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下村健一の中と外
ジョン・レノンの奇跡
1998年10月、ボクは妻と盲導犬アリーナのサポートを受けてニューヨークに飛んだ。
ケネディー空港で迎えてくれたのは健ちゃん。彼はエム ナマエのニューヨーク個展の
実行委員長であった。
現在もそうであるが、ボクは全盲のイラストレータ故に、障害者の枠内でしか
評価されない。作品の評価もそこにとどまる。自分を全盲のイラストレータと呼ぶのは、
人間の可能性を具体的に提示したいからなのだが、どうもそこが世間の歯車とうまく
からまらない。
そこでニューヨーク個展という発想が生まれた。当時、下村健一はTBSの
ニューヨーク記者。そこで彼を拝み倒してエム ナマエニューヨーク個展実行委員長に
なってもらったのだ。
ニューヨークでの個展会場が満員御礼になったかというと、そうでもない。評価する
人はいてくれたが、騒ぎになるようなことはなかった。そこは個人の限界である。
けれども奇跡は起きた。
アトランタを拠点とする全米最大手のベビー服メーカーがジョン・レノンのシリーズを
開発中であった。その福社長が打ち合わせのため、ニューヨーク在住のオノ・ヨーコを
訪れていたのだ。そして副社長は偶然にエム ナマエの個展会場を訪れた。
奇跡が起きた最大の要因は、その会場に健ちゃんがいてくれたことである。ボクは
そう理解している。副社長を迎えた彼の誠実さが出来事のステージを作り上げた。
健ちゃんの応対が全米最大手のメーカー副社長の心を捉えたのである。
こうしてエム ナマエは、ジョン・レノンの次に社外アーティストとしてベビー服
メーカーと契約する。全盲のイラストレータが全米デビューを果たしたのである。
―――「必ず奇跡が起こります」
ボクは本気でそう信じていた。本気で宣言していた。ニューヨークに行けば、きっと
ジョン・レノンとの接点が開かれる。そして、もしかしたら健ちゃんもそれを信じて
くれていたのかもしれない。
ケネディー空港に到着してから、健ちゃんはずっとカメラを回していた。もしかして
起きるかもしれない奇跡の序曲を記録していた。都会をうろつくボクと妻、そして
盲導犬アリーナ。セントラルパークのジョン・レノンのメモリアルで涙するボク。
そっと残した個展の案内状。そして、ジョンの魂はボクの個展会場を訪れたのである。
奇跡のドキュメンタリーは奇跡的に出来上がった。『NEWS23』で放映された記録は
いかにもテレビ的であったが、そこに作為はない。ニューヨークで起きた事実だけを
並べてドラマは完成したのである。(エム ナマエ)