旧・山古志村、伝統の闘牛が仮設から村に帰る

放送日:2007/8/11

今朝は、新潟県中越沖地震…ではなく、3年前の中越地震にちなんだ話題に眼をツケる。あの地震で壊滅的被害を受けた旧・山古志村の名物“闘牛”が、いよいよ来週、村に戻ってくる。長岡市役所 山古志支所(合併で村が消え、こうなった)の支所長、青木勝さんに電話でお話を伺う。

――山古志村と言えば、全村が避難し、その後、徐々に避難解除になりましたが、現時点で、どのくらいの住民の方が、かつての村の場所に戻られましたか?

青木: 7月31日現在で、375世帯1012人の方が戻っています。元の人口が2167人でしたから、5割ぐらいでしょうか。まだ、仮設住宅に入居してる方が108世帯306人いるんですよ。(最終的には)元の人口の7割ぐらいが山古志に戻るということになります。

■3年前は決死の脱出、来週からは楽々“通勤”

――国の指定重要無形民俗文化財である闘牛「牛の角突き」は、この間、どうされてたんですか?

青木: 牛も人間サマと同じく避難しなきゃいけなかったですから、当時映像等でご覧になったかと思うんですけど、ヘリで避難しまして、この間長岡市の牧場の近くに仮設の牛舎を作りまして、そこでしのいでおりました。ですから、牛も人間と同じように仮設住宅に住んでました。
 「牛の角突き」も、近くの臨時闘牛場でやってました。臨時に公園の一角を整備しまして、こっち(山古志)と同じように、大体年8回ですか、やっておりました。

先週金曜日に、その臨時会場での最後の開催があった。そして、いよいよ来週水曜日(8月15日)からは、山古志の本会場(元の闘牛場があった所)に戻って行なわれる予定になっている。

――皆さん、嬉しいでしょうねぇ。

青木: そうですね。やっぱり、闘牛も山古志の、本当に重要な位置を占める部分ですのでね。

――準備状況は、いかがですか?

青木: 準備は万端整っておりまして、道路も、たった3年の間に、思ったよりもというか、本当に奇跡的に早く復旧しております。

――牛たちは、山古志本来の闘牛場に向けて移動中、ということですか?

青木: 村の牛舎が再建されるのは、この秋になるものですから、牛自体は(それまで)仮設住宅から通勤みたいな感じになりますね。

――3年前の避難の時には、ヘリコプターで移動したり、陸路を4泊ぐらい野宿しながら人に引かれて歩いて移動した牛もいましたよね。今度の往復は、楽々?

青木: ええ、車で通勤できますので。(笑)

■仮設最後の夏祭りは“新たな被災者”達と

――夏祭りなどの行事は、どうですか?

青木: 今まで、集落ごとにやっておりまして、山古志全体の夏祭りと言うのは無かったんです。1番大きい集落で種苧原という集落なんですが、ここが9月に3年振りの祭りを復活します。闘牛もやりますし、昔からの伝統を引き継いでいる、人間の「越後相撲」も行なわれます。

――広報紙「山古志支所だより」を見ると、今日(8月11日)、仮設周辺での最後の盆踊り大会があるそうですが…

青木: 今回この盆踊りをやる予定でいたんですけれども、柏崎の中越沖地震がありましたものですから。今空いてる仮設住宅を、柏崎の人達の避難所に使っている部分もあるんで、柏崎からおいでになってる方々も含めて、急遽14日に、この盆踊りの代わりのお祭りをしようか、と新たに計画してるところです。

山古志と柏崎、まさか同じ仮設住宅が2度の地震被災者用に活用されるとは…。

■今も進化するボランティア活動

――中越沖地震が起きて、ボランティアの人達が皆、柏崎の方へ移動してしまって、『山古志災害ボランティアセンター』が機能しなくなったということは無いんですか?

青木: 無いですね。仮設の方でまだ、『災害ボランティアセンター』というのをやっておりまして、私共が柏崎の方に救援に行くということについても、窓口を務めてもらってます。

――旧山古志村民の皆さんが、柏崎の救援ボランティアに入る!?

青木: そうです。その時は、山古志の『災害ボランティアセンター』を通して、向こうの需要を確認しながら入るようにしてます。
 それと、私共は、皆が帰って来たから「じゃあ、おしまいだよ」ということにはしたくないんです。ここまで私達と関わりを持ってきて下さった方々ですから、これから今度我々が皆地域に帰ってからも、一緒に山古志の地域づくりに参加してもらえるような形で継続して行きたいなと思ってるんです。

広報紙「山古志支所だより」には、今週から東洋大学の学生ボランティアが入ると書かれている。

――どういう事をやってもらうんですか?

青木: 東洋大学の学生さんは、震災の当初、翌年から家の片付けとか取り壊しとかも含めて、皆さん入って来て下さいました。今回も、ある程度(住民が)帰って来た中で、もう1回また入って来まして、住民との話し合いを続けようというのがあるんです。
 もう1つ、それを縁にしまして、大学と連携した地域づくり授業というのを、今年から取り組むことにしてるんですよ。東洋大学は総合大学ですから、地域づくりを全体的に見渡した中で、これからの山の暮らしというものをどういう風にやって行けばいいのか―――そういう基礎的な研究も含めて、大学生の実践活動も入れた中で、新しい地域づくりを大学と連携してやりたいと思っています。

山古志全体が、大学の教室になるようなものだ。机上だけではなく、実際の経験も出来る良いケースになりそうだ。

■こっちの領収書は、「免除」歓迎!

先月末、支所で「何でも相談会」が開かれ、支所長である青木さん自身も、住民の個別相談に対応した。

――今現在、住民の皆さんの悩み事、相談事って、何ですか?

青木: 山に帰ろうと思う人はこの秋に全部帰ろうという予定ですから、そのスケジュールに対する相談が、やっぱり1番多いですね。3年経ってようやく住宅建築の目処がついて、今年秋には帰れるという見込みになってるんですけれども、住民が生活を考えた時に、新しい問題というのはここから出て来ると思ってます。ようやく住宅の手当てがついて、さぁここで今度は生活するには―――というところで、今度はもっと具体的な問題がいろいろ出て来るんだろうと思うんです。ですから、それにどういう風に対処していくかということも、考えながら進めて行かないと、継続していくのは大変かなという気はします。

復興という時期から、生活の定着へということだ。
今、地震の後に市から配られた「被災者生活再建支援金」実績報告書というのを、個々の家ごとに作成中だという。

青木: これも、せっかくの制度ですから、無駄にしないで生活再建に使ってもらいたいなと思うんですけど、(支援金で)家財道具を購入しようにも、住宅が完成していないとなかなか買えない、といった部分も結構あるんですよ。そこのところで、実績報告の時期がいつまでか、というのが問題だったんですけど、避難指示が最後まで継続したものについては、この年度一杯ありますから、支援金も有効に使えるんじゃないかなと思ってます。

――報告は、実際に「こういう風にお金を使いました」と言う領収書を添えて提出という風に…

青木: いえ、今は国の制度も私共の地震の時から、最終的に領収書の義務付けが無くなったんですよ。お年寄り達は、その手続きが厄介だと言うことがあるもんですから、非常に助かります。まぁ、どっか(永田町辺り)の何かは領収書が1円から(必要だ、云々)という議論がありますけどね。(笑) 我々としては出来れば、そういうのは…。なるべく手続きは、省いてもらいたいですからね。

政界と被災地の会計に、やっと“緩さ加減”のバランスが取れたというわけだ。

■住宅再建よりも、集落再生

私も先月、久し振りに旧山古志村のエリアに行ってみたが、崩れた山や道路は劇的に修復され、家々も再建されていた。
神戸の阪神大震災の場合は、味わいある震災前の町並みが失われ、綺麗で機能だけは良い無味乾燥な都市に変わってしまい、「こういう復興でいいのか?」という反省の声も聞かれた。しかし、山古志は、その復興ぶりの見事さにもかかわらず、村の旧来の良さがしっかりと残っていた。

青木: 山古志の人達は、皆で避難するときに、「これだけやられて、もう1度本当に帰って来れるんだろうか」という強い不安に襲われたんです。ただ、その時に住民は、やっぱり山に帰りたいという意向を物凄く強く示したものですから、そうすると今度は、「復興はどういう形でやらなきゃいけないか」と徹底的に議論したんです。中山間地域自体が過去40年間、高度経済成長と共に体力がどんどん消耗しておりまして、少子高齢化の先進地になってるわけですから、そこを襲った初めての地震という事の中で、復興という事にはそれなりの考え方も絶対必要だと。
 何を復旧復興の目的・目標にするか―――中山間地域をこれからどうするかというのは、ずっと考えてきた事なんですけど、せっかく、この地震で住民が全部離れるという状況になったわけですから、この機会を活かして、本当にしなければならない中山間地対策というのを、この(復興プランの)中に落とし込んでいく必要があるだろうと、そういう事を目標にしたんです。
 1500年以上の歴史があるとも言われている、日本人の本当の原風景を持っているのは、日本の(国土の)7割を占める中山間地だと思うんです。つまり、中山間地復興のモデルを作らなきゃいけないという事を大前提にして、復興計画を作ってきたわけです。
 じゃあ、何が重要かということになりますと、要は、そこで暮らせなきゃいけないわけです。暮らしを再生する1番大きな素というのは、やはり農業がベースです。と言いながら、農業だけで食べられるという仕組みは非常に難しい。その中で、山で暮らす1番有利なやり方というのは、いろいろ小さい物、少しの農地だとか畑だとか、そういう物を皆トータルにした、《山で暮らせる仕組み》ですね。そのベースになるのは、やはり集落機能なんです。ですから、私共は、《住宅再建》ということではなくて、生活を作り上げていくために、《集落機能再生》をしなければならない、ということを考えてやってきました。

■今再び――世界に冠たる山古志デモクラシー

ここは、1つのキーポイントだ。3年前の中越地震直後に取材で初めてお会いした時、青木さんはちょうど各集落の区長を招集し、青空会議を開催中だった。「学者さん達は、日本の民主主義は戦後アメリカから持ち込まれたとか何とか言っているけれど、とんでもない! これが、何百年も続く、世界に冠たる山古志村の民主主義ですよ!」と、当時青木さんは胸を張って私に話していた。

――その集落機能をがっちりと維持したということですね。

青木: そうです。3年前の震災の時、こういう地形の中ですから、行政がなかなか機能しない部分が一杯あったんです。全員が避難しなきゃならない状況なんてのは、もう集落の中に行政の手が行かないわけですから。その時に住民の安全を守って、きっちりと救出できたというのは、本当に集落ごとにある住民の力、人間の力ですよね。これを考えた時に、これこそが本当の民主主義じゃないかと。自立の精神と、自分達の地域を自分達で守るという、それがやっぱり《自治の根源》ですから。それは、輸入したものとかそういう事ではなくて、もう日本での生活の中で昔から培われてきた部分だと思うんです。

青木さんのインタビューは、中越地震から1年経った時にもこのコーナーでご紹介したが、「《震災を千載一遇のチャンス》と捉えて復興プランを練る。山の中には、山の中のやり方がある」と語っていた。

――《集落機能を再生する》という意気込みを貫き通せたということですか?

青木: 今のところは、住民もそういうつもりです。今までですと、いくら過疎とか少子高齢化というのを危機感を持って言ったとしても、行政がする事を自分の身に(置き換えて)考えられないところが一杯あったと思うんです。だけど、今回は、結局全員避難して、それから帰ろうという意識を住民が持つには、住民はそれなりに自分の生活というか、将来設計を考えた上で、「本当に山に帰りたい」という強い意志を持って帰ってくるわけですから。この意識というのは、これからの地域づくりに物凄い力になると思って、期待しています。
 3年でここまで出来たと言うのは、私共はそれをリードして来ていながらも、信じられない思いですね。とにかく発破をかけながらやって来ましたけど、本当に3年で戻れるようになるとは、当時はやっぱり考えられなかったです。だからその意味では、日本の国というのは、大した力を持ってるんですよ、本当は。それを又、人間がやるんですから。まだまだ人間の力っていうのは、信じられる部分が一杯あるなと、本当に実感しますね。

来週、伝統芸能「牛の角突き」も村に復活して、旧山古志村の皆さんも益々元気になるだろう。力強く、常に前向きな山古志が、これからもデザインされていくに違いない。

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