入江杏(著) 『この悲しみを知ることができるなら』 春秋社/本体1,600円(税別) |
新年初回にふさわしく、今朝はとても前向きな話題をお届けする。ご紹介するのは、先月出版された1冊の手記『この悲しみの意味を知ることができるなら』(春秋社/本体1,600円税別)。
著者の入江杏さん(ペンネーム)は、東京・世田谷で発生したあの一家4人殺害事件で犠牲になった宮澤泰子さんの姉で、今までにも2回ほどこのコーナーに登場していただいている。
この事件は、犯人が捕まらないまま、今週月曜で発生以来丸7年を迎えた。当時棟続きの隣家に暮らしていた入江さんは、先月、この事件以降の日々を、2部構成でこの本にまとめた。《喪失》について綴る「死の物語」と、《再生》への道のりを綴る「生の物語」。
この本を紹介したいくつかのメディアは、どうしても事件本体に触れる「死の物語」の紹介にウェイトを置きがちだったので、敢えてこのコーナーでは、後半の「生の物語」だけに眼をツケる。
■健やかさを信じる心を求めて
まずは、著書の一部分をご紹介する。事件発生の1ヶ月後、入江さんがまだ恐怖や不安や社会不信で心を閉ざしていた時期。 このままではいけないと思いつつ、心も身体も言う事を聞かない―――そんな気負いや力みが感じられる一節だ。
―――『この悲しみの意味を知ることができるなら』[P.139より抜粋]―――――――――――――
気軽に、いつもにこやかに。そんな気持ちになれなくても、無理にでも笑おう。そう思った。楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しくなる。自分にそう言い聞かせた。妹も、子供達のためにいつも明るく笑っていた。だから出来るだけ、笑顔で…。
もし、この大きな闇を、少しでも光さす場所に変えられたなら。もし、この悲しみの連鎖を断ち切れるなら。もし、この悲しみの意味を知ることができるなら。それを成し得るのは私の中の健やかさに違いない。なんとしても再び、健やかな心と体を取り戻さなくてはと思う。c入江杏/春秋社 {以下同}
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「なんとしても」という強い言葉に、《健やかさの回復》が、当時の入江さんにとってどんなに難しい目標であったかが滲み出る。
そんな、社会から引きこもったような日々を経て、事件から3年余り後、入江さんはようやく、一抹の不安を感じながらも新しい仕事を始めた。それは、学校の図書館での、子供達への読み聞かせ授業。この仕事を選んだ理由を、入江さんは、次のように語る。
入江: 読み聞かせは、何も喪失体験にまつわる話をしているわけではなくて、楽しい話もたくさん致しますし、おもしろおかしい話もいくらでも致します。結局それは、生きることの美しさであり、時には悲しさであり、はかなさであり。そういったものを何らかの形で共有して、そして結果的に人の絆が生まれれば、それは素晴らしいことだなと感じています。
私は、こういう犯罪の被害に遭って、犯罪に負けたくない、という強い気持ちがあるんですね。《犯罪に負けない心》というのは、やはり、《自分の健やかさを信じる心》でもあると思うので、健やかさを信じる心を育てるのは幼い時から、親子の絆というものが育ててくれるんじゃないかと感じていますので、読み聞かせは続けていけたらなと思っています。
■様々な「おかげ」と、「ただごと」の積み重ねと
この読み聞かせ活動は、聞いている子供達の心だけでなく、音読している入江さんの心にも、変化をもたらしていった。そのことを、入江さんは今回の著書の中で、こう綴っている。
―――『この悲しみの意味を知ることができるなら』[P.202、210〜1より抜粋]――――――――――
1学期だけでも、60冊以上の絵本を読んだ。にいなや礼がそうだったように、瞳を輝かせて、聴き入る子供達。幼い子供特有の、目をりんと張ったその表情に、二人の面影を見て胸ふさがれることも、何度もあった。けれど、読み続けること、声に出してお話を続けることで、二人の面影とともにいることが、いつか悲しみでは無くなってきたのはなぜだろう?
犯罪の被害者の報道の中で、「あの日から時間が止まってしまった」という言い回しを安易に使うのは、やめてほしい。亡くなった人たちだって、生きている私たちの中に生きているのだ。
私たちは生きている、一生懸命生きている。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
入江杏(著) 『ずっとつながってるよ』 くもん出版/本体1,000円(税別) |
「《私》は生きている」ではなく、「《私たち》は生きている」。この世田谷一家殺害事件で亡くなった泰子さん・みきおさん・にいなちゃん・礼君の命をも含む《私たち》。
―――こうして、入江さんは少しずつ、歩みを進めて行く。読み聞かせの次に訪れた大きなステップは、《自ら》絵本を作ることだった。 ちょうど1年前のこのコーナーでもご紹介した、『ずっとつながってるよ』(くもん出版/本体1,000円・税別)という作品。事件で亡くなった一家が実際にかわいがっていた子熊のぬいぐるみが、悲しみの淵からゆっくり立ち直っていく様子を描いたストーリーは、入江さんが自らの心を癒すために描き始めたものだった。ところが、思わぬ展開でそれが出版されることになり、新たな“つながり”が、静かに広がっていった。
入江: 絵本は、本当にはじめ、何としても事件のイメージから少しかけ離れたメディアで、自分の気持ちを伝えたかったんです。ちょっと難しいかなとは思ったんですけれども、幸いにして、こういった事件の生々しさを書かないで、絵本に、事件の悲しみをこめることが、何とかできたので。その段階で、まず、息子がとても喜びましたね。息子のその変化を見ることが、私にとっての大きな変化になったし…。
絵本を手に取って、逆に「励まされた」とおっしゃってくださる方。私が人を元気づけることが出来るんだということが、私にとっては、すごく喜びでした。驚きでもあったし。
《子供達》の為にと始めた読み聞かせが、入江さん《自身》の心を励まし、今度は、《自分》の為にと描いた絵本が、多くの《人々》の心を励ますという、出会いと響き合い。それは、自分の力で成し得たことではなく様々な人や出来事の「おかげ」であり、その出来事とは、特別な事ではなく「ただごと」の積み重ねなのだ、と入江さんは言う。
■どんな状況でも、人生にYESを
しかし、前を向いて歩こうと努めながら、時に後ろを振り向きたくなる胸の内も、入江さんは今度の著書の中で明かしている。
―――『この悲しみの意味を知ることができるなら』[P.257〜8より抜粋]――――――――――――
私のような凡人は、苦しみに敢然と立ち向かったと言えるのだろうか? 今でも心の中でこう思うことがある。苦しみを経て、悲しみを経て、私は人の絆のありがたさを知った。私自身、少しは成熟に向かったかもしれない。それはかけがえのないことだ。でも未熟なままの私でいいから、もう一度、この世で妹達に会いたい! 実はこんなふうに思ってしまう。そう思いながらも、やはり、フランクルのこの力強い言葉に心から感動するのだ。
《人生はそれ自体意味があるわけですから、……どんな状況でも人生にYESと言うことができるのです。……》 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ここで入江さんが引用している“フランクルの言葉”というのは、ユダヤ人の精神医学者ヴィクトール・フランクルが、ナチスの強制収容所での苦しい体験を踏まえて発した一言だ。フランクル同様、どんな状況でも人生にNOではなくYESと言おう!と心に誓った入江さんは、その思いを込めて、一昨年の絵本に続く2番目の出版となる今回の手記を書き上げた。
入江: まずとにかく犯人が捕まって欲しいと。ただそれはずっと、願っています。事件の不条理さ、こんな未解決で、このままでいいのかという怒りは今でも私の中にあるんです。けれども、今こうして実際に自分が4人の物語を書き上げてみると、怒りや悲しみももちろんなんですけれども、それ以上に、4人がいかに一生懸命生きていたか。どれだけ支えあって生きていたかという、その4人の《生の素晴らしさ》のほうが私の胸に迫ってきて、私を励ましてくれた。それが私の実感です。
生きるということがどんなに…たとえどんな亡くなり様をしたとしても、どんなに素晴らしいことか。生きることの美しさ。辛さと同時に、美しさというのを伝えたい、と思いました。一番伝えたかった「もう一度生きてみよう」というメッセージが込められた本になったなと思って、とても感慨深く思っています。
入江杏さんの手記の後半「生の物語」は、これからもずっと続いていく。
■行きつ戻りつ、それでも紡ぎ続ける。
この本を書き終えたこれから、どう生きてゆこうとしているのか。入江さんは、著書のあとがきの中で、きっぱりとこう言っている。
―――『この悲しみの意味を知ることができるなら』[P.264(あとがき)より抜粋]―――――――――
この本を書くことで、私は自分自身と和解することができました。それまでは、心の底で自分を責めていました。あんなにつらい思いをして亡くなった妹たちを思うと、私が生きる喜びに向かうことが許されるのだろうか、とずっと自分に負い目を感じていたからです。書き終えた今、涙より微笑みを選ぼうという気持ちが一層強くなりました。
でも、私のこの思いは、いまだ行きつ戻りつしています。犯人を目の当たりにしたら、心は憎しみで溢れてしまうでしょう。だとしても、今は微笑むことを選びたいと思います。と同時に、与えられたこの悲しみの意味をずっとずっと問い続けるつもりです。この悲しみの意味を問い続けることは、生きる意味を問うことになるからです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
今現在、入江さんはこの“悲しみの意味”を、こんな風に捉えている。
入江: こうしたらいいんじゃないか、ああしたらいいんじゃないかと相手に働きかける、というよりは、自分自身が変わっていくように務める、と私はそう思っています。自分が自分の物語を、自分の手で、紡ぎ直していく。
≪私にも何か出来ることがある≫―――そういうことだと思います。私自身の悲しみの体験が、何か私に出来ることを教えてくれるんじゃないかと思ってます。例えばこういう本を書くこともそうですし、悲しんでいらっしゃる方に寄り添う活動だとか、読み聞かせの活動もそうかもしれないですけれども、与えられたこと、自分が出来ることを一瞬一瞬、一生懸命やること。それがきっと私の《悲しみの意味》なんだと思います。