前回に引き続き、新刊『テレビニュースは終わらない』(7月出版/集英社新書)の著者、TBS報道局長の金平茂紀氏にお話を伺う。今回は選挙報道を離れ、この本の主な題材である、(イラク)戦争をテーマとしたときに報道に立ち現れた様々な断面などについて伺う。
■“we”が引き起こす、異質な者の排除
金平氏はこの本の中で、従軍取材で記者が陥りがちな“危うさ”について触れている。中でも、いつの間にか記者レポートに「we(我々・私達)」という主語が出始める、という指摘は象徴的だ。
金平: アメリカのメディアの記者が自分の国の軍に同行して、自分の(国の)兵士の肩越しにリポートするとなると、普通、感情移入しちゃうから、「我々」と「敵軍」という風になっちゃうんでしょうね。実際に、「我が軍」とか「we」っていう風に言ってたし。
アメリカにいて、現地のイラク戦争報道というのを見ると、やっぱり愛国主義というものにかなり絡め取られていて、《距離感》が全く無くなっていたなという気はするんですよ。厳しい見方をすると、「それまで記者として、どういう訓練や教育を受けて来たんだ?」みたいな原則論を言う人もいるし。他方、(自国の兵士達と)寝起きを共にして、従軍=enbedded(埋め込み)取材という方法を取らされたら、「それは止むを得ないところがあるんじゃないか」と言う人もいるわけです。
日本の身近な報道問題に置き換えて考えると、例えばオウム報道の時、日本のメディアは、あからさまに「we」という言葉を使いこそしなかったが、気持ちの上で主語が“私達”になり、“そうじゃない者達”を向こう側に追いやって報道していた気がする。
金平: オウム=反社会的集団と規定された瞬間に、「彼ら」と「我々」っていう風になる(対置される)わけです。ところが、「彼ら」っていうのは「我々」と全く共通点が無くて、異質な人々なのか? 「我々」と「彼ら」を分け隔てる《境目》っていうのは、実はなかなかそんな簡単に言えるものじゃなくて、異質な者を排除するというような社会は、あまり健全な社会ではないと。
アメリカは、本当は多民族国家で、いろんな異質な人達が切磋琢磨しながら出来た社会だったでしょ。ところが、戦争になるとそれが、「united, we stand」って一致団結しちゃう怖さっていうか、「我々アメリカ人は」っていう風になっちゃうわけですよ。異質な者って言うと、例えばイスラムの人に対して“hate crime”っていう非常に差別的な犯罪を犯したり、火をつけたり、いきなりぶん殴ったり、ある種の病的な現象が蔓延したっていうのを見てて、「アメリカでさえこうなっちゃうんだったら、日本がもし何かなっちゃった時にどうなるんだろう」っていうような凄く怖い思いを抱いてたんです。
■コメンテーターの“従スタジオ”化
――日本のテレビの場合で言うと、記者の原稿が自制的でも、コメンテーターみたいな人達が、わりと簡単に「we」という言葉を使い始めて、それがどんどん空気を支配していくんじゃないかっていう危うさが…
金平: だから、「テレビのコメンテーターってのは、何なんだ?」ってよく言われるでしょ。例えばメインのキャスターが何か言った時に、コメンテーターが頷くと、それは“we”の集団になっちゃうわけですよ。「あれ?」って首をひねってる人が、本当はいても良いはずなんだけど、大体は皆「うん、うん」って頷いたりするんです。《場からはみ出す事が怖い》っていうのかな。
つまり、テレビの空間っていうのは、一種の調和っていうか。それを壊すのは、実はテレビの文法にとってみると、いけない事、タブーみたいになっちゃってる。(テレビに)出てる人に聞くと、「あそこ(番組中の一場面)でああ言われたけど、本当は僕はそう思ってなかった。だけど、言い辛いんだよね」みたいな事を、後から言われる。でも本当はその時に「それ、違うんじゃないの?」みたいな事を言うっていうのが、フェアな言論、表現っていうことなんですよね。なかなかそういう風には行かないんだけど。
――スタジオ内集団主義が、もう出来ちゃってる…
金平: つまり、従軍と同じなわけ。従軍じゃなくて、従スタジオか。(苦笑) スタジオにいるという事で、一員になるっていう。凄く怖い事だけど、意見が違ったりするのは当たり前の事なので。
――考え方・見方は、なるべく多彩に出した方がいいと思うんですけどねぇ。
■“一面的な多ソース”報道
日本のイラク戦争報道について金平氏は、この本の中で、「多ソースから情報を得て報道できた」というよく聞かれた自賛の総括に対し、《一面的な多ソース報道》じゃないか?という面白い疑問を書いている。
――多ソース、つまり確かにここからもあそこからも引用しているというのは事実でも、面の数では一面的であると?
金平: 日本のメディアは、イラクが陥落した時に、どの社も(現場に)いなかったでしょ。横並びで一斉に引き上げたじゃないですか。難しい判断だったけど。多分、その言い訳だと思うんですけど、「いや私達は、今度の話はこんなに一杯いろんなソースを検索してちゃんとやってます」って言ってる。だけど、(それらのソースは皆)同じ価値観に基づいてるから。
あのイラク戦争の時に、僕らが「こういうメディアがあって良かった」と思ったのは、やっぱりアルジャジーラでしょ。あれが無かったら、西欧的な視点からの報道しか無かったと思うんです。アメリカのメディアから排除されてた物を積極的に伝えたっていう意味で言うと、イラクの民衆の被害。婦女子がもう滅茶苦茶に死んでるってことについて、アメリカのメディアはそれ全部カットしますからね。見てる人は、カットされてるんだっていうことを分かんないじゃないですか。アルジャジーラがあったから、僕らはそれが分かったのであって。
それを僕らは分かってた。にも関わらず、日本の僕らは、どっちかって言うと、やっぱりアメリカ寄りなんですよ。アメリカとかヨーロッパの視点に引っ張られてる。後付けですけどね、こういう指摘が出来るのも。その時は、夢中で報道してたから。今になって考えると、やっぱりそうだなって思います。
後付けでも「しまった」と反省しないと、また次に同じ過ちを犯してしまう。多ソースと言っても、金太郎飴の断面の数だけ誇っても意味が無い。違う顔をした断面を用意しなければ。
■脱・横並びの“立ち位置”を
これもまた、日本の普段の報道で考えてみても、例えば昨年の秋田の畠山鈴香容疑者が逮捕された事件では、立件される前から「どうも、このお母さんが怪しい」という話になっていた。私も現場に入っていたが、いろいろな所(=多ソース)から入って来る情報が、まさに金太郎飴。多分、ごく少数を出所とする噂がぐるぐる回っているだけなのに、「ここでもあそこでもこう言ってます」となり、どんどん人物像が決め付けられていってしまった。
――普段から多分、日常のニュースでも時々やってますよね、こういう過ち。
金平: 同じ視点からのソースが幾らあったって、同じなんです。やっぱり《立ち位置》だと思うんです。(しかし現実には)メディアの《立ち位置》は、「突出しないで、皆同じで横並びの方が安全だ」みたいな所があって。その時に「どうもこれは変だぞ」みたいな言い方っていうのは、なかなかやり辛いんです。
特に今、世の中を覆っている空気が、この何年間かで凄く変わって来ました。例えば、論争的な話で言うと、死刑制度。ヨーロッパなどの文明国では、死刑制度は廃止です。ところが日本の場合は、真逆に行ってます。裁判制度自体が、ある種の仇討ちみたいな報復の場になってる。世の中全体が、物凄くフラストレーションの閾値が高まってるので、「やっちまえ! 裁判で吊るせ!」という、とても乱暴な議論がまかり通ってるでしょ。その時に、《立ち位置》の違う所で、「そうは言っても、冷静になろうよ」って言った瞬間に、ネットで集中攻撃を浴びるみたいな、とても不健全で良くない空気が、今日本を覆っていると、僕は思います。
確かに私も、最近これに関連するコメントを本音で発した時には、ちょっと“思い切り”が必要だった。
■市民メディアは止まらない、テレビニュースも終わらない
既存メディアがどうも同じ《立ち位置》にばかり集まりがちな中、市民メディアという新たな存在が台頭して来て、そこに期待も集まっている。金平氏もこの本に書いているが、逆にそういう新興メディアだったらOKなのか?という懸念には、私も同感だ。ついこの間まで「だってテレビで言ってたもん!」と無邪気に口にしていた“信仰心”が、「だって市民メディアで言ってたもん!」に変わっただけというような、振り子の行き過ぎがまた生じ始めている。
金平: 新興メディアっていうのは、既存メディアの代替には、まだ成り得てないって思いますね。今起きているのは、既存メディアに対する不信があまりにも強すぎるものだから、それに対しての「そうじゃないんだ」っていう幻想を代替メディアの方に過剰に求めてしまってるみたいな。
私の見方では、市民メディアとは、金平氏が言うような既存メディアの《代替》を目指すものでは、元々ない。両者は《相互補完》の関係で、共存する形こそが理想型だと思う。
しかし現実には、市民メディアの出現に派生して、難しい問題も起こりつつある。金平氏は、アメリカ大統領会見での実例を、この本の中で挙げている。
金平: ここに書いた例っていうのは、共和党員だった人がブロガーと称して(会見の場に)入り込んで、ブッシュ政権にとって都合の良い質問ばかりしてたっていう。それはやっぱりいくら何だって、そういう事をやってはいけないって思いますけどね。
このエピソードを読んで思い出したのが、イラクから日本人人質3人が帰国し、羽田に着いて緊急記者会見をやろうという話になったときに、弁護士達が、「どこまで記者会見の席に入場を許可するか」という事について非常に頭を痛めたという裏話だ。市民メディアの記者達や、優秀なブロガー達にもぜひ入場してもらいたい。だが、無制限に入場を許可すると、ただ人質本人達を面罵したいだけの者が、「自分はブログをやっている」と騙って入って来て、質問もせずにその場をかき乱すだろう。見分け方として、記者章の有無ぐらいしか思いつかない。しかしそれでは、市民メディアを排除してしまうことになる―――と、弁護士達は頭を抱えていた。(結局、ドクターストップで羽田会見自体が中止になったが。)
――私も、市民メディアを応援する立場にいますけど、こういう問題に直面すると、これからの市民メディアと既存メディアとの共存は、凄く難しいテーマを孕んでいると思いますね…
金平: ですね。まぁ、その事だけで、話し始めたら1時間位になっちゃう。(笑) 本来は、マスメディアの人達が覚醒して、「もう1回立て直しをやるんだ。もう1回ちゃんと国民や市民の信頼を勝ち得ようよ」という風に行くのが、普通の道筋だと思うんですが、それがあまりにも逆に振れちゃって…
――この本のあとがきにも書かれていますが、『テレビニュースは終わらない』というタイトルを打たれてるぐらいですから、絶望で終わらせるつもりではないんですよね?
金平: 絶望してたら、こういう本は書かないんで。
テレビニュースなんかもう終わりだ、と思われている方には、是非読んで欲しい1冊だ。