今週月曜日は、世田谷区の宮澤さんご一家殺害事件から丸2年の日だった。当時、棟続きで暮らしていた故・宮澤泰子さんのお姉さんに、一昨日お話を伺う機会があった。今回は、その模様をお伝えする。
事件が起こったのは、年末も押し迫った12月30日。去年は事件から丸一年ということもあり、正月を祝う気持ちには全くなれなかったとのこと。だが、今年は亡くなった4人の分まで陰膳を据え、しずかに新年を祝うことが出来たそうだ。
その陰膳には、普通のおせち料理の他に、焼き芋とチーズが添えてあった。その理由をお姉さんはこう語る。
「事件当日、妹が親戚から頂いたお芋をオーブンで焼いて、母に手渡してくれたんです。妹が亡くなる4,5時間前に母に渡し、ぬくもりが残っていた焼き芋なんです。
それから、妹の結婚記念日が12月の半ばにあったんですが、みきおさんが会社の近くですごく高いチーズを買ってきてくれたと喜んでました。ちょうど15回目の結婚記念日だったと思います。立派なチーズと立派なお料理を妹が作って食べたのが、事件から10日前だったと思います。」
−これからも、お正月はずっと一緒ですね?
「そうですね。お正月だけでなく、いつも一緒にいてくれると信じてますけど。」
−いつもはどんなお正月でしたか?
「本当ににぎやかでした。いつもいつも、あの時期には行事が集中しますので。クリスマスは、いつもクリスマスケーキを作って、お正月は近くの祖師谷公園でたこ揚げをしたりしてお祝いしていました。」
このようなお話をお姉さんがして下さった背景には、事件から丸二年が経過して「ようやく人の噂に上らなくなった」という安堵感、それと反対に「このまま忘れ去られてしまうのではないか」という焦燥感がある。その狭間で、輝いていた4人の姿を自分の言葉で伝えていかなければならない、という役目に気付き、このような思い出話をたくさんして下さったのだ。
半月ほど前、「世田谷事件の被害者・遺族を支援する会」が発足した。ご家族としては、この事件の報道を見ることすら抵抗があったが、この会の発足のニュースだけは、見る気持ちが違ったという。
「いつもの事件の取り上げられ方は、犯人の遺留品や包丁など、まがまがしいものと共に報道されています。ですが、地域の方々に呼びかけて下さっている支援の会の人々の報道は、ドキドキせずに画面を見つめられる自分を発見できて、とてもびっくりしました。」
支援の会の方には、今のところ犯人に結びつく決定的情報こそ届いていないが、別の意味で役に立つ情報が届けられている。それは、遺族の心をいやしてくれるような、生前の4人のお話、励ましの声などだ。
「一時的に、人生に対して否定的になったことがありました。以前からのお友だちも私達にどうやって声を掛けて良いか分からず、孤立感を味わったこともありました。ですが、今振り返ってみると、それは必然的で、しょうがなかったのではないかと思います。」
事件から二年が経った当日、下村も現場に向かった。事件現場となった家に一斉に向けられたテレビカメラの放列の背後で、近所の人達が花束を持ちながら、お供えに行けないで困惑している姿も見受けられた。その方々は、周りに立っている「支援の会」の人に花を渡し、記者達に気付かれぬうちにそっと去って行った。
花を供えに来た方の中には、にいなちゃんの同級生のお母さんの姿もあった。このことは一昨日お話を伺った際には、既にお姉さんの耳に届いていた。
「小学校の同級生のお母様方がお花を寄せて下さったのが、私としてはとてもありがたく思います。現地に行ってお礼したいという気持ちになったんですけど、今はまだ足を向けられないというのが正直な気持ちです。今でも、元のクラスが1年に一度集まって思い出を偲ぶ会をしていただいているとのことで、いろんな形で思っていただいているということが、私としてはありがたいことだと思っています。」
一方で、事件に対して過剰な報道をしたり、果ては面白おかしく取り上げる番組までが放送されている。これらをご家族の方が観たら、どんなに傷つくだろうか。これこそ、メディアの害悪だ。
「新春の、皆様が華やいでいる季節に、あえてこういう話をするということは、ためらわれる部分もないではないのですが、お話しできたということは嬉しく思いますし、お話を聞いていただいたことにとても感謝しています。」
これからも、お姉さんとしてはメディアを慎重に選び、思いを語っていきたいとおっしゃっていた。
事件を風化させないためには、マスコミに頼らざるを得ない部分もあるが、伝える側はその中でも一定のデリカシーを持って、伝えるべき事とそうでないことを慎重に選別していくことが必要だろう。