小下村塾/投球の仕方--自分で発信!
東京大学「メディア表現演習」講義
今回から、いよいよ制作実習の映像編。昨日までの2日間行われた東大の学園祭『五月祭』を、班ごとに「五月祭はこんなに○○だ!」という意図に沿って撮影してもらった。前回の講義のテーマだった【同じ題材が、制作者の意図次第で何色にも染まる】恐ろしさを体感するため、あえて"意図に沿った映像作り"に徹したわけだが、さて、どんな出来あがりになっただろうか? 今回は各班の完成品を見ながら、
- 制作者の意図は、狙い通りに視聴者(他班の学生)を染めたか
- どんな場合に、作為の存在が視聴者にバレたか
- 意図的に制作してゆく過程で、制作者自身はどんな気持ちに染まったか
[1] A班:「五月祭はこんなに面白い」
≪内容≫
「○○いかがですかーっ?」と明るい声を出す模擬店の店員や、教室内の展示、音楽系サークルのライブ、講演会の映像などが速いテンポで次々に続く。ラストでは、学生が「五月祭は面白いでーす!」と笑顔でコメント。
≪制作者の感想≫
- 自分達が五月祭を楽しめたので、テーマに沿った題材は見つけることができた。
- しかし雨だったので、楽しそうなシーンが少なかった。
- プランを決めないで撮り始めたので、途中で何を撮るか迷った場面もあった。
- 盛り上がるイベントは午後に多かったが、メンバーの都合で午後は撮影できず、残念。
- ラストで「五月祭は面白い」とコメントしてくれる人を探したが、なかなかうまくやってくれる人が見つからず、苦労した。やっぱり"やらせ"は難しい。
この作品のポイント
【"やらせ"はバレる、と思え】
誰が見ても、ラストのコメントはわざとらしく、「言わされてるな」と見え見え。いくらうまいセリフを用意しても、表情やトーンなどから真実でないことが伝わってしまうのが、映像メディアの威力だ。視聴者に「これは嘘だ」とハッキリ意識されてしまうケースから、なんとなく真に迫らないことで無意識レベルで受容されないケースまで、制作側の巧妙さの度合によって濃淡はあるが、いずれにせよ、こんなトリックでは、意図したメッセージの伝達は成就しないとわきまえるべし。
【素材数の多さの強み】⇔【ブツ切れ感】
多くの場所を回り、様々なシーンを撮れていたので、見ていてボリューム感がある。しかし、視聴者役の学生からは、「どのシーンもブツ切れで終わってしまい、何をやっている所なのか分からない」という意見も。たくさんの素材をブツ切りの羅列にせずに見せるには、各シーンの理解を助ける"あと一言"(ナレーションなり、リポートなり、超短いインタビューなり)のアシストが欲しかった。
【自然ノイズの効果】
BGMを付けず、ザワザワとした現場の音を活かしたおかげで、その場の空気が伝わってくる。講演やインタビューなど、一つの音を集中して録りたい時にはジャマになるノイズも、場の雰囲気を伝えたい時には、有効な表現ツールとなる!
【「言葉」でなく「映像」で語れ!】
ラストシーンで学生がカメラに向かって「五月祭は面白いでーす!」と言っているが、被写体がどんなに「面白い」と言葉で叫んでも、それだけでは視聴者は同感しない。
≪言葉≫で押しつけず、≪映像≫で視聴者自身に「面白そう」と思わせるべし。
→「外から加熱する」のではなく、「内からの発熱を促す」!
[2] B班:「五月祭はこんなにつまらない」
≪内容≫
人のいないキャンパス内の通りや、気だるげなクレープ屋の学生のインタビュー、ガランとした講演会場などを撮った。実は大部分が"創作"。
≪制作者の感想≫
- テーマに沿った素材がなかなか見つからなかった。
- 演技したクレープ屋の学生は、彼のキャラクターのおかげでうまくいってしまった。(創作とは分かりにくい。)
- ガランとした講演会場も、実は自分達で状況を作って撮ったもの。空いていた教室で制作メンバーの一人がそれらしく喋り、数人がまばらに席に座っているところを撮った。映像の捏造は意外に簡単…。
- 雨がやんで皆は喜んでいるのに、自分達は「もう一度降って、つまらない雰囲気にならないかな」と思ったり、ネガティブなものを撮ろうとすると性格が歪んでくるのを実感した。
この作品のポイント
【ネガティブを狙うと心が歪む】
プロの報道従事者の心が常に歪みそうになる理由が、体感できただろうか。たった数時間の制作体験でも、学生達は性格が歪んでくるのを自覚症状として感じた。これが毎日の仕事となると、事件や事故などのネガティブな情報を扱ううちに、例えば犠牲者の数が少ないと「なんだ、その程度か」と瞬間的に思ってしまうようになりかねない。心を歪ませず、まともな人間の感性を保ちながらやっていくことは、想像以上に難しい。
【"作って撮る"ことの恐ろしさ】
この班は、つまらないシーンを「(1)ピックアップする」ことを早々に断念し、「(2)創作する」という方法をとった。しかし実は、露骨な"捏造"という手法をとらずとも、より巧妙に、面白い現実をつまらなく「(3)見せる」という意地悪も可能である。例えば、観客がたくさん集まっている講演会でも、何の工夫もなくロングカットをダラダラ撮り続け、人がいない席や眠たそうな人ばかり選んで編集すれば、「つまらない講演会」の映像になってしまう。そして恐ろしいことに、視聴者にはなかなかその操作は見ぬけない。
[3] C班:「五月祭はこんなにドメスティックだ」
≪内容≫
スーパーDJ"モンテスキュー"君(制作メンバーの一人)がナビゲーターとして五月祭を回りながら、五月祭とドメスティック(「家庭的な、家庭内の」「国内の、自国の」)という言葉とのつながりを解き明かしていく、という設定。
五月祭の盛り上がりとは裏腹に静まり返った図書館で勉強している学生、見物に来た高校生、地域の人に、"モンテスキュー"君がインタビューしていく。
≪制作者の感想≫
- 既知である「ドメスティック」という言葉の意味をもう一度調べ直し、「ひきこもり」という新しい意味性を見出した上で、どういう方向性で映像を撮っていくか考えた。「五月祭は閉鎖的だ」ということを中心に据えた。
- 楽しんでいるのは一部の東大生(そうでない学生は図書館で勉強)→東大生ですら全員が楽しんでいるわけではないのに、来場した他大学の学生や高校生は楽しめるのか?→地域との交流はあるのか?という構成にした。
- 地域の人にインタビューをしたかったが、カメラを向けるとなかなか答えてもらえなかった。
- ナビゲーターの喋りはちょっと長すぎたかも…。
(彼がスーパースターという設定の限りにおいてはOKだが、普通のリポーターならもっと大幅に言葉を刈り込む必要あり) - 撮影中に見つけた、半地下の薄暗い場所。思いつきでその場を撮ってみたところ、とても良い雰囲気が出た。
この作品のポイント
【行き当たりばったりの魅力】
実際に現場に出てみると、事前の計画よりも面白い素材はたくさんある。「何を撮ろう?」と慌てないための最低ラインの計画は必要だが、それに縛られて、現場に溢れる魅力的な素材を見逃さないように!
【テーマの中の意外性…予想を裏切られる魅力】
「ドメスティック」という言葉が「ひきこもり」という意味に通じているというのは、視聴者にとっては意外な情報。予想を裏切る展開は視聴者をハッと惹きつける。【着眼点の多さ】
五月祭そのものの様子だけでなく、その最中の図書館に目をつけたのは○。なかなか出てこない、多彩な着眼点だ。
【テーマの視覚化】
「閉じこもっている」というテーマに沿い、赤門(本郷キャンパスの校門)を、閉鎖された内界と外界との境界線として描いた。そうすることによって、視聴者には共通のイメージができる。撮影に行った時、自分達のテーマを象徴しているもの、具現化しているものを見つけられたら勝ち。その映像だけで、視聴者にはテーマが直感的に伝わる。
【他に目を奪われたら負け】
ナビゲーターが地域の方にインタビューを断られるシーンでは、画面の中に目立つ子供が入ってきてしまい、視聴者は子供に注目してしまう。本当に見せたい被写体を撮る時には、他に余計な物が画面に入らないように配慮しよう。
[4] D班:「五月祭はこんなにヒエラルキカルだ」
≪内容≫
ナレーションや字幕は一切なく、繁盛している模擬店、前にたまった雨水をホウキでかき出す閑古鳥の模擬店、派手なロックバンド、静かに和楽器を吹く男子学生、チャイナドレスの華やかな女子学生や来場した女子高生、地味な歴史研究会の男子学生、という順に映像が続いた。
≪制作者の感想≫
- 盛り上がっているものと盛り上がっていないものの対比がしたかった。
- 映像で語りたかったので、あえてナレーションは入れなかったのだが、少々わかりにくくなってしまった…。
- 雨に濡れてカメラが壊れてしまった。ビニールをかぶせるなど、雨対策が必要だった。
- 模擬店の前にたまった雨水をホウキでよけるシーンは、現場ではすごく面白かったのに、その場が狭くてうまく撮影できなかった。面白さが視聴者に伝わらず、残念。
この作品のポイント
【画面が区切られていることによる限界】
現場でどんなに印象的なシーンがあっても、狭く区切られたフレームの中でそのインパクトがきちんと伝わるか、気を使おう。「雨水とホウキ」のシーンは、上映中教室で誰も笑わず、伝導率がほとんどゼロだった。 阪神大震災の取材を経験したプロの送り手達は、「あの震災は絶対にテレビでは伝わらない」という無力感を、当時みんな持っていた。周り中すべてが破壊しつくされた悲惨さは、狭いフレームの中に到底収まらなかった。現場に行かず、テレビを見ただけであの震災を本当に理解できた人は、いないと私は思う。カメラは大きな限界を持っているのだ。
【映像だけで伝わり切らない時だけ、言葉で補助線!】
「映像だけで語る」という姿勢は最重要だが、最低限の補助線が必要な場合もある。例えば「明。」「暗。」というたった一言のナレーションや、登場してくる人達へのインタビューが少しでもあれば、もっと制作意図は伝わったはず。この作品では、各場面が"対"になってヒエラルキーを表現している、ということすら、視聴者は誰も気付かなかった。独り善がりになっては、何も伝わらない。受け手に対し、もっと優しく、丁寧に!
[5] 補足―"やらせ"って何だ?
A班が試みて視聴者にバレた≪やらせ≫と、B班が試みて視聴者を騙しきった≪創作≫とは、どこが違うのか? この際、しばしば混同されて「やらせ」という単語で一括りにされている類似概念を、下村流の現場感覚で整理・峻別しておきたい。"作為"の度合いが強い順に並べてみると―
(1)創作
・ 制作サイドの人間(起用した第三者を含む)が、カメラの前で、まったくの作り話を演じること。「やらせ」との対比で言えば、こちらは「やり」である。
→[例]空き教室に聴衆役のスタッフを配置し、その前でニセ講演者に喋らせる。
(2)やらせ
・ 本当の当事者に依頼して、カメラの前で、既に終わったある行動(一回限りで再現し得ないはずのもの)や、実際にはなかったがいかにも有りそうな、ある行動を演じてもらうこと。
→[例]「すみませんが、カメラに向かって『五月祭は面白~い!』と叫んで下さい」
(3)再現
・ 本当の当事者に依頼して、カメラの前で、既に終わったある行動(単なる歩行など、今後再び現実に起こりうるもの)をもう一度演じてもらうこと。
→[例]「すみませんが、もう一度店の前の水溜りをホウキではいて下さい。」
(4)演出
・ 本当の当事者に依頼して、制作者の伝えたいテーマがよりわかりやすく映像化できるよう、現実に起きていることの範囲内で最低限の協力をしてもらうこと。
→[例]「すみませんが、カメラが無いかの如く、そのまま自然に模擬店の客寄せをしていて下さい。」
【各手法に対する下村私見】
- (1) 論外の手法であるにも関わらず"論"にのぼるのは、それだけ現場にとって魅力が大きいからである。意に添わぬ現実よりも、意のままの創作に面白さを感じてしまうのは、「何をもって《面白い》とするか」の根本に関わる問題である。
- (2)(1)ほど露骨でないだけに、撮影現場で「つい出来心で」犯してしまいたくなる誘惑である。その意味で、制作者にとって《(1)は最も悪質、(2)は最も危険》と言えよう。
- (3)「発生のタイミングをずらしてもらっただけで、現実は現実だ」という考え方もあり、実際に全く抵抗感なくこの手法を多用している映像リポート制作者は少なくない。しかし、現場感覚としては、取材対象者に(3)を頼むことと(2)を頼むことには心理的に大差が無く、その意味で(3)はいわば"禁断の(2)" への入口になる危険性が高い。よって、余程やむをえない場合以外は、(3)も極力避けるべきだと考える。
- (4) 下村も通常用いる手法であり、ここまで「現実と違う!」と否定されてはかなわない、と思う。ただし厳密に考えれば、そこにテレビカメラが存在するというだけで、確かに《現実》の磁場は歪められているのであり、「自分は決して100%ありのままの現実を撮っているわけではない」という自覚だけは常に必要である。