先月下旬、対照的なタイトルの2冊の本が、偶然たった8日違いで相次いで出版された。『ドキュメンタリーの力』と、『ドキュメンタリーは嘘をつく』。今回は、その『力』の共著者の一人・金聖雄さんと、『嘘』の著者・森達也さんにお話を伺う。
まずは、“力”とは何か。
大スクリーンからはね返る光が観る人たちに届いた時、映画はもうひとつの力をもつように思う。観る人がそれぞれの思いを映画に重ね合わせ、もう一つの物語がつむがれる。(『ドキュメンタリーの力』P.136)
―ここで言う「もう一つの物語」とはどういう意味なんですか?
- 金:
- 作品は同じなわけですよね。ただ、その観られるシチュエーションだとか、その場その場によって全然反応も違う。その場で観た人に届いた時に、初めて、もうひとつ違う力が加わって“作品”になるんじゃないかな、と。漠然としてますけど。
金監督の初作品『花はんめ』は、川崎市に住む在日コリアンの「はんめ」と呼ばれるおばあちゃん達を、5年にわたって密着し撮ったものだ。
―お客さんが「もう一つの物語」を紡ぐっていうことは、そこに描かれている「はんめ」のストーリーそのものとは違う何かを感じ取る、ということですか?
- 金:
- 僕は自分の作品上映っていうのは初めての経験だったんですが、上映が終わった後に観てくれた人が話かけてきますよね。そのとき、『花はんめ』の映画にあるのとはちょっと違う事を、「あのシーンが良かったです!」って、あたかも自分の事のようにして話すんですよ。きっと、作品を観てくれたその人がそれぞれに持っている、自分なりの生きてきた思いだとか経験だとかが、作品のどっかに引っかかって、そこで思った事をガァーッと僕に喋ってくれてるんですよね。それを聞いたとき、僕が思ってたよりもそれぞれの人の中に作品が入っていって、そこでまた、それぞれの人が自分の物語を紡いでいるのかなと、そうであったらいいなと思ったんですよ。
―一方の『ドキュメンタリーは嘘をつく』。いきなり刺激的なタイトルですが。
- 森:
- まあ、「敢えて」という部分と、「そろそろきちんと言っておかなくちゃならない」という部分とのふたつが、ない混ぜになってこういうタイトルになった、というところですね。無理につけたわけじゃなくて、僕は実際にそう思ってるんですよ。
では、“嘘”とは何か。著書から、最も端的に規定している一節を引用しよう。
現実をフィクショナライズする作業がドキュメンタリーなのだ。(『ドキュメンタリーは嘘をつく』P.124)
「フィクショナライズ」とは、“フィクション化すること”=お話にしてしまう、ということだ。
- 森:
- もうちょっと正確に言えば、フィクショナライズする意図がなくても《そうなっちゃう》ということなんですよ。つまり、ドキュメンタリーっていうのは、現実の断片を再構成する作業なんですよ。自分自身が現場で掴みとった感覚であるとか思いであるとか、そういったものに従って再構成をするわけで、やっぱり言葉にするなら「フィクショナライズ」なんですよね。これまでは、ドキュメンタリーっていうとすぐに、「事実の集積」だとか「客観性」「中立・公正」だとか言われてきたんですけど、それが逆にドキュメンタリーの面白さを損わしている、っていう思いがずっとあって、だから思い切ってここで言っちゃおうと考えたんですよね。
―金さんは、『花はんめ』を作る中で、自分も森さんが言うこの「嘘」をついたと思いますか?
- 金:
- 僕も『ドキュメンタリーは嘘をつく』を読ませてもらったんですけど、非常に共感するところが多かったですね。やっぱり、見たままをストレートに伝えることはなかなか難しい。だから、僕がその場にいて感じたり思ったりしたことしか言えないわけで、どんな《方法》で伝えれば一番それに近づけられるか、という思いでやってるんですよね。それが「嘘」だと言えば、きっと「嘘」なんだろうなという気はしますけどね。
だが金監督は、著書の中で、この「嘘」と対照的とも言える表現もしている。
何か特別なことを聞き出そうとか、びっくりする映像を撮影しようとかいうことではなく、いっしょにいて彼女たちが語りたい時に、耳をかたむけ目を凝らす。“映す”のではなく“映る”ことを大切にしようと思った。(『ドキュメンタリーの力』P.113)
―ここを拝見すると、「自分は透明人間たり得ている」という感じがして、これは、森さんの「嘘」論とは、違う考え方じゃないかと思うんですけど、いかがですか?
- 金:
- 透明人間になってるとは思わないです、現に『花はんめ』の映像の中には僕ら(取材クルー)の姿も出てきますし。「カメラを持って一緒に時間を過ごしている」ということだと思うんです。そのときに、意図的に何か聞くということよりも、何が作りたいのか、どうしたいのか自分でもわからないままに、「何か引っかかるもの・魅力的だなと思うことがあって、まずは行ってみる。その時に、きっと色んなことを語るだろうから、そこを僕たちがどう汲み取っていくか」、という思いで今回は撮影したんですけどね。
一方、森さんは「作為」の具体的な例をいくつも挙げている。そのひとつが、かつての人気番組『欽ちゃんのドンといってみよう』の名物コーナーの演出方法だ。そこでは、一般の人々にただカメラの前で「ドンといってみよう!」と言わせるのだが、皆なかなかうまく言えなくて、その可笑しさで、視聴者を笑わせる。そこに潜む“仕掛け”の真相を知るテレビマンの証言が、本の中に紹介されている。
「すんなり言えないように、演出しているんです。キャメラの横でディレクターが5、4、3、と指折り数えながらキューを出して、1のタイミングで視線をさっと逸らすんです。そうするとキャメラの前の人は、言っていいのかどうか自信がなくなって、あんな不安げな言い方をしてしまうんです。」(『ドキュメンタリーは嘘をつく』P.76)
これは実に巧妙なカラクリだ。テレビを見ている人には、そんな仕掛けは絶対にわからない。
- 森:
- うまいですよね。僕も子供時代、なんで皆こんな面白い反応するんだろうって思いながら、見てた記憶があるんですけど、そういう裏舞台があったんですよね。
―でも、これはバラエティーの演出方法じゃないですか。こういう「笑いをとるための演出テクニック」を敢えてドキュメンタリー論の本で引用したのは、「同じことなんだよ」という意味ですか?
- 森:
- 本質がそんなに違うとは思わないですし、映像の《撮って・つなぐ》という、最も基本の部分においては、バラエティーだろうが、ドキュメンタリーだろうが、ニュースだろうが、全部一緒ですよね。要するに、嘘であったりとか、あるいは作為的に撮るっていうのは、これはもう《大前提》なんだってことなんですよ。映像っていうのはそもそも嘘でもあるし、作為的に撮らない限りは存在し得ない。それを大前提としたうえで、個々の監督、ディレクターの個性であったりとか、あるいはテーマとか手法であったりとかによって、その虚構性の濃度っていうのはどんどん変わる。作為性をできる限り排除しようという作品もあれば、思いっきり全面的に出そうという作品もある。僕自身、自分の作品のなかでも虚構性の濃淡はずいぶんありますし、だから、全部が全部100%嘘なんだと言うつもりはまったくない。ただ、大前提としては「嘘」なんだと。
そこでもうひとつ大事になってくるルールは、「自分自身は絶対に裏切らない」ということです。つまり、制作している自分の思いであったり、現場で掴んだ感覚であったり。本の中で、それに対比する形で書いているんですが、マスメディアが一番陥りやすいのは、自分自身の主観に依拠するんじゃなくて、例えば会社や上司の方針であったりとか、あるいはメディア全般の今のルールや領域であったりとか、そういうところに依拠しちゃう部分。それよりは、むしろ自分自身にしっかり依拠しながら、思いっきり「嘘」をつく方が、僕ははるかに良質なんじゃないかと思うんですよ。
―金さんも森さん同様、初めはテレビの仕事をして来られて、今回、転じてドキュメンタリーを制作されたわけですけど、解放感というか、自分の思いに忠実に従えるっていう喜びはありましたか?
- 金:
- 森さんがおっしゃっていたように、やっぱり「テレビ」っていうシステムの中でやっていると、《自分がやる意味》は別に無いんじゃないかって思えてくるんですよね。だから、「自分がここに介在する意味は何なんだろう」っていつも思いながらやってますね。そういった点では、『花はんめ』に関しては、時間とか方法とか自由にできましたね。
中村尚登: | 《自分がやる意味》って、裏を返せば「嘘」につながりますよね。つまり、出来事を映像で撮るというのは、どの角度から撮るかによって、人それぞれ全然違うものが撮れてしまう。例えば、森達也なら森達也という人間の眼を通して撮った時点で、それは「現実に起きている事」ではなくて、ある「バイアスがかかったもの」になる。作品は、この段階で《嘘》になる。でも、森達也の見方だからこそ、それを知りたい、見たいと思う人もいる。 同様に、金聖雄が「自分でなければならない」と考えて撮ったとすれば、その作品はある意味において《嘘》になる。でも、その金聖雄が撮ってきたものを観て、「ああ、そうなんだ、こうなんだ」と感じ取る人がいれば、それは《力》になるわけですよね。―――タイトルを一見すると正反対のようだが、《嘘》と《力》は、根底の所で繋がっている、ということですね。 |
- 森:
- すばらしい…。3冊目は、中村さんが書いて下さいよ。『ドキュメンタリーの嘘と力』というタイトルで。(一同笑)
《自分がやる意味》が問われるというのは、逆に言えば、組織では合意形成が重要なために様々な“とんがった”部分が削ぎ落とされて、(川底を転がって行くうちに丸くなってしまった石のように)ゴツゴツとした面白味が無くなってしまう、ということだ。しかし本当は、物事はそんなに丸みを帯びて単純ではない。『ドキュメンタリーは嘘をつく』にもあるように、そこには必ず様々な《葛藤》があるはずで、その葛藤を出せるかどうかなんだ、と森監督はよく力説する。
これとそっくりの言葉を、『ドキュメンタリーの力』の中にも見つけた。金監督が『花はんめ』を撮るに至った経緯を記している部分。
いまの自分は、サーフィンもやりたいし、音楽も好きだ。集会やデモはなんとなくガラじゃない。でも、在日であるが故に受ける不条理には目をそむけたくない。そんな在日に対するごちゃごちゃした思いも含めて、“映画”というものもありなんや。(『ドキュメンタリーの力』P.83)
―この「ごちゃごちゃした思い」というのは、森さんの言う「葛藤」に近いんじゃないかと思ったんですが。
- 金:
- そういう揺れ幅みたいなものも逆に含めて、映像の中に出していった方がいいんじゃないかとは思います。
- 森:
- 事件とか現象とか人間って、多面的なんですよね。で、やっぱりメディアというもの、特にマスメディアというものは、その多面的なものの中から、どこかある一面を切り取らざるを得ない。しかも、それが整合性を持っていなければならない。どうしても、分かりやすく噛み砕いて、二元論化しちゃう。本当は多面的なもののはずなのに、他の部分はどんどん切り捨てられてしまう。僕は、ドキュメンタリーの領域っていうのは、多面性を出すことだと思うんですよ。そこで、どういった形で多面性を出すかというと、撮ってる側の葛藤であったり、矛盾であったり、そういったものをそのまま表出することが大事なんだと思います。
もっとこのテーマについて考えたい方は、ぜひ2冊の本をお買い求めいただきたい。違う光の当て方をしているだけに、読み比べることによって立体的なドキュメンタリー論が見えてくるかもしれない。
鎌仲ひとみ・金聖雄・海南友子 『ドキュメンタリーの力』 寺子屋新書 840円(税別) |
森達也 『ドキュメンタリーは嘘をつく』 草思社 1700円(税別) |