50年目の水俣で、産廃処分場建設巡り市長交代劇

放送日:2006/2/11

6日前の日曜(2月5日)、熊本県の水俣市長選で波乱が起きた。地元の熊本日日新聞では、1面トップで「水俣市長に宮本氏/現職江口氏に大差」と大きく報じられた。当初断然有利と見られていた自民党の現職市長が、無所属の新人候補に完敗するという、大逆転の展開をみせたのだ。その影には、もう現地以外では普段ほとんど語られることの無くなってしまった、あの《水俣病》の存在が、密接に絡んでいた。

そもそも水俣病の症状に今も苦しめられている人は、認定患者で存命の方だけでも900人以上。亡くなった方も含めると、認定患者の総数は3000人弱だ。それ以外にも、認定申請はしているが審査手続きが棚上げになったままの人が3500人余りいる他、申請もしていない沈黙の患者数は、誰にもわからないのが実状だ。
この病気が公式に確認されてから、今年でもう、ちょうど50年になる。その水俣病が、なぜ今、次の市長選びを左右することになったのかというと、実は現在、水俣市の山の中(水源地でもある場所)に、ある民間企業が、日本最大級とも言われる大規模な産業廃棄物処分場を建設するという計画が持ち上がっているからなのだ。こういう計画の出た地元では、大抵反対運動が住民の間で起こるが、特にここは、チッソという会社の工場が流した水銀という名の《産業廃棄物》によって、水俣病が発生して長年苦しめられてきた土地だけに、反発が非常に強かった。そして、この計画に対してあいまいな態度を取っていた現職市長の江口隆一氏が落選し、断固反対を訴えた新人候補の宮本勝彬氏が勝った、というわけだ。

■みかんが食べてもらえない

早速、開票の翌日から2日間=今週の月・火曜、現地を訪ねてきた。
逆転勝利が決まった44時間後に開かれた産廃反対住民達の会合で、口々に語られる当選の喜びの言葉の中には、全国の人達の多くが忘れている、この水俣の人達が《今も背負う苦労》が滲み出ていた。
まずは、水俣市民の人達が未だに直面させられている、水俣以外の地域の人達からの根強い偏見について。

女性A: 私は、水俣病を知らないで水俣に住みつきました。そして、(ここで穫れた)甘夏を実家に送ったら、「水俣病が移るから食べ物を送るな」と言われて。それから、水俣病を勉強しようと思って、勉強し始めました。
女性B: 自分はよそ事て思て聞いとった。だけど、自分の息子が福岡の大学に行って、甘夏が好きだけんと思て、一番に送りました。そしたら、それが水俣出身ちゅうことで、みかんはもちろん食べてもらえんかったけど、寮にもおられんようになって、出ましたて。こぎゃんこつ、おかしかじゃなかですかて。甘夏に、水俣病と何の関係あっとですかって。だから、「自分のふるさとは水俣です」て言えるような町にせにゃいかんですな、とずっと思い続けて来ました。

一度根付いた偏見というのは、流し去るのには本当に歳月がかかるということを改めて痛感する。それでも、少しずつその偏見を取り除こうと努力してきているのに、ここでまた「全国最大級の産廃処分場が!? なぜ!?」というのが、反対派市民の思いなのだ。

■今でも大きいチッソの存在感

水俣病の場合、原因の水銀を垂れ流していたチッソの城下町のような所だから、「チッソに逆らうのか」「地元経済の足を引っ張るのか」という、住民同士の間でのプレッシャーみたいなものが、患者にのしかかった経緯があった。
驚いたことに、そうした地域内での気まずさ・難しさは、今も厳然としてあるようだ。この産廃処分場を造ろうとしているのはIWDという首都圏に本社がある企業で、チッソとは直接関係ないのだが、選挙となると、やはりチッソを初めとする地元経済界の人達は、基本的に自民党候補を支援する。そこで、対立候補を表立って応援することには、やはりある種の“勇気”を必要とする人もまだまだ多いようで、この集会でも、「チッソ」という言葉が何人かの発言から聞かれた。

女性C: 今回良かったのは、あの、私の甥夫婦がですね、チッソ関連の企業に勤めてます。その甥と話が出来て、「自分達が大好きな湯の鶴地区が産廃に侵されるというのは、とても自分達としても耐えられない」というようなことを言ってくれました。で、「チッソももっと根本的なことを考え直さなくてはいけない」と。そういった、自分達がこれからここの町で生きていくっていうのはどういうことかっていうのを、産廃問題を通じて何か考え始めてくれたっていうのが、一番良かったなって思います。
男性D: 私はですね、(定年退職まで)チッソに勤めてて、水俣病を発生させてしまいましたので、今度はあのような過ちを絶対起こしてはダメだということで、この産廃問題に最優先で取り組んできたつもりです。
女性E: 主人の父は、チッソの会社に勤めていました。だから、私の中では心苦しいなあ、というのが常々ありまして。でも、それとこれは別なんだと思いながら、今日もやって来たんですけども…泣くことはないんですけど、ごめんなさい。(涙声)でも、なんか皆さんと知り合って、本当に私の気持ちの整理がつきました。本当に勝手な想いですけど、ありがとうございました。(拍手)

最後の女性は涙に暮れながらの発言だった。この涙の裏、家族の間でどんなやり取りがあったのか、我々には測り知れないが、やはりこの町でのチッソという企業の存在の大きさを感じずにはいられない。

■「心がものすごい、いいです」

産廃問題、世間の偏見、チッソの存在感---と列挙すると、反対派の市長候補陣営は、勝つまでは悲壮感ばかりが漂っていたような感じがするが、さにあらず。例えば、水俣市役所関係の仕事をしていながら現職市長の対立候補側について運動する格好となった男性は、この集会で、感極まった様子でこんな発言をした。

男性F: 今、皆様方に御礼言いたいのは、この会に入りまして、人間として、心がものすごい、いいです。役所におったら、こういう人のつながりというのが100%分かりません。私もこの会に参加して、人の心---十分私の今後の人生の役に立てたいと、このように感じております。
それから、選挙中でございますが、色んな角度から、私も非難を受けました。「何ですか! あの人達を一緒になって」と。そういうこともありました。それにめげず、皆様の、政党とか色んな立場の人のつながり、これを超えた喜び、あの笑顔。私はもう、私の人生の1ページに刻み込んだと考えております。

こうして声に出してのプレッシャーには遭っても、結局、選挙結果に示されたのは、無言の応援の方が大きかった、ということだ。
この会合が開かれた場所は、『俣に廃はいらない!市民合』(略称=ミナ・サン・連)の事務所で、その壁には、こんなスローガンが大きく掲げられていた。《人選び 金や職のしがらみを越えよ》---この男性は、まさにそのしがらみを越えられたわけだ。

■“海ん者”と“山ん者”が繋がれば…

実際の水俣病の患者さん達も、体の自由が利く人は、今回の選挙で産廃処分場建設反対候補の運動にずいぶん参加していたようで、現にこの日の集会にも何人も顔を出していた。そこでは、「この選挙運動によって、初めて患者と一般市民が、一緒に一つの目標に向かって行動する機会が得られた」という声が沢山聞かれた。

男性G: あんまり水俣病ということに真正面から向き合わずにきた(一般市民の)方々も、今回のこの産廃問題に通じる市長選挙に対してですね、「あの経験をしたから頑張らにゃいけん」と。非常にそれはそれなりに意義があったと思っております。
男性H: 我々、袋地区に住んでて、地元の患者の皆様と、隔たりがあった。やがて50年近く住んでるんですが、我々市民、まあ自分は普通の市民だと思ってまして、今までは、はっきり言って栄子さんとか何とか、隔たりがあったんですよ、現実に。お互い溝を埋めましょうという色んな行政(の試み)の中で、埋まらなかったんですよ。私PTAの会長を長くやっておりまして、PTAでいくら努力してですね、この溝を埋めようと思っても、埋めることが出来なかったんです、実は。ところが、今度のこの産廃の問題は、それを埋めてくれてるんですよ。それがひとつ、良かったなと思ってます。

水俣全体が、大きな偏見や苦しみの中にありながら、その内側で、患者と一般市民の間にもこういう大きな溝がある、という二重三重の苦しみが、水俣病の一つの重大な特徴だった。
まだ水俣病の原因が不明だった頃に、伝染病だと思われて避けられたことから始まった溝が、「チッソに歯向かうのか」という溝に発展し、認定がなかなか進まない中で「補償金目当てじゃないのか」といった新たな偏見も生まれ…という歴史を、この50年辿ってきた。

近年、なんとかその溝を埋めようと様々な努力がなされてきたが、そのどれよりも今回の選挙が患者と市民の距離を縮めた、と人々は口々に言うのだ。
Hさんの話の中で出てきた「栄子さん」というのは、漁師の網元だった父と母を水俣病で亡くし、ご自身も患者という立場で、水俣病の《語り部》を務めている杉本栄子さんのことだ。この日の集会にも参加していて、感慨深げにこう話された。

杉本:
「(水俣病は)海のことばっかり」じゃったちゅう思うとった山の人達が、私達が行けば聞いてくださる話になったこと。そして、「皆が考えんばとぞ」っちゅうとを与えてくださった、今度の選挙だったと思うとですよ。海ん子じゃって山ん子じゃって言わずに。
海に行けば、山を見て拝むとです。山ん人に聞けば、山ん峠に行った時は、海を見て今日の天気を見っとですと言われました。だから、「海ん者と山ん者が繋がれば、町は変えられると」と私は言いました。このことが実際、今度の選挙によって、産廃のことによって、やっと繋がったなっちゅういう、そういうことを人生に刻み込んだ今度の選挙だと思ってください。ありがとうございました。(拍手)

単なる市長選挙の勝利集会ではなく、本当に一つ一つの発言に、水俣病50年の歴史が込められていた。
産廃処分場建設問題自体は、反対派市長の当選で決着したわけではまったくない。市長には建設拒否の権限が制度的に無く、どういう行動を取っていくのか、など具体的な取組みはこれからだ。その中で、今回生まれた患者と一般市民の連携がどういう形に展開してゆくか---5月1日の50周年当日だけのイベント的関心ではなく、継続的に着目してゆきたい。まずは第2弾として、来週水曜(2月15日)の『筑紫哲也NEWS23』で、もう少し多面的に、今回の取材内容を報告する。

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