先日、日本大学で「テレビを問う」という単刀直入なタイトルの“8耐シンポジウム”が開催され、延べ500人以上の聴衆が集まった。鈴鹿サーキットの8時間耐久レースも、1台のバイクを2~3人のライダーで乗り継ぐが、今回開催されたシンポジウムも、壇上のパネラーはラウンド1・2・3と入れ替え制。私は最終ラウンドに登壇し、3時間を駆け抜けた。壇上で同席した6人の方の中から、同じ「テレビ出演者」という立場である田原総一朗氏と私の発言のエッセンスを、ご紹介する。
■低視聴率という名の「圧力」
まずは、「テレビの何が今問題か」という問いかけに対する、田原氏の嘆き。例えば、政治問題を扱う場合―――
田原: “政策論”をやると、視聴率が来ないんですよ。だから多分テレビのほとんどの番組は、政策論をやりません。“政局論”やれば、来る。で、1番来るのはスキャンダルですよ。そういう問題があるね。そういう番組がやたらに多い。それが僕は悩みなの。
例えば部落解放同盟なんかの問題を、僕は非常に苦労してやったんだけど、やっぱり視聴率は来ないんですよ。
下村: 社員が頑張って、「こういうの、やろう!」って言って社内的に企画を通して番組化を実現しても、結果ものすごく視聴率が低い。
田原: 解同(=部落解放同盟)の話をやってもね、すごく低いわけだ。
下村: ですよね。そうすると全然、視聴者が応援団になってくれてないわけですよ。そしたらもうこれは、1回頑張っても、社内的評価は「ほらダメじゃないか」となって、もう終わり。再び同じテーマを採り上げることは、とてもハードルが高くなってしまいます。だから、低視聴率っていうのは、権力の圧力よりも、もっとずっと大きな視聴者の《ネガティブな圧力》だと私は思うんです。「つまんない」と言ってそっぽ向いてる、視聴者の後頭部が見えるんですよ。みんな、あっち向いちゃってる。
じゃ、どうしたらいいのか? 「だから視聴者が悪い」っていうことで終わっちゃったら、このシンポジウムは何の意味もないんです。やっぱり考えていかなければいけないのは、そういう現実の中で、《それでもみんなに見てもらえる仕掛け》をこっち(テレビ局側)から打っていかなければ駄目なわけですよ。テクニカルにやっていくしかないかなと、僕は思ってます。
日本社会がきちんと皆で考えなければならない大切なテーマとして、田原氏が骨を折って部落解放同盟についてを番組メニューに載せても、肝心の視聴者が見てくれない。これにはガックリ来る。私も、いろんなテーマでそういう落胆を何度も味わっている。しかしそこで、「視聴者が良い番組を見ないで、くだらない番組ばかりに食いつくから、テレビの質が下がるんだ!」と批判してみても、悪いのはテレビ側か視聴者側か=《ニワトリが先か/卵が先か》のような水掛け論になってしまう。ならば嘆くのはやめて、発信者として、固い内容でも視聴者が興味を持って見るような工夫を必死で模索していくしかないだろう、というのが先程の私の発言趣旨だ。
■高すぎる視聴率など望まない
ここで、「視聴率が低い」と嘆く田原氏や私の気持ちを、「やっぱり視聴率だけを目当てに、番組を作ってるのか」という風には、誤解しないで欲しい。我々放送局側は、《伝えたい》から報道している。多くの人に、見て知ってもらいたい。どれだけの人数に伝わったかを知る物差しが視聴率なのだから、それが低くてガッカリするのは、当たり前の話だ。
そういったテレビ制作現場の思いを、視聴者にきちんと理解してもらうのは、難しいようだ。会場のお客さん達に質問を書いてもらったが、やはりこの議論を聞いていて、「視聴率ってそんなに大事なんですか?」「実情は視聴率目的の単なる商売になっているじゃないか」といった意見や質問が相次いだ。これに対しては、田原氏も私も、明確に反論した。
田原: いわゆる“生存視聴率”っていうのがあるんですよ。筑紫(哲也)さんともよく喋るんだけど、筑紫さんの番組も僕の番組も同じです。生存視聴率は7%です。7%切ると危ない。ただし毎回7%をとる必要はない。ワン・クール(3ヶ月)の平均が7%を超えればいいということがあります。
更に私は、スタッフに「10%以上は取るな」と言ってるんです。10%以上取ろうとすると、別の番組になる。だから、それは取らない。つまり、7~10%の間で勝負するんだ、というようなことも言っています。
だから、(視聴率を)取れば取るほど良いとは、全く思わない。
下村: TBS報道局には14年在籍しましたけど、「視聴率が良くないとスポンサーが…」というようなスポンサーの存在は、1度も感じたことないですよ。逆に高いと、ちょっと不健全だなぁと思うようなところがあって、田原さんが「10%超えるな」と仰ったのはすごく良くわかる。前にやっていた『スペースJ』という番組が一時30%を超えていたことがあって、これは絶対におかしいと。こんなに皆が見る番組って、(物凄い数の視線にさらされているようで)何か自縄自爆状態になっちゃう。僕が「もうTBSを辞めます」とその時期に上司に言い出したのは、まさにその高視聴率が(1つの)きっかけだったんです。
「なるべく多くの人に伝えたい」とは思うが、万人受けするように番組の質を変えてまで、ただ視聴率という成績をガツガツ上げに行こうとまでは全く思っていない。つまり我々の意識の中では、視聴率は《結果》という観点で重視するものであって、《目標》として重視するものではないのだ。私は会場の人達に、「世間は、《テレビ人=視聴率至上主義》という先入観にとらわれすぎ。その言葉で思考停止しないでくれ」と直訴した。
■生身の人間を伸ばすには
ただ一方で、その視聴率に代わる《評価の基準》がなかなか無く、この物差しが過大に1人歩きしてしまうという現実もある。そこでシンポジウムは、「視聴率以外に、番組を評価する具体的な方法は無いのか?」という話になった。
下村: 私は、視聴者からの「今日の番組良かったよ」っていうメールだと思いますよ。それが来ると、製作者として1通のハガキを1か月ぐらい大事にして、たとえ低視聴率でも、物凄く元気をキープ出来ちゃったりするということが本当にあります。
人間誰でもそうなんだけど、やっぱり皆、「この野郎」と思ったときに苦情の発信をするエネルギーは自動的に湧いてくるけど、「良かったなあ」と思うとそれで終わりなんですよ。褒めたメールを送ろうとまではなかなか思わない。良いと思ったら、もっと応援して欲しい。
田原: それもね、具体的に言いますと、『サンデープロジェクト』が終わると、だいたい電話が200本かかってきます。200本の中で、「今日のは良かった」っていうのは2割ですよ。
下村: そうですよね。
田原: 8割が、コテンパン。
下村: そうすると、そんな中で低視聴率でも評価する手紙やメールが、例えばテレビ局の経営陣やプロデューサーに届けば、そこでちょっと自信が持てるわけです。只の生身の人間がやってるんだから。結構、そういう事には影響されるんでね。
減点法では、ただ萎縮するばかりだ。もっと《自分の国のテレビを褒めて育てよう》という姿勢を、社会が持ってくれれば良いのだが。
■ 《ノイズ》と《沈黙》の力
シンポジウムはこの辺りから、「じゃあ、散々問題点ばかり考えてきたけど、テレビの持つ力、魅力は何なんだろう?」という話に展開して行った。田原氏が、テレビの「怖さ」という表現で挙げたテレビの力は…
田原: 活字じゃ絶対できないテレビの怖さがある。2つあります。
1つは《ノイズ》です。物事には、シグナルとノイズがある。活字は、シグナルばっかり追い詰めます。テレビの怖いのは、ノイズなんです。例えば、よく言うんですが、西ドイツと東ドイツがありました。東ドイツの国民は、西ドイツのテレビが見られるわけです。で、《言葉》に対しては、東ドイツは完全に理論武装してました。「西ドイツがこんなこと言うのはウソなんだ。ホントはこっちなんだ」と。ところが、ノイズに対しては防御できない。例えば、西ドイツのキャスターやアンカーマンが街頭でレポートをする。後ろをベンツが走っている。このベンツは、東ドイツにないですよ。それから、アンカーマンのネクタイがオシャレだと。東ドイツにはない。あるいは、洋服の生地が良いとかね。これね、新聞ではノイズなんですよ、単に。これがテレビの怖いところ。私は、冷戦が終わった、つまり、東ドイツが駄目になったのは、テレビのこのノイズ(が引き金)だという風に思ってます。
もう1つ、活字と違ってテレビが怖いのは、《沈黙》ということです。活字で、例えば僕が○○さんに聞きますね、○○さんが答えられないで黙っていると、黙っているだけなんですよ。ところがテレビは、その黙っているのを延々と映します。例えば僕の例で言うと、橋本さんがそうだった。橋本首相が、参議院選挙の1週間前に番組に出てきた。で、私が「はっきり言え!」と、あることを訊いた。(首相は)絶句ですよ。絶句して、全身から汗をたらして。それをテレビがね、だーっと、意地悪く3分映しました。これで(参院選に敗北し)失脚ですよ。活字じゃ絶対ありえない。
確かに、ノイズ(=雑音)も、その逆の沈黙も、活字では本筋ではないので切り捨てられてしまう。理科の実験風に喩えれば、いわば活字メディアは、沈殿物と上澄み液を分離して、純化した情報である上澄み液だけを伝える。ところがテレビは、もともとそういう分離をし切れず、上澄み液も沈殿物も丸ごと伝えてしまう。このパワーは本当に大きい。
■言論の自由は、誰のもの?
だが、そのパワーの大きさが、権力監視の方向ではなくて、非力な私人を痛めつける方向に時々向いてしまうことがある―――というのが、最近このコーナーでよく採り上げている、秋田事件や水俣病問題や栗東新幹線新駅報道のケースだ。
そこで、「報道や言論の自由なんか、法律でもっと規制しちゃえ!」という動きが出て来ている。シンポジウムの最後では、その問題が議論になった。「放送に対する法規制の強化は是か非か」というテーマを番組で採り上げても、やっぱり視聴率は低い。つまり、世間は興味を示さない。これを社会が問題だと感じていないのは、何故か?
下村: 放送規制のネタが数字(視聴率)を取れない理由の1つは、視聴者が、「それ、お前らの身内の話だろ」と…
田原: 業界の問題だ、と。
下村: そうです。そう受け止めていることの証だと思うんですよ。テレビがいくら「言論の自由を守れ!」と言っても、視聴者の人たちは「それ、お前らの業界の自由だろ」と勘違いしちゃってるんです、今。《国民の》知る権利じゃなくて、あんたら《記者の》知る権利でしょ、と思っちゃってる節が明らかにあって。そうなっちゃうのは何故かと言ったら、これは国民が無知だとかいうことでは全然なくて、やっぱりそこまでメディアが嫌われる振る舞いをしてきた自業自得だと思うんですよ。
田原: そうか、自業自得。なるほど。
司会: そこまで言う?
下村: うん、僕はいつもそう思う。
田原: いや、とにかくね、一般論で言えば、頑張らなきゃいけない。で、頑張るっていうのは、《1人1人》が頑張らなきゃ駄目なんですよ。「テレビ局」なんていう物はない。その勝負だと思ってます。つまり権力というのは、報道への介入をスキあらばドンドンやろうと思っている。当たり前です。それにどうやって対抗するか、この戦いです。
言論の自由があるのは、《憲法に保証されているから》じゃあないんです。言論の自由は、《勝ち取らなければいけない》。日常的に。
「勝ち取るべし」という田原氏の発言と、「自業自得だ」という私の発言は、対立しているわけではない。田原氏の意見に、私も全面的に賛成する。ただ、「勝ち取る」ためには世論が味方についてくれることが絶対に必要であり、そのためには、テレビ人側がまず己の振る舞いを見直さなければならない、と思うのだ。その暁には、視聴者の皆さんにも、ぜひ放送規制の問題を《自分の危機》として捉えていただきたい。