小下村塾/投球の仕方--自分で発信!
東京大学「メディア表現演習」講義
今回は、前回から取り組んでいる映像制作実習第1弾の仕上げ編。東大の学園祭『五月祭』を、班ごとに「五月祭はこんなに○○だ!」という意図に沿って撮影した各作品を、細かく分析しながら、≪情報伝導率を上げるポイント≫を抽出した。
[1] ぼんやり撮るな、しっかりシュート(撃て)!
A班:「五月祭はこんなにおもしろい」の場合
能の舞台を会場の一番後ろから遠景で撮り続けた。舞台上の人物は豆粒のように小さく、客席はガラ空きで、居眠りする姿も…。こんな映像では、面白いものもつまらなく映る!
(学生の補足説明):
舞台が面白かったのではなく、居眠りが面白くて、わざとそこを狙って撮ったのだが。
(下村再回答):
だとしたら、その意図が全く伝わっていない。居眠り学生にズームインしながらナレーションで「楽しそうですねえ」と添えるなど、工夫をしなければ。
C班:「五月祭はこんなにドメスティックだ」の場合
制作メンバーの一人が扮する"スーパーDJモンテスキュー"君(彼がナビゲーターとして五月祭を回るという設定)が登場する場面。"モンテスキュー"が風景の中にまぎれ込んでしまっていて、視聴者は誰に注目すればいいのかわからない。
D班:「五月祭はこんなにヒエラルキカルだ」の場合
冒頭、安田講堂を遠くから撮った映像からスタートした。しかし撮る前に少し考えて、安田講堂を下から仰ぎ見るアングルで取れば、「ヒエラルキー」という話を象徴できたはず。
[2] 情報の"熱さ"を撮り逃がすな!
現場にある"熱さ"を、出きる限り温度を下げずに視聴者に伝えるには、何をどう撮ればいいのか考えよう。
A班:「五月祭はこんなにおもしろい」の場合
ロックバンドの室内ライブ、観客はノリノリなのだが、撮影者はただ静止して撮っているだけ。その場と撮影者の熱さがシンクロしていない。撮影者が踊りながら撮ってもよかったはず。 女の子がハツカネズミを手にとっている場面。女の子の表情が見えず、「カワイー!」という声も途中で切れてしまっている。表情や肉声は、最も伝導率の高いナマ情報!
[3]映像を輝かす、言葉の補助線
≪映像で語る≫ことが大基本だが、語り切れない部分は、言葉(ナレーションや字幕)で補助線を引こう。たった一言の補助線で、映像は一段と光を増す!
A班:「五月祭はこんなにおもしろい」の場合
現場の人に一言尋ねれば、情報性が格段に増し、視聴者にとって「訳がわからん」から「面白い」に転じる。例えば、『水泳部性格診断』の会場。もっともらしい顔をして座っている診断役に、「なんで水泳部が性格診断なの?」と尋ねてみればよかった。また、大勢の人が行列している『骨密度診断』の会場で、行列の先頭にいる若者に「何分待った?その歳で、そんなに骨密度、気になりますか?」と尋ねれば、情報性がグンと増したはず。
[4]視聴者の脳に余計な負荷をかけるな
映像は文字と違って、遡って見なおすことができない。視聴者に一度「?」が浮かんでしまうと、その後に出てくる情報は頭に入りにくくなってしまう。
B班:「五月祭はこんなにつまらない」の場合
撮影者が語りを入れながら五月祭を回っていくが、その語りに個性があるため、「どんな人が喋っている?」という情報飢餓感が生じ、集中して見ていられない。個性的な語りなら、リポーター顔出し形式ですべきだった。「!」の提示できない「?」は、与えるべからず。
講演会の場面。会場に入った瞬間と次のシーンでは、ステージの向きが逆に映っているため、視聴者は場面が変わったのかと思ってしまう。≪向き≫で戸惑いを与えないように。
C班:「五月祭はこんなにドメスティックだ」の場合
冒頭部分が冗長で、なかなか本題に入らない。視聴者は、意味のない映像には付き合ってくれない。「退屈」も負荷の一つ。
賑わっている模擬店と、静まり返った図書館のシーン。二つの映像が説明抜きで出た後で、「外の盛り上がり」「隔離された空間」というナレーションが入るが、視聴者に「さっきのシーンはそういう意味だったのか」と、後から遡って判らせるのは酷!
[5] "面白さ"の追求方向を誤るな
制作者が面白いと思って作っていても、"内輪ウケ"になってしまっては意味がない。視聴者にとって何が面白いのか、方向を誤らないように!
A班:「五月祭はこんなにおもしろい」の場合
「○○おいしいですよ!」「五月祭はおもしろいでーす!」と、被写体に声を揃えて何か言わせるシーンが多いが、これはテレビができた頃の古臭い手法。≪事実≫でないことは、誰が見ても寒い!
C班:「五月祭はこんなにドメスティックだ」の場合
案内役の"モンテスキュー"の喋りが全体的に冗長。形より≪内容≫で面白さを追求する努力を。要素は面白いのに、水で薄めてつまらなくしていて、もったいない。