森達也監督&下村、合同講義で学生と熱論!

放送日:2007/8/25

まもなく夏休みも終わり、大学生達の就職活動もヤマ場に入る。
そこで今回は、メディアの世界にこれから就職を希望している学生たち約150人を対象に開かれた、東京の武蔵大学での特別講義をご紹介する。講師は、映画監督の森達也氏と私。学生達からの熱い質問で、報道のあり方について、なかなか深い議論が展開された。
森氏は、オウム真理教の信者たちの生活を内側から撮影して賛否両論の話題を呼んだ映画『A』『A2』の監督で、一昨年の4月に『ドキュメンタリーは嘘をつく』という刺激的なタイトルの本を出版した時、このコーナーにも来ていただいた。

■“正義の味方”になるな

学生A: 集めた情報を、限られた時間の中で報道する場合は、作ってる人がどう考えてるか、どういうふうに伝えたいかで《色づけ》されて伝わってしまうと思うんですけど、そういうのはある程度許されるべきなんでしょうか?

森: 何を事件にするか、何を報道するかで、そこにはもう《主観》があるわけですよ。誰かがそれを判断してるわけです。そもそもは《主観》なんだと。その《主観》から、どれほど《客観》に行けるか、中立公正に行けるかっていうところに、あがきは必要ですよ、ジャーナリズムはね。「最初から、客観・中立公正の場所にはいないんだ」ってことだけは自覚しなきゃいけないんだけれど、その辺をどうも勘違いしちゃう。すると、何がいけないかって、(報道する)自分が《正義》になっちゃうんだよね。そうすると記者会見などで、企業で不祥事を起こした人に対して、平気で「馬鹿ヤロー」「この野郎」って風に言えちゃうわけ。(報道機関が)懲罰機関になっちゃうんですよ。

「自分が正義になってはいけない」とは、悪党になれという意味ではなく、「尊大になるな、傲慢になるな」という意味だ。《中立公正》は、目指すべき目標ではあるけれど、今まだ自分はそこには到達していないのだと、報道人は謙虚に自覚せよ―――という、戒めの言葉なのだ。
偶然だが、10数年前、ある雑誌の企画で作家・家田荘子さんと対談した時に私が口にしたのも、「正義の味方という言葉は嫌いです」というフレーズだった。そのまま、その対談記事の見出しになったのでよく覚えている。学生達への森氏の言葉に、我が意を得たりと感じた。

■“金太郎飴”になるな

次の質問は、多くの視聴者が抱いている思いと同じではないだろうか。

学生B: すごくスクープみたいな事件、あるいは出来事が起こったときに、テレビでどのチャンネルを回しても、必ずそのニュースで同じ特集をやってるじゃないですか。どの番組でも同じ情報が延々繰り返されるだけで、どれを見ても大して面白くないなと思うんですよ。その時に、1局だけ何か全然違う事やってたら、逆にそっちの方に意識が向いてそっちを見たくなるように僕は思うんですね。

下村: これは、単純に皆が“特落ち”(=他局が報道している事を自局だけが伝えないこと)が怖いから、やっぱり他所でやってるのと違う事を放送する勇気が無いっていうことです。これは「べき論」ではクリアできない。「(情報は)多面体なんだから、いろんな面、違う見方も伝えるべきだ」っていうのは、皆もうメディアの勉強してるから、報道の人も知ってるんです。だけど、いざ今日のニュースで「他局が皆これやってるのに、うちだけ違う見方を伝えよう」っていうと、これはなかなか、デスクには相当な勇気がいるわけです。
 じゃ、どうしたらいいか? 簡単に言えば、複数の記者が出動するような大きな事件が発生した時には、内1人は「主流とは違う見方でしか取材しちゃいけない」という記者を置け、というルールを作ったらどうでしょう? そうしたら、その記者は渋々ね、もう業務命令だから、しょうがないから、「松本でサリン撒いたのが、河野さんじゃ《ない》可能性」について、必死で取材始めるわけですよ。それをニュースの中でちょっとだけでも「なお、○○記者の取材だとこういう情報もあります」という視点を、これも制度的に出さなきゃいけないことにしたら、今ご指摘の問題は、多少は緩和されるでしょうね。

この持論は、前にもこのコーナーで紹介したし、森氏らと一緒に以前出版した岩波ブックレット『報道は何を学んだのか』の中でも私は書いている。業務命令とまではいかないが、現に『サタデーずばッと』の中の『ずばッとリポート』では、チームとしてそれに近い取組みを試行している。

■留保付きで受け止め、両極端にブレるな

この他にも、メディアの限界についていろいろな問答があったが、それを黙って聞いていた学生の1人が、ふと素朴な疑問を発した。

学生C: それは全て、メディアの責任なのでしょうか。情報の受け手も、メディアを利用する立場であることを自覚し、ある程度の規範や仕組みを理解する必要は無いんでしょうか?

下村: 「良い質問だね~」って、(隣で今)森さんがつぶやいてますよ。これ(報道の発信・受信)は情報のキャッチボールですから、投げる人と取る人、半分ずつ責任があると僕は思ってます。当然あらゆる人間が、(投げ手と)同時に受け手でもありますから。取り損なう=エラーしちゃうってのは、キャッチする側の責任ですからね。あるいは、ボールかストライクかを見極めることも必要だし。そういう能力をつけようというのが、メディア・リテラシーなわけです。

森: じゃどうすればいいかと言うと、「1つの情報なんだ、“ワンノブ”(One of ~)なんだ。ちょっと視点をずらせば違うものが見えるんだな」という意識を常に持ちながら、接することですね。僕はそれが、正しいリテラシーじゃないかと思う。(現状では)《すっかり鵜呑みにするか、全部疑うか》みたいな両極端なんです。どっちも違うんですよ。

下村: (両極端というのは)メディア・リテラシーの事をちょっとかじり始めて、「報道は全部が真実というわけじゃないんだ」ということを知った後の反動で、よく起こる現象です。「もう何のニュースも信じられない!」ということになっちゃう。だけど、勿論それはそれで過剰反応です。
 多くのニュースを、《留保付き》で受け取ればいいんですよ。全部否定するんじゃなくて、「あ、こういう側面もあるわけね」「こういう見方も出来るわけね」とか、聴いた範囲までは受け容れる、っていうことをすればいいんでね。シロかクロかだけじゃなくて、世の中は総天然色なんですから。ホントに曖昧な、“何色”っていう言葉にもならないような、複雑な色をしてるのが世の中ですから。どんな善人にも、人に言えないような事はあるし、皆が悪党だって言ってる奴にも、実は凄く良いところあったりするし。

確かにメディア・リテラシーは、先生が教え方を間違えると、「報道は全部ウソです」という極端な受け止め方をする子供が育ってしまう危険性はある。現に子供に限らず、大人でもそういう人は結構いる。
また、大手メディアが何か報道した後、それに反する情報が「実は…」という枕詞で市民メディアに現れると、無条件でそちらを鵜呑みにしてしまう人もいるが、「市民メディアは善意の発信だから皆正しい」などという保証は、全く無い。これもまた、情報の受け取り方としては、エラーなのだ。大手メディアだろうと市民メディアだろうと、情報は、《留保付き》で受け取る。森氏の言う“ワンノブ”(1つの~)=「これは多面体の中の1つの面なんだ」という受け取り方が大切だ。

■当たり前の原則を忘れるな

学生たちからは、事件報道の根幹を突くような質問も出された。

学生D: 事件の報道の時に思っているんですが、《推定無罪の原則》っていうのがあるにも関わらず、いつもニュースっていうのは、警察が取り調べをしているとか、目をつけているっていう理由だけで、容疑者のような扱いをします。なんでその時に、ニュースの側は、「この人はまだ犯人じゃないかも知れません」っていうことをちゃんと言えないんですか?

「逮捕された人間も、起訴されて裁判で有罪判決が確定するまでは、無罪として扱う」という近代社会の重要な原則《推定無罪》。この問いかけには、森氏も加勢して、私に回答を迫った。

森: テレビの報道で、「逮捕されました」ってよくやってるでしょ。手錠かけられて、(その手錠の画像に)モザイクかかってる。皆、彼は犯人だと思ってるけど、この段階では本当は、(単なる)容疑者ですからね。《推定無罪の原則》から言えば、論理的には潔白なんです。これから裁判があって、そこで彼が本当に罪を犯したかどうかが問われるんですよ。でも、そういう扱いをしてないじゃないかっていうのが、あなたの質問。で、それに対してどう答えるか。

下村: なんで「まだ犯人じゃないかも知れません」っていちいち言わないかっていうと、逆にそれは、《推定無罪が原則》だからです。原則だから、もう皆それは分かってるっていう事を暗黙のお約束にしてるから、いちいち言わないんです。飛行機事故が起きた。それをニュースでやる時に、いちいち「なお、他の飛行機は墜落していません」って言わない。それと同じで、当然わかっている事はもう言わない。
 ニュースは1秒刻みで、なんとか少しでも多くの事を詰め込もうとしてる。いつもニュース番組っていうのは、もう直前まで編集長と各記者のせめぎ合いですから。「あと5秒削れ!」とか言われて「えーっ、どこ削ったらいいの!?」ってやってるわけですよ、いつも。いちいち、「なお《推定無罪の原則》がありますからこの人はまだ逮捕されただけで、単なる容疑者であって…」みたいな話を、人が逮捕されたっていうニュースに全部付けてったら、凄い時間食っちゃうわけですよ。だからもう、《日本人の常識として皆が知ってる》っていう前提で、言わないわけです。
 でも皆、(推定無罪の原則を)どうも知らないみたいなんですよ。学校で教えてないのかな? だから、「報道が、当然の前提として言わずにいる事に、こういう事があります」みたいな列挙も、メディア・リテラシーの授業に加えなきゃいけないのかな、とも思います。

確かに現実論として、いちいち原則にまで言及してはいられない。故に視聴者は、逮捕されたという報道だけで「あ、こいつが犯人なんだ」と早とちりをしてしまう。
しかし視聴者の側だけでなく、記者達も、《推定無罪の原則》を頭では理解していても、身体で表現しているかどうか―――つまり、書く原稿や喋るリポートのニュアンスに、「まだ誰が犯人か決まったわけではない」という気持ちが心から篭っているか否かは、自問自答の余地がある。

■覚悟を決めて、負の自覚を失うな

メディアの問題点や限界を、学生時代に机上で深く勉強していても、理想に燃えて現場に出た後、結局は組織の論理に飲み込まれてしまう学生たちも多い。今回、武蔵大学の松本恭幸先生は、「単なる理想論だけに染まっている学生達に、メディアの厳しい現実を教えて欲しい」という趣旨で、森氏と私を講義に招いた。
我々がメディア就職希望の学生たちを相手に、本当に現場のツラい話ばかりしたので、「就職を目指すのをやめた」という学生も出てきてしまうかもしれない。そういう反応も見込んで、私と森氏は、こんな厳しめの激励メッセージで、講義を締め括った。

下村: 事件の現場で、被害者に「俺たち見世物じゃない、出てけ!」って言われて、我々は追い立てられるんです。そういう仕事、したいですか? 憧れてメディアに入って、加害者になりたいですか?
 こういう話ばっかり立て続けにすると、「この業界に就くの、やめろ」って言ってるように聞こえちゃうかもしれないけど、そうは言いません。この仕事が果たす役割、意義、喜び、楽しみ、いっぱいあります。僕だって好きだから、今でも契約の形だけど、週のうちの半分は、報道の仕事を続けてます。だから、「やめろ」って言いたいんじゃなくて、「覚悟を決めて」就職活動に臨んでくれよって言いたいんです。今言った事、全部自分の中でクリアできたら、就職活動に臨んでください。少しでもビビるんだったら、まだ時間はあるから、メディア以外の職種に切り替えて、仕事を探して下さい。

森: 皆がもし、まだメディアに意味を見つけるんであれば…と言うか、見つけて欲しいんですね。見つけなきゃ駄目。地球が壊れます。だからこそ、負の部分をよく自覚してね。そういったものも含めて自分の中で、大事に、その自覚が消えないように。これすぐ消えます、集団の中では。でもホントにそういったこだわりを持ち続けながら、メディアを変えて下さい。じゃ、ご静聴ありがとうございました。 [拍手]

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