<お知らせ>
今回の放送内容には、音声でお聴き頂くことで初めて届くメッセージが多分にあります。文字だけでは、話のニュアンスをお伝えし切れないことを、お詫び致します。なお、携帯電話の機種によっては、放送の再録をお聴き頂けるサービスもありますので、詳細は末尾をご参照下さい。
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正式発見から50年ということで、昨年は時々ニュースに登場する機会もあった、水俣病。その“節目”を過ぎて、今年は殆どまた報道のメニューから消えてしまった。
そんな中、先日、「第8回水俣病記念講演会」が札幌で開かれ、私も司会者として参加した。この講演会は、1999年から毎年、東京で定期的に開かれていたが、もっと国内各地を回ろうということになり、一昨年には名古屋、そして今回は初めて北日本が会場となった。
講演会では、「生命へのまなざしを問われて」というテーマで、4人の方が非常に中味の濃い話をされた。その中に、昨年このコーナーでご紹介した、水俣病患者で漁師の杉本栄子さん(眼のツケドコロ・市民記者番号№50)の姿もあった。今朝は、その杉本さんのお話「私の宝物――海と、父の言葉と、水俣病」をじっくりお聴きいただく。
■封殺された、異変の通報
杉本: 「水俣病って何だったんだろう?」って、今日初めて聞かれる人のためにお話しさせていただきます。水俣の漁民は、魚が死んだとき、気づいたんですよ。気づいて、「海に異常があっとじゃなかでしょうか? 魚に何か異常があっとじゃなかでしょうか? 調べてくだまっせ。」と市役所、保健所、あらゆる所に(魚を)運んだんですよ。運んだ、運んだ、運んだんです。でも、何の回答もなかったのが水俣です。そんなことで、漁師の人たちは、「もう待ちきれんばい」と、「海にも異常は無か、こげん死んだ魚にも異常は無かんなら、獲りに行こうか」ということで行きました。
たくさんの魚が死にました。でも不漁という日はありませんでした。獲れました。食べました。売りました。本当に残念なことだらけですが、私たちはそれを続けました。売れましたよ、よく。でも、それは毒が入ってるっていうことを、誰も信じませんでした。
これは50年余り前、まだ人間に水俣病の症状が現れ始める以前の話だ。杉本さんたち漁民は、魚の異変に気づいて行政に届けたが、行政は敢えて動かなかった。実はその水俣の魚たちが、チッソの化学工場(日本の高度成長を支えた希望の星の1つであった)から垂れ流される廃水の中のメチル水銀を体内に取り込んで、汚染されていたのだ。何の手も打たれぬまま、人々は汚染された魚を食べ続け、後に数万人(認定や申請をしていない潜在患者を含む)とも推定される被害者を生み出してしまった。
■母の発病
病気の存在が正式に発見された後、原因不明のまま、「伝染病」という間違った噂が地元で広まり始めて3年目、杉本家ではまず、お母さんが発症する。
杉本: (昭和)34年になりまして、私の母が手づかみでごはんを食べるようになりました。「母ちゃん、箸は?」「重たか。どうもこうも、重たか」 私の前で(箸を)持ってくれるんですが、すぐ落ちます。朝早く水汲みに行きます。(普段は)草履を履いていくんですが、裸足なんですね。「母ちゃん草履は?」「履いとるばい」って言うんですが、裸足なんです。
(ある日)夕方帰ってきて、「母ちゃんただいま」って言っても、母の「お帰り」っていう言葉がありませんでした。行ってみたら母は庭の真ん中に座っとって、ぶるぶる震えていました。「母ちゃん、どげんした?」と言っても振り向きません。顔も手も足も、真っ赤に火傷していました。母はタバコを吸っていたんですが、ライターっちゅうのが無くて、マッチで擦って火をつけていたようですが、痙攣のためにうまくつかなかったようです。だからそのマッチ棒がいっぱい母の周りにあってですね、痛い顔もしていません。一点を眺めただけでした。
■偏見の始まり
周りで原因不明の奇病の噂が流れる中、身内である母のこの姿を見た杉本さんのショックは、相当なものだったに違いない。しかし、衝撃はそれだけには留まらなかった。更に別の種類のショックが、このあと杉本さんを襲った。それは、病院に運ばれたお母さんの病名を報じるラジオのニュースを聞いた、という近所のおばさんの来訪で始まった。
杉本: 「今ラジオ放送でな、あなたの母ちゃんの名前ば言うて、マンガン病って言ったばい。7時のNHKのラジオ放送で。あれは全国放送だったばい」ということです。で、そのおばさんが言うには、「雨戸を閉めろ」って言うことになったんです。マンガン病って初めて聞きました。「何だろう?」って言っても教えてくれません。でも、いつもに無い怖い顔で言うもんだから、雨戸を閉めました。今日の(講演)会場のように真っ暗です、雨戸を閉めれば。雨戸を閉めるって、台風以外に無かったんですよ。…まさかそれが、開けられなくなるとは思いませんでした。誰も私の家には、来なくなりました。
その晩1人で考えることは、「マンガン病って何だろう。どうして人は来ないんだろう?」。暗いです。寂しいです。暑いです。朝早く、少し戸を開けました。「なぜ戸を開けるのか!」と、石が飛んできました。雨戸に当たる石の音は、太かったです。耳が痛かったです。それから暗い所、音のすることの怖さを体が覚えています。いまだに思い出すだけでも、痙攣が来そうです。(涙声)
ほんとうに、やっと皆さんの前で、北海道で話せるようになったんです。水俣の漁師は、言葉を持たない漁師です。舟の上で、言葉を発するということはなかなかありませんでした。「標準語で語れ」って言っても語れません。1人1人が、まだ皆の前に行って話したくない人がいっぱいいます。語り部は9人しかいません。
数万人という沢山の被害者が出たにも関わらず、語り部として、水俣病体験を自ら積極的に語っているのは、わずか9人しかいない。裁判を起こしたり認定申請をしたりする人は多くても、今でも殆どの人が沈黙したままだ。その裏には、社会の白眼視が現実にあるという。この《社会現象》まで含めて「水俣病」という病気なのだ。
■仕返しを禁じた父
それまで漁師の網元として地域のまとめ役だった杉本家は、一転して、地元で差別・偏見のターゲット第1号になってしまう。その理由を、杉本さんは次のように語る。
杉本: 村で(我が家が)1番にいじめを受けたのは、病院に行ったからです。放送されたからです。(本当は)私の村で1番に病気にかかったのは、(あちこちの家の)爺ちゃん婆ちゃんです。その爺ちゃん婆ちゃんはどうしたのか。みんな、家で囲いました。病院には行きませんでした。
なぜか。納得するように教えてくれた父の言葉はありませんでした。話せば話すほど、むなしくなる一瞬でした。父から帰ってくる言葉は、「これからこらえて行くわいね」っていう言葉でした。「何も悪いことをしていないのに、いじめられていじめられて、なぜこらえて行かんばならんか!」(という)私の言葉に、父は何も言いませんでした。
入れ替わり立ち替わり「出て行け!」ちゅう親戚がおって、そんな村に変わってしまって、漁師の人たちはチッソに行くようになって。「弁当いっちょ持って行けば、チッソは給料くれらっし。チッソという会社は良か会社ばい」と言う、サラリーマンの人に変わっていったわけです。
こんなことで、沢山の事を経験しながら生きてくる51年って、長かったですよ、皆さん。…でも父はいじめ返しを1回もさせてくれませんでした。(後に発病した)私は「いじめ返しをして死にたい。人様より早く死ぬなら、いじめ返しをして死にたい」と言いましたが、父はいつも私に言ってくれました。「みんな昔は、良か人じゃったばい」。父の言葉だけ聞いとけば、とても本当でした。でも辛かったですよ。「自分が辛かちゅう思いは、いじめ返しをすれば、その人も辛いじゃないかねぇ。こらえて死のうわい、ホッとして死のうわい」と(父は)言いました。
漁が出来なくなった漁民の人たちは、チッソに雇われサラリーマンになっていった。チッソに取り込まれてしまえば、もうチッソの事を悪くは言えない。ますますこの問題は、地域のタブーになって行った。
そんな中で杉本さんのお父さんは、死ぬ直前、「やはり本当の事を明らかにしたい」と漏らした。その遺志を次いで、娘の杉本栄子さんが水俣訴訟の原告の1人になったという。
■語り部になった理由
裁判を起したこと自体が、また「国やチッソに盾突くのか!」という批判の対象になったりして、杉本さんたち患者の苦しみはそれ以降も続く。世間(メディア)は昨年の認定50年で一区切りという空気だが、実際の苦しみは何も変わっていない。むしろ、水俣病は、違った形で全国に一段と広がっている、と杉本さんは警告する。
杉本: 語り部になった理由として、テレビがある時代になって、日本中に「いじめだ」「差別だ」「また親が子を」「子が親を」っていう放送を聴く時、私たちが1番に思ったのは、「水俣病が日本中に散らばったんじゃなかろうか」ということで、心が痛みました。最初村々で、「奇病だ」「マンガン病だ」って言われた人たちは、いじめから始まったんです。
いじめがあるならば、差別があるならば、それは誰が変えるのか。「親が悪い」「友達が悪い」「先生が悪い」じゃなくて、1人1人気づいた人たちが変わっていけば、日本中に差別もいじめも無くなっとじゃなかろうか。それなら、「自分ばさらけ出して語りついで行かんばならんのじゃないだろうか」ちゅうことで、家族で話し合いました。主人も私も、語り部になっています。自分がしなくてはならないんだな、この事で生かされているんだな、ということも実感しております。
本当に、聴いて下さいまして、有難うございました。どうもです。(会場拍手)
病気そのものよりも、水俣病問題を生み出した根源―――それが未だに、日本社会の至る所に色濃く残存している、という指摘。まだ完治していない《社会の病気》としての水俣病を、これからもずっと考えて行こうというのが、今回の講演会を主催したNPO『水俣フォーラム』だ。全国で約1000人の会員がおり、今回の司会を機に、私も遅ればせながら入会した。昨年このコーナーで宣言した「継続的に着目してゆきたい」を、地道に実践すべく。
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