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松下村塾
既存メディアにできない伝え方を補完する新しい発信者(市民がメディアになる日)
【 市民がメディアになる日 】
「これじゃ、大人メディアが無造作に使ってる決り文句の猿マネじゃないか。君の言葉で伝えなよ!」東京・赤坂のビルの一室で、夜な夜な、そんな下村の声が飛びます。
企画・制作・発信の全て、1つのチャンネル丸ごとを大学生が放送する、衛星デジタルラジオ局『BSアカデミア』(462ch)。今まで偉そうにメディア批判をブッていたニュース班の学生たちが、現実の表現の難しさに苦悶しながら、日々必死の思いでオンエアに漕ぎ着けています。
「断言しちゃってるけどさ、それ、ちゃんと裏は取ったの?」
インターネット放送『ビデオニュース・ドットコム』の神保哲生の詰問に、コミュニティーTV局のシロウト女性記者が涙ぐみます。しかし、彼の鬼コーチを受けた後、この局が伝える“我が町のニュース”は俄然おもしろくなり、視聴率は数倍に跳ね上がりました。
「すごい疲れる。なんでこんな目に遭ってるんだ…」
ビデオ・アクティビスト土屋豊の傑作ドキュメンタリー『新しい神様』の中で、主人公・雨宮処凛は、土屋に「自分でビデオ日記つけて」とホームビデオ・カメラを手渡され、自室でレンズに向かってこんな独白をつぶやき続けます。そこには、どんな玄人インタビュアーも引き出し得ない、剥き出しの本音が描き出されます。
検定ずみばかりの情報では物足りない
高画質の撮影、良音質の録音が、安価な機材で出来るようになってくるに連れ、従来《受信者》でしかあり得なかった一般の人達が《発信者》になれる可能性が、確実に今、広がり続けています。
しかし、こうした裾野の変化に、お山の大将である既存メディアは、なかなか対応できていません。気付かないのか、無視しているのか。とにかくその結果として、「良い作品は出来たけど発表の場が無い」ノンプロ・ジャーナリストたちは、例えばお手製のビデオ・パッケージを販売したり、小さな小さな上映会を開いたり、といった範囲で細々と活動をしています。
前述の『BSアカデミア』も『ビデオニュース・ドットコム』も、その存在を知っている人はごく少数派。こうして、ユニークで新鮮な作品も僅かな人の目にしか触れない、という実に勿体無い状況が続いているのが、本稿執筆時点での、《市民メディア》の俯瞰図です。
しかし、CATV、BS、CS、携帯電話、ブロードバンドによる動画配信等々、取材道具だけでなくデリバリーの分野にも技術革新が広がって、この状況も転機を迎えつつあります。
《市民メディア》発の情報が、誰の目にも届くようになる時代は、そう遠くありません。
それはすなわち、優れた作品から全くデタラメな情報までが、一見して判別不能な状態で1人1人の端末まで届いてしまう、という時代の到来をも意味します。
そんな時代には、《発信側の質》も《受信側の眼力》も、同時に向上することが要請されます。
前者については、「皆が機械の操作法だけマスターしても、意味がない。肝心の“マトモな中味の作り方”を習得せねば!」という問題意識から、あちこちで散発的に、自主トレーニングの試みが始まっています。
冒頭に紹介した下村や神保の取り組みも、そんな中に位置付けられます。今後当分は、スクラップ&ビルドの繰返しの中で、《市民メディア》は徐々に質的成長を遂げてゆくことになるでしょう。
後者=《受信側の眼力》とはつまり、こうした玉石混交の情報乱立の中から、本当に必要な情報を自ら選別して受け取る能力のことです。
(この部分の詳細は、「メディア・リテラシー」の章に譲ります。)
これはかなり面倒な話ですが、「毒見をし過ぎてすっかり冷めてしまった料理しか食べられない」時代から、「フグの毒に当たるリスクを自分で引き受けつつ、舌が痺れる美味を求められる」時代に、メディアというものの概念自体が移りつつあるのだと考えれば、結構スリリングではありませんか。
こうして、良質の《市民メディア》百花繚乱の時代がやって来たとしても、既存の大手メディアの大半は、もちろん生き残るでしょう。
《市民メディア》の勃興は、あくまでも、既存メディアが「わかっちゃいるけど出来ない」でいる部分の補完として発生して来るものであり、既存メディアに完全に取って代わる性格のものではありません。
「自分でメニューを選ぶのは面倒だ。定食セットが欲しい」という気分の時は、既存のメディアを見ればよいのです。
―そして、「誰かが『正しい』と検定済みの情報だけでは物足りない」という意欲のある時は、新しいメディアを覗けばよいのです。
このように、大手メディアと市民メディアの幸福な共存関係が生まれ、受け手側が双方を上手に選択して取り込めるようになること。
それが実現した時に初めて、《多チャンネル化》は、ただ金太郎飴の断面の数を増やすだけに終わることなく、彩り豊かなものとなり得るでしょう。
※文中の情報は、全て執筆時点(冒頭記載)のものです。