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メディアが変える・既存メディアは変わるか
「ラジオでしか紹介できない映像」の行方
このところ、2週連続して、ラジオ『眼のツケドコロ』で“映像”の話をした。
先々週は、インド洋大津波の被災地から帰国した日本人ボランティアの大平直也さんが現地で買ってきた、被害状況を赤裸々に映し出したDVD。そして先週は、高遠菜穂子さんの元に現地のイラク人が持ち込んだ、ファルージャの凄惨な遺体の数々の、ミニDVテープ。
どちらも、あまりにも惨たらしくて、正視するのが難しい。大人でも、人によっては、見たショックで精神的に変調を来たしてしまう恐れがあり、到底テレビでは流せない。しかし、見た瞬間から自分の中で、あの津波やイラクの現況の認識が完全に塗り替えられるという意味では、明らかに《知る価値》のある情報だ。
従来は、こうした“ハイリスク・ハイリターン”の映像を広く市民に見せるかどうかは、全て少数のテレビ局の人間が、その都度、決定していた。「見せない」と決めた映像は、その存在も知られないから、市民から「隠さず見せろ」と揺さぶられる事もなかった。
市民メディア時代に入り、従来は“お蔵入り”にされるか、モザイクという名のオブラートに包まれていたような強烈な《現実》の映像が、インターネットを通じて、むき出しで受け手の元に届くようになった。知り合いの中学教師は、生徒がイラクの香田証生さんの“処刑”シーンを携帯電話で見てしまった、と言って頭を抱えていた。
その点で「知る権利」の達成度は明らかに増大しつつあるが、「知らずにいる権利」は、押しまくられて危機に瀕している。この皮肉な事態を解消し、《本当に知りたい人にだけ情報が届く》キメ細かな情報化社会を、どう構築していったら良いのか?
その一つの解答が、前述の大平直也さんや高遠菜穂子さんが採っている「上映会」という、一見レトロなスタイルなのかも知れない。インターネット等の情報ツールを駆使して、そういう映像の《存在》自体は広く社会全体に知らせつつ、実際の《中身》は、上映会場に足を運ぶという覚悟と“自己責任”を持った人にしか公開しない、という、現代的テクニックと古典的手法との組み合わせ。受け止められる自信のある人だけが、その場所で鮮烈な情報と出会うのだ。
おカネの世界に例えるならば、こんな感じかな。《「庶民に財テクは危ないから」預貯金の機会しか提供しない時代から、「リスクを背負う覚悟があるなら」よりスリリングな個人投資にも参加できる時代へ。》---そういう変化と同種の現象が、メディアの世界でも起きつつある、という事なのかも知れない。