JR西日本叩きの暴走と『ジャーナリズムの可能性』

放送日:2005/5/14

JR福知山線の脱線事故から、今日で丸20日。この間の報道の在り方に関しては、私の公式HPにもメッセージを載せたが、それ以降も状況は変わらないどころか、むしろエスカレートしている。かなり危うさを感じるので、今回は前半でそれをまず指摘し、後半でそこからの“出口”を1つ示したい。

■読売だけが恥じて済む話か

報道の危うさについては、会見での一部記者の行き過ぎた態度が問題視されているが、読売新聞の昨日(5月13日)付け朝刊には、大阪本社社会部長による「会見での暴言を恥じる」との見解が表明された。これは、かなり異例のことだ。連日のように行われているこの会見には、私も今までのところ1回だけ出席したことがあり、たまたま問題の記者のすぐ隣に座ったのだが、はっきり言って、居丈高な態度をとっているのは、彼だけではなかった。これは、一個人の資質という話に矮小化できることではない。

報道の「行き過ぎ」については、ちょうど1年前の鳥インフルエンザ報道の時にもこのコーナーで指摘した。あの時は、吊るし上げの記者会見が続いた後に、(直接の因果関係は不明だが)鳥インフルエンザを出した浅田農産の会長夫妻が自殺するという結末になってしまった。

今の空気は、それよりもっと悪化しているのではないか。今回は、鳥の被害ではなく、これだけ多くの人的被害が出ているということで、「もう何を叩いてもいいや」という、いわばオーバーラン状態になっている。確かに、JR西日本に批判すべき点はたくさんある。私は、その批判を弱めろと言っているのではなくて、《批判すべき点》と《批判すべきでない点》を、きちんと区別する必要があると言っているのだ。それがゴチャ混ぜになってしまって、何でもかんでも悪いということになると、逆に追及の焦点がぼけてしまって、冷静な、本当の責任解明ができなくなってしまう。

昨今の感情的報道と、それに不和雷同する世論には、怒ることで何か"溜飲を下げている"ような感すらある。もしかしたら、この"JR批判"に続いて、読売新聞の記者の件が出てきたことで、今度は返す刀で"報道批判"が起こるのではないか、とさえ私は懸念している。結局、どちらにせよ悪者探しに過ぎず、私がHPで提起したような《己を省みる》視点は、そこには欠落している。

■"行き着く先"を想像しよう

JR西日本バッシングで、一番厳しく指弾されたのは、電車に乗り合わせていながら、上司の指示で現場を離れてしまった二人の運転士の行動と、その後、続々と明らかになった、事故当日以降のボーリングや宴会といった一部社員の行動だ。

しかし、現場に居合わせたあの二人の運転士に、もし「現場に残って手伝え」という逆の指示が上司から出ていたら、彼等は「出社」と同様の忠実さで指示に従い、模範的行動を取って、一転して美談の主人公になっていたかもしれない。ボウリング大会の幹事が、もし逆に「今日は止めとこう」と言っていたら、「いや、やろうよ」などという声は全く上がらずに、一糸乱れず皆さっと帰っていたかもしれない。だとすればそこに浮かび上がるのは、《血も涙もない人間》の姿ではなく、《上司や周囲の声に従ってしか動けない人間》の姿であり、そこから学び取れる教訓は、「その都度、自分の頭で判断しようよ」という話のはずだ。

さらに、ボウリング等に興じていた社員達が勤務時間外だった、という点も、怒りの渦でかき消してはならない。もしJR西日本に対し、「非番の日の行動まで問題視せよ」と追及するのなら、一方で「あの厳しい日勤教育は何だ」と批判していることと辻褄が合わなくなる恐れがある。「管理を強めたらいいのか弱めたらいいのか、一体どっちなんだよ!」と、記者会見で一生懸命頭を下げているJR西日本の職員達も、腹の中で実は思っているかもしれない。

実際、JR西日本の社員たちは、ホンネのところ、こういう空気をどう感じているのだろうか。昨日(5月13日)、同社の労働組合のある中堅幹部と話す機会があったが、その人は、ためらいがちに、こうつぶやいた。「自分達の責任は重々分かっています。今は何も言えないんですけど、こうも『何でもかんでも叩かれて、行き過ぎの部分があっても指摘できない』状況を実体験してみて、皆、『戦前の空気もきっとこんな感じだったんだね』って話しています。」−−−これと全く同じつぶやきを、様々な事件で《叩かれる立場》に置かれた人達から、今まで何度聞かされてきたことだろう! こんなホンネを紹介すると、また「けしからん!」といきり立つ人達による新たなバッシングの材料になってしまうかもしれないが、これは《叩く立場》にいる限りわからない、偽らざる実感だと思う。

こんな調子で感情論を募らせていくと、的確な責任追及の矛先もブレるし、いずれは、日本社会全体がものすごく窮屈になってしまう。数年後には、何か大事故の後に、こんなニュースが真顔で放送されているかもしれない。
「北海道で起きた今回の惨事の直後、沖縄のある飲食店は営業を続けていた事が明らかになりました。」
そして、その飲食店の経営者が記者団の前で深々と頭を下げる。
「自分達の利益ばかりを考えて、本当に申し訳ございませんでした。以後こういう時は、一切の営業を自粛致します。」


−−−自分が叩ける側にいるうちは安心だが、ある日突然、自分の何気ない行動が世間の吊るし上げの対象になるかもしれない。それでは、ものすごく緊張して生きていかなければならない世の中になってしまう。誰しも、そんな息苦しい社会は嫌なはずだ。

■あきらめない人達が、ここにいる

「付和雷同の圧力」をマスコミがワーッと旗振って煽っているような、この状況からの"出口"はどこにあるのか。嘆いているだけでは、バッシングする者とさして変わらぬ精神構造になってしまうから、ひとつ具体的な情報を提示しよう。

実はタイミング良く、今週、『ジャーナリズムの可能性』(岩波書店、2500円+税)という本が刊行された。筑紫哲也さん、佐野眞一さん、野中章弘さん、徳山喜雄さんが責任編集し、数多くのジャーナリズム関係者が寄せ書きしている『ジャーナリズムの条件』という4冊シリーズを締めくくる最終巻だ。

この巻では、20人がそれぞれの現場から、自分が信じるジャーナリズムの可能性を書いている。まず「マスメディアの再生をめざして」という章で、既存マスコミの現場にいる人達が、問題解消への道筋を提起していく内容。次が「市民型未来系ジャーナリズムの構築」という章で、これは、いつもこのコーナーで取り上げているような市民メディアの実践報告集だ。この第II章の冒頭では、章全体を俯瞰する位置付けで、私も「市民メディアとは何者か」という1節を寄せている。他にも、

−−−など、このコーナーでかつて紹介した方々が、「自分はこう頑張っている」という報告をしている。

一方の第I章「マスメディアの再生をめざして」では、ボーン上田賞を受賞したTBSの名物記者・金平茂紀さん(現・報道局長)も1節を寄せている。ワシントン支局在職中、イラク戦争でのアメリカの愛国心まる出し報道を間近に見てきた金平さんは、それでも、「<国籍>を超える『普遍的な』真実を共有できる可能性が私たちにはまだまだある、と私は信じている」と、とても前向きに宣言し、そんなジャーナリズムの「『砦』をまもる」必要性を訴えている。"嘆き節"で終わらぬ熱さが金平先輩らしくて、心からエールを送りたくなる。

マスコミの人達には、この金平さんの言葉のとおり頑張って欲しいし、一方で、私の主戦場である市民メディアの人達には、その砦の周縁部で幾つもの"小さな砦"を築いて、「つながりながら頑張ろうぜ!」と強く強く呼びかけたい。既存メディアの在り方をしばしば批判している私だが、「もうジャーナリズムはダメだ」と思っている人には、今週の水曜日(5月11日)から本屋さんに並び始めたばかりの、この湯気の立っている本を、是非手に取って見ていただきたいと思う。そこに、現状からの"出口"への道筋が、何か読み取れるかもしれない。

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■追記

今回はコーナー終了直後=まだ番組が続いているうちから、番組HP宛てにリスナーの皆さんからの賛同メールが相次いだ。当日朝7時過ぎまでの着信分から、一部をご紹介する。

  • 本日の内容は素晴らしかった。放送提供者側から、自戒の内容が発信されたことに、ひと安心致しました。

  • 下村さんが指摘されていた、JR西日本に対する魔女狩り報道批判に、全面的に賛同します。私も身内も、JR西日本に何ら関係はありませんし、彼等が非難されるべき点は多々ありますが、この事件に限らず、日本のメディアは、あまりにもバイアスのかかった報道が多過ぎると思います。

  • 今回の件も、もともとは時間にあくせくし、JR西日本に完璧主義を求める非情な乗客達(私達)に、責任の元凶がある。宴会に出席したJR西日本職員を叩いても、意味がない。私は、あらゆる犯罪報道に関して、同じ思いを持っています。ただ溜飲を下げるために犯人を弄ぶとしたら、「被害者のために」という名目の欲求不満の解消。おためごかしだ。薦められた『ジャーナリズムの可能性』という本を読みます。
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