参院選投票前日! TBS報道局長が語る、政治とテレビ

放送日:2007/7/28

明日は、いよいよ参議院選挙の投票日。投票行動の判断材料を決定的に握っている《選挙報道》の実相について、引き続きシリーズで考察する。
前々回前回とご紹介して来た鈴木哲夫氏の著書『政党が操る選挙報道』(先月出版/集英社新書)は、政党の“コミ戦”(=コミュニケーション戦略)という手法によって、いかに日本のメディアがイメージ操作をされているかをテーマにして書かれていた。
今回ご紹介する最新刊『テレビニュースは終わらない』(今月出版/集英社新書)の中では、アメリカ政治における“コミ戦”の現状(私に言わせれば、なれの果て)の様子が書かれている。この本の著者で、TBS報道局長の金平茂紀氏にお話を伺う。

■「TVが悪い」で片付けては、大きな見落としが

金平: ちょうど、僕がワシントン支局に赴任している間に、アメリカ大統領選挙と中間選挙の2回、取材の経験をしたんです。アメリカの大統領選挙っていうと、要するに国を挙げてのお祭りなんですよ。そういう事で言うと、日本の“コミ戦”のお手本というか、行き着いた先がきっとああなるだろうなという物を見せられたっていう意味で、とても面白くて。
  例えば、党大会なんていうのは大フェスティバルになってるし。日本のライブのショーを見ている感じで、歌あり踊りありで、いかに盛り上げるかばっかりでしょ。それからテレビでも、アメリカでは第三者の団体が作る政党CMは、(対立候補を)誹謗するネガティブ・キャンペーンっていう、相手の悪口を言うようなことが出来るんですよね、日本じゃちょっと考えられないですけど。そういうのを見てると、日本っていうのはまだまだ凄く牧歌的なレベルだなぁ、と思ったんです。
 ところが今、日本の報道振りや政党の選挙戦略を見てても、小泉さんの時代から、やっぱり大分変わってきたなっていう気持ちはありますね。

テレビが、影響力の大きい《道具》として機能してしまっている―――そんな事は、もうとっくに皆分かっており、そこを問題視しても意味がない。本当の問題は、その道具(テレビ)を使って、《何を》伝えたら大衆が動いてしまうのか、という部分にある。たとえば、金平氏はこの著書で、こんな例を挙げる。

金平: プロパガンダで言うと、ドイツのナチス党のイメージ戦略って大したもので、例えば「一家に1台、フォルクスワーゲン」とか「ドイツの森を守ろう」とか「貧しい人達を助けよう」って、凄いんですよ。イメージとしては、むしろ清新さを持っているみたいな。今でも、ナチスのポスターとか見ると、これは奇怪な魅力があるというか、改革のイメージなわけですよ。当時のドイツ国民っていうのは、そこに熱狂して支持したわけでしょ。物凄い支持率だったわけだから。

ところが、ナチス時代の主要メディアは、まだテレビではなかった。金平氏が例示するようなキャッチフレーズやイメージは、テレビなど無くても、大衆を熱狂させていった。「テレビという道具が悪いんだ」という、活字メディアによくありがちな批評は、当然ながらナチス・フィーバーの説明には全く使えないのだ。

金平: ドイツでも、戦争がああいう事になった時に、「何でこういう悲惨な事になったんだろうか」ということで、ナチスの責任は問われているわけだけども、そこに至るまでのPRとか、大衆操作という事について、僕らはもっと考えなければいけない。特に、今みたいな時代はそうだと思います。

政治のイメージ操作を、単純にテレビのせいにするだけでは、何の分析にもならないのだが、少なからぬ活字メディア人の心の奥底に沈殿する“テレビ性悪説”には、根強いものがあるようだ。

金平: テレビが出てきた時は、新聞と仲が悪かったりね。メディア同士っていうのは、同じコミュニティの住人だという意識がないんです。お互いに足を引っ張り合うみたいな、とても良くない状況の時に、一体誰が喜ぶのか? その点を、やっぱりどこかで考えてなきゃいけないって思ったんです。

■土俵作りの主導権

そういう状況を踏まえて、テレビ・メディアがしなければいけないのは、《アジェンダ・セッティング》だと金平氏は言う。

金平: これはデイヴィッド・ハルバースタムっていう、この間交通事故で死んだアメリカの大ジャーナリストが言ってた言葉なんです。《アジェンダ・セッティング》って、「議題設定」っていう硬い言葉で訳されていますけど、論ずべき議題は何なのか、ということです。私の知り合いが彼にインタビューした時に、「メディアの1番大事な機能っていうのは、早く正確に深く伝えるっていう事以上に、僕らが今何を考えなきゃいけないのかっていうことを設定するっていう事が凄く大事なんだ」と。僕は、本当にその通りだろうなと思っています。
 《アジェンダ・セッティング》の機能を、メディアが、きちんとイニシアティブを持って発揮するっていうことが無いと、誰かが設定しちゃうんですよ。

――他の何者かが「今日はこれについて話そう」っていう主導権を握ってしまうという?

金平: 土俵を作っちゃうというか。そうすると、そっちの方でしか議論が出来なくなると。それは凄く怖いことだと思うんです。

――だけど、それが必要なんだと分かっている人が現に報道局長をやっていても、テレビ報道は、《アジェンダ・セッティング》をすることがなかなか出来ずにいる―――としたら、それは何故でしょう?

金平: 1つは、テレビっていうのは《組織》だから。誰か1人の思いが通じるんであれば、そんなに楽な事は無いんであって。(実際は)そうじゃないですよね。ある種の勢いというか、空気に便乗するみたいな、マジョリティに付くというような。
  大きな流れが出来てしまうと、そこに乗ってしまって、小さな流れとか伏流する物に対して、なかなか目を向けづらいっていうのがあると思うんです。例えば、「年金」っていうのが出て来たら、「年金」以外の事は一切目に入らなくなるとか。前回総選挙で「郵政民営化」っていう話になると、「これは郵政民営化選挙だ! 国民投票だ!」みたいな感じになってしまって、それ以外の事に一切目が向かなくなる。それは、僕は凄く危険な事だと思
うんですよ。
 選挙っていうのは、民意を反映させる絶好の機会、唯一の機会と言ってもいいわけでしょ。だから、明日の参院選っていうのは、そういう意味で言うと、民意が示される機会であるので、その結果次第では何でもありですよね。そういう事も含めて、実は僕らは考えなきゃいけない。ところが、何となくこう、アジェンダっていうのが、こちらが設定する以前に、向こう側から(お膳立てされる)っていうのかな。
 今回、最初の頃は「改憲」がアジェンダっていう形で、政権の側が出してましたよね。ところが、これが不人気というか、ほとんど関心を呼ばなかったことがあって、今、「年金」っていうのがずっとトップになってますけどね。例えば「近隣外交」とか、物凄く大事でしょ。それから「日米関係」とか、「憲法」っていうのも凄く大事な話だと、僕は思うんです。「憲法」って、国の姿勢に関する事だから、そういう意味で言うと、本当はもっとそこで論戦が交わされて然るべきだったんだけど、「年金」っていうのがあまりにもね…。興味が無いからアジェンダとして成立しない、っていうことではないと思うんですよ

興味の有無だけでアジェンダが決まるのであれば、以前ITの風雲児“ホリエモン”氏が言っていた、「アクセス・ランキングだけでニュース・バリューを決めればいい」というのと同じになってしまう、と金平氏は喝破する。

■《放送報国》に陥らないために

報道が集団主義に陥ると、どう怖いか―――NHKの前身(当時の「放送協会」)の会長が、1941年12月8日、太平洋戦争突入の日の朝に行なった「《放送報国》の大使命に全力を挙げて邁進して戴きたい」という全職員向けの訓示を、金平氏はこの本で紹介している。

金平: 凄いですよ、これ。僕らの先輩がそう言っていたわけでしょ。当時のNHKの会長ですよ。NHK出版から出てる『放送の20世紀』っていう本で読んだんですけど。(こういうのをちゃんと記録に残してるって、NHKはまだ良心があるとも思いますけどね。)
 《放送報国》って、昔は当然だったんですよね。でも、考えてみると、「それは当たり前だろう」って思ってる人が今でもいるかもしれないって考えると、ちょっとゾッとするんですけど。

――“いるかも”どころか、そう考える人が増え始めてるっていう怖さがありませんか? “報道”局長がいつの間にか“報国”局長にならないように注意しなきゃいけない時代が近づいているような…

金平: 「報国」って言う言葉に含まれる「国」って、国家ですよね。国家っていう所から、メディアが相対的にどれだけ距離を置いていられるか。僕らも国家の中にいることはいるけれども、下村も僕もやった特派員なんかを経験すると、違った立場からも見られるから、国家っていうものを相対化して見ることが出来る。そこは凄く大事なことです。
 報道っていうのは、報《国》じゃなくて、むしろ《地球》サイズでいろんな事が出来るんだっていうのが、電波メディアとか新聞・活字メディアの素晴らしいところで。個人的な事だけ発信して、自分の国さえ良ければいいっていう風にはならないのが、メディアの普通の働き方でしょ。それが、違う局面になると、「国の為」みたいな風になっちゃうんですよね。

若干言葉の遊びになるが、報《道》と言うからには、《国》ではなくて《道》(あるべき姿)を意識して日々取り組まなければいけない。

金平: 報道は何の為にやるのかっていうと、難しいですよね。僕らが若い頃は、「国民の知る権利の代行をしているだけだ。僕らはある種の特権を持っているけれど、それは国民に知るべき情報を返していくために与えられているんだ」と言われていたけど、そういう責任をどこまで果たしているかと言うと、今は恐らく物凄い機能不全に陥ってて、国民のほうからメディアに対して、凄い不信感を抱かれてる。
 僕は2年前にアメリカから帰って来たんですけど、そこから考えても、自分の社も含めてこの2年間に起きたいろんな事は、不信感を抱かれて当然のような事があったのもやっぱり事実だと思うんですよね。だから、どうやってそれを回復していくかっていう事を、(メディア界の)内側にいる人達は、外にいる人達と一緒に考えなきゃいけない。それは、段々色褪せて来た「メディア・リテラシー」っていう言葉じゃとても抱えきれないような、《僕らの社会生活の在り様を問い直していく》という、もっと大きな事だという気がするんです。

参院選が終わる来週は、選挙報道というテーマを離れて、より広いメディア論で、この著書についての続編をお送りしたい。

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