを作る事もあるのだ。(なぜなら、頭の中の記憶は、映像化できないのだから。)文字メディア記者が取材相手から「無断で記憶するな」と非難されることがあり得ないように、映像メディア記者も自分の記録用撮影行為に後ろめたさを感じる必要は、基本的に無い。
とは言うものの、何でもかんでも「記録用」と称して撮影が許される、というものでは勿論ない。記憶が記者の脳内にしか存在しないのに対し、記録用撮影テープは物理的な存在であり、管理が甘ければ一人歩きする危険を孕む。だからこそ、被取材者がナーバスになるのだという事を、取材者側は十分に自覚し、安易に撮りすぎたり放送用に転化しすぎたりしないよう、厳格にわきまえる必要がある。

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[2] C班:ウエディング・トリック
作品のあらすじ:

ピンクのウエディングドレスを着た制作メンバーの一人(男子)が街中に。
遠くから見つめる人、通りすぎてから振り返る人、近づくと逃げて行く人と、反応は様々。また、「姿勢が悪い!」と注意する女性や、「男なのにそんな恰好をして恥ずかしくないのか」とお説教をする男性も。
全編ナレーションは入らず、テロップとBGMでの進行。

アドバイス:
=惹き付けの工夫=

冒頭、なかなかウエディングドレスが登場せず、道行く人のギョッとした様子だけが連続的に登場する。

視聴者は「一体何に反応しているんだろう」と、否応無く興味を掻き立てられる。不特定多数に何かを伝えたい時には、こうした≪耳目を集める工夫≫は大切である。(やり過ぎは良くないが。)

=なるべく≪現実≫で表現=

素顔のリアクションがどれも大変面白いのに比べ、その人のところに行ってマイクを向けたインタビューは、1本も面白くない。

質問が悪いのではない。インタビューという手法が根源的に持っている限界性を、極めて如実に物語っているケースだ。どんなに優れた聞き手でも、答え手がカメラとマイクを認知している以上、そこには所詮"虚構の世界"しか成り立ち得ない。

=一点集中は話を狭める=

コンビニで買い物をするウエディングドレス男。努めて平静を装っていたレジの店員達は、彼が店を出て行った後、ヒソヒソ話を始める。

しぶとい撮影で掴んだ、ナイスショット。とかくカメラは事象が起きている最前線ばかり向きがちだが、こうした周辺部への目配りが、かえって真実を捉えることがある。

=想定外の事態遭遇はチャンス!=

ウエディングドレス男に歩み寄ってきて、テキパキと姿勢を直すアドバイスを始めた不思議な女性のシーン。

→彼女が歩き去った後、それを見送る制作チーム自身の唖然とした表情を、カメラマンはぜひ撮るべきだった。人々の驚く表情を撮る側だった仕掛け人達が、一転して驚く側に回ってしまった、願っても無いドンデン返し。撮影開始前に想定していなかったこうした事象との遭遇こそが、現場取材で最も大切にすべき瞬間なのだ。「全て予定通り」の情報になど、何の鮮度もない。

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[3] B班:東大学生食堂の今昔
   D班:都内の風景/レトロと近代の対比

この両班は、仮編集の披露までたどり着けず、この日は別室でそれぞれ作業に従事した。

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 次回予告―

夏休み前の最終講義。各班の完成品を合評する。