新幹線新駅報道に「異議あり!」地元の地権者の嘆き

放送日:2007/6/ 9

東海道新幹線の米原と京都の間に新しい駅を作る計画を巡って、地元・栗東市民の賛否が割れている問題で、先週、節目となる出来事があった。全国的には殆どニュースにならなかったが、今朝は、この出来事を機に、新駅問題を巡って地元の当事者たちの間でくすぶっている《報道批判》の声に、眼をツケる。

■解消されずに残った“モヤモヤ”

新幹線の新駅建設予定地の土地売買を巡っては、ずっと以前から、「栗東市側が、市民の税金を無駄に使って、新駅の開発用地を地主から妙に高い金額で買っているんじゃないか? そのドサクサに紛れて不当な金儲けをしているヤツがいるんじゃないか?」という“不透明な取引”疑惑が指摘されていた。栗東市議会は去年12月、百条委員会を特別に設置し、真相の解明に取り組んで来た。地方議会によって設置された百条委員会は、証人喚問を行なうことが出来たり、偽証には罰則を課すことが出来たりと、かなり強い権限がある。今回も何か解明出来るのではないかと期待されていたが、委員会は半年間調べた結果、真相解明に至らず、という最終報告を発表して、先週解散してしまったのだ。
事情を良く知る当時の首長が既に亡くなっているということもあり、日本社会の定番である「またぞろ大規模開発の利権絡みで、怪しいカネの動きが?」という“モヤモヤ”は、結局解消されずに残った。
以上が、先週の出来事である。では、地元でくすぶる《報道批判》の声とは、何か?

■《特異》が《全て》にすり替わる、メディアの難しさ

この栗東市の新駅計画は、殆どが区画整理の形で進められている。つまり、市が再開発のために土地を地主から買い上げるのではなく、元々の地権者が所有するまま、部分的な移動や交換等によって土地の境界線を整理し、新しい駅前市街地を作るというプランだ。例外的な事情で、市が先に地主から買い取る必要のあった土地が幾つかあり、それらの土地売買に限って起きたのが、先程の“モヤモヤ”の話だ。
実際、大多数の地主と栗東市側との間には、「土地の売買に不透明な点が無い」どころか、土地売買自体がそもそも存在せず、新駅開発によるカネは、一般の地主たちの懐には入っていない。むしろ、地目の変更で税金が上がったり、「減歩」(区画整理の際に、所有地の一部を地方自治体に無償で供出すること)で土地を市に召し上げられたりと、地主たちにとっては今のところ失ったものばかりだ。
今回、地権者たち(200人以上)は、平均して3割の土地を無償で市に提供している。区画整理されて新駅ができれば土地の価値が上がり、「所有地の面積が3割減っても単価が3割上昇すれば、差し引きゼロ」という理屈なのだが、新駅ができなければ当然地価も上がらず、彼らは結局、土地の取られ損になってしまう。
―――この点が、今までの報道では、十分に伝わっていなかった。
先祖伝来の農地でただ農業をしていただけなのに、行政から「新駅計画に協力してくれ」と言われて渋々同意した、地権者たち。(そういう経緯であったことは、市役所と地元町内会に残る膨大な議事録が証明している。)それなのに、「地権者たち全般が“いい思い”をして、新駅推進派に回っているのではないか」という誤解が、地元に生まれてしまった。そうなったのは、「疑惑の部分だけを大きく報道した、メディアの《伝え方》に問題があったからだ」と、地権者たちは嘆く。中村勘治さん(眼のツケドコロ・市民記者番号№51)も、そんな1人だ。

中村: 区画整理というものが理解されずに、全て地権者が対価をもらって売却しているというイメージが今広く伝わっていて。「地権者はええ目しとるな」と、こんな認識が非常に広まっていて、非常に迷惑していますね。我々は、推進でも何でもない。要請を受けて(市に)協力をするという意思決定をしたことに対して、「要請した(市)側は責任を履行して欲しい」ということですので、ここの所を間違えて理解されているのではないかと。地権者が「推進派や」と言うと、常に“利益追求型”という捉え方を短絡的にされるという、この寂しさというか悲しさがありますね。

メディアが事件を報じる時、「その他の人は関係無い」とは、いちいち伝えない。(交通事故のニュースには、「なお、その他の車は事故に遭いませんでした」というコメントは添えられない。)これは情報操作でも何でもなく、元来《報道》とはそういうものだ。
今回は、ごく一部の不透明な土地売買の事例が報道された結果、関係の無い中村さん達までもが「市に売って儲けた。しかも汚いことをやった」という偏見を持たれ、誤解されてしまった。メディアは、《特異な出来事》だからニュースにするのだが、受け手はそのニュースを、《それが全て》と解釈してしまいがちだ。

■興味に応える情報提供が、民意を煽る?

メディアに対する地権者たちの疑問は、さらに「世論を誘導しているのではないか?」という話にも及んだ。去年の夏、「もったいない」というキャッチフレーズで嘉田由紀子氏が滋賀県知事に当選して以来、新駅計画を中止するのが《民意》とされているが、このキーワードである《民意》も、メディアが煽って作り出しているのではないか、と地権者たちは言う。

中村: 民意を先導したのは、僕はメディアじゃないかな、という気はするんです。問題の本質を掴まずして、“風”だけに乗って、「何が面白いかな」っていう形で取材合戦をして来た。その結果が、民意という“風”を引き起こしたんではないかな、と。これからメディアも責任を持って報道に当たって欲しいし、ある時期過ぎた時には、「今流れている“風”がそれでいいんか?」っていう、いわゆる大人の対応をし始める時期がボチボチ来てるん違うかなという気がしてるんです。
 そういう有権者に育て上げたんは誰なんやっていうのは、僕は大きくメディアの責任であろうと思います。どの(情報)番組見てもバラエティ(風に)しか映っていないっていうこの中で、この大きな問題さえも(「何が面白いかな」っていう形で)処理しようとしている姿勢に、僕は非常な怒りを感じます。

確かに、素人だった嘉田氏が知事に当選し、今までの政治の流れをひっくり返そうという現象は“面白い”。面白いということは、「皆にとって興味の対象だということだから、詳しく情報提供しよう」とメディアが判断するのは当然だ。そう、これは、ある方向に誘導しようという《特別な意図》などではなく、《当然の判断》の結果なのだ。ところがそれは、批判的な立場から見ると、「嘉田氏側に情報量が偏って報道されている」ということになる。
因みに、今回の百条委員会についても、「設置の時は大きく報じたが、先週の解散は殆ど報じられなかった」というのは、これと類似の現象と言える。設置は、「さあ疑惑追及だ!」という興味を惹く。もし最終報告書が疑惑を解明していれば、それも興味を惹いたろう。しかし、「分かりませんでした」は、何の興味も惹かない。それが自ずと、報道の分量に反映しているというわけだ。「設置を大きく報じた以上、どんな結論であれ、幕引きも同じ大きさで報じるべきだ」という“べき論”は、沢山のニュースが放送秒数の分捕り合いを繰り広げている現実の中では、なかなか通用しない。

■《取材拒否》から《自ら発信》へ

中村さんを始め、誤解された地権者たちは、自分たちの立場をメディアにアピールして行くということはせず、逆にメディアを恨み、取材拒否の姿勢に転じた。私も、現地で度々直接「お前たちのせいで…」と非難され、「だからこそ、皆さんの言い分をカメラの前で語って下さいよ」といくらお願いしても、インタビューには応じてもらえぬ時期が続いた。この《取材拒否》によって彼らの全うな主張は伝わらず、ますます誤解が固定されていくという“悪循環”が生まれた。
この“悪循環”を破った事例で思い出されるのが、松本サリン事件の河野義行さんだ。事件の犯人だと誤解された河野さんは、私がキャスターをしていた『スペースJ』や、テレビ朝日の『ニュースキャスター』など、少数のメディアを選んで取材に応じ、「自分はやっていない。サリンなんか作れない」と自ら主張して、最終的に誤解を解いた。この河野さんの事例を、栗東市で直接私に非難して来た方々に説き、「メディアを逆に利用して、皆さんが受けている誤解を解きましょうよ」と説得して、ようやく今回のインタビューが実現した。(初出…5月12日放送『サタデーずばッと』

中村: やっぱり今までの情報が、メディアを通じた情報に頼り過ぎていて、本当の姿が一般市民の方に伝わっていないのではないかと。それしか、一般市民としては情報を得る手段を持っていない、ここに1番大きい問題があるんじゃないかな。メディアに頼らざるを得ないという《情報の貧しさ》があるんちゃうかなと思います。
 だから今既にあります『新幹線のぞみの会』とか、新たに『新駅を絶対作る会』とか、そういう
(新駅計画続行を主張する)組織が徐々に立ち上がって来ていますので、その辺と連携を深めて役割分担をしながら、ニュースを《発信》して行かないかんのかな、と思います。そして、敬遠しがちだったメディアそのものとも、やっぱりもう少し距離を縮めて、本当に理解を得られるような関係を模索していくのも大事かな…そんな風に思います。

単に既存メディアの伝え方を嘆くだけでなく、自分たちが《自ら情報を発信》して行こう―――まさに、市民メディアの発想へと、地権者たちは方針を転換した。

■水俣病の語り部がつぶやく、「報道が怖くなった」

ニュースの当事者たちのこういった報道への不満は、今回に限った事ではない。また、近年に限った事でもない。先週このコーナーで紹介した水俣病患者の杉本栄子さん(眼のツケドコロ・市民記者番号№50)も、あの講演の中で、実は半世紀前からの報道のあり方について、度々言及していた。

杉本: 皆さん、本当に報道っちゅうと、それから怖くなったんです。NHKさんは(私の母の入院を)放送するにあたっても、「感染(うつ)らんとです」ということも説明がなかったですよ。誰も教えてくれませんでした。私達は何も知りませんでした。報道から、騙され続けました。騙された私達がバカだった、ちゅうことも気づきました。報道されて人が信じてしまえば、本当に信じ切っていた村の人たち、その人たちが雨戸を閉めて。「おはようございます」と言っても返事をして下さる人もいなくなりました。
 報道は、売れない報道はしていただけない。そして、お金持ちから買われる報道もあるんだな、ということも知りました。今、報道があれば、信じてしまう私がいます。でも、報道は、弱い者になれば、誰も味方になってくれんとじゃ、ということも、気づいてくだまっせ…。

「報道は誰も味方になってくれない」―――そんな事ないよ!と私は言いたいが、弱い立場の人たちがそう思っている現実も、我々メディア関係者は真摯に受け止めなければならない。

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