震災から1年・山古志復興室長の前向き思考

放送日:2005/10/29

昨年(2004年)の新潟県中越地震の発生から、先週日曜日(10月23日)で1年が経った。各番組が色々な被災者の方の現況をリポートしていたが、このコーナーでは、青木勝という人に着眼する。

青木さんは地震当時、旧・山古志村の企画課長だったが、山古志村が4月に長岡市と合併した後は、長岡市の“特命主幹”として「山古志地域復興推進室長」を務めている。山古志復興といえば長島忠美村長がシンボルだったが、この夏、衆議院議員に転出し、それ以降、青木さんが行政側の中心人物の1人となっている。青木さんは、去年の地震直後、『サタデーずばッと』の取材で私が現地を訪れた時も、青空の下で村の各地区の区長を集めて、情報伝達会議を取り仕切っていた。
―――それから1年。旧・山古志村の地域では、一部の集落を除いて避難指示も7月に解除された。しかし、まだ元の村の場所に戻って生活再開した人は、30世帯にも満たない。大部分の人は、村の時代の集落ごとにまとまって、まだ長岡市内で仮設住宅暮しを続けている。

■山で生きてきた民の逞しさ

メディアは、問題点を取材しに行くから、どうしてもそこで「苦労」だけをピックアップしようとしてしまう。だが、青木室長が語ったのは、それとは違うこんな一面だ。

青木:
まだ、殆どの人が仮設住宅に入っているんですけど、殆ど不平不満を言う人はないですし、やっぱり、それはそれなりにちゃんと、一年後の生活を安定して送っているという感じですかね。馴染んじゃったというか慣れるというか、そのまま受け入れるというか。
つまり、やっぱり山に暮らすということはね、ある環境を《そのまま受け入れて》、どうやって生活するかってことがあるんですね。だから仮設住宅という環境でも、どうやったら快適に暮らせるかという知恵みたいなものが、やっぱりあるんだと思うんですよね。

―その「受け入れる」ということは、我慢とは違う?

青木:
我慢とは違いますね。我慢の部分も押し込んでいるのかどうかわかりませんが、“我慢する”という悲壮感みたいなものはないですね。山の人達の、自然災害というものの受け入れ方というのは、ほんとに逞しいと思いますもん。何百年も雪に埋もれながら、きっちり生活維持してきた中で、ほんとに、山の人達というのは、自然災害だけではへこたれないな、というね。
だから、ほんとに日本人の持ってる強さというか逞しさというのは、きっちりと《自然と対話》しながらやってきたとこにあると思いますから。そうした中で、いくら悔やんでも始まらないから、だったら「今の生活をそのまま楽しんでしまえ」というところに、したたかさ、強さを感じます。

もともと豪雪に耐えて生きてきたから、都会人より災害に対して精神的に強い、ということなのだろう。私も、地震直後から耳にしていながら、今まで報道を控えていたエピソードで、その強さを象徴する話がある。
地震発生当日、村の外部から完全に孤立して、余震が続く中で集落ごとにかたまって一夜を過ごした時、村人たちは食料を持ち寄って皆で食べた。実はその時、持ち寄られたのは食料だけでなく、あちこちで酒も結構酌み交わされていたそうだ。これは何人もの人から聞いた話だ。一夜明けてみたら、村長が大切にとっていた酒も、村役場から消えていたという。
あの当時すぐに報道していたら、「日本中があんなに山古志村を心配して、救出方法を考えていた最中に、本人たちは酒盛りしてたのか!」と叱られそうな話ではある。そう思って1年経つまで黙っていたのだが、しかし、そこで怒るのは、「被害者たる者、常に被害者らしく振舞え」という、第三者によるステレオタイプの傲慢な押し付け(お馴染みのパターン)ではないだろうか。
本当に想像力を働かせてみよう。苦難のどん底にある時こそ、時には皆で気を紛らせたり笑ったりすることは、きっと必要なことなのだ。それは、よそ者から咎められる筋合いの、不真面目な笑顔ではなくて、状況に負けない強い心を奮い立たせるための、必要な笑顔作りだったのだと思う。

■世界に冠たる山古志デモクラシー

地震直後、青空の下の区長会議を見て、皆の声を把握できるコミュニティ機能が見事に活きている様子に私が感心すると、会議を取り仕切っていた青木企画課長(当時)は胸を張ってこう答えていたものだ。
「学者さんたちは、日本の民主主義は戦後アメリカから持ち込まれたとか何とか言うけれど、とんでもない! これは、何百年も続く、世界に冠たる山古志村の民主主義ですよ!」
―――1年経って、その機能が今どう働いているのか。いずれ帰ることになる山古志地区の復興計画の話し合いは、こんな形で進められているという。

青木:
来週辺りから今度は、集落毎にですね、懇談会をしたり、個別の聞き取りをしたりして、全体的な集落の“絵語り”といいますか、将来像を示しながら住民の意見をその中に映し込んでいって、膨らましていきたいと思ってるんですけどね。

―それぞれの区長さんが中心に?

青木:
そうですね。区長さんと集落の人たちの全体の会議ですね。

―長岡市と合併してからも、区長制度は残っているんですか?

青木:
残っています。…二冬目が来るわけですよ、もう1回、これから雪が。だからできれば、自分たちの集落の将来像というか、そういうものを12月中位には住民が共有してね。

―将来こうなるというイメージを持って、雪を越えると?

青木:
そうです、そうです。で、冬の間に自分たちの“絵語り”の中にきちっと肉付けをして、春からそれを具体的に事業化していくことで、住民の希望がつながるというか。やはり、山の中で暮らすには、住宅だけ作って「さあどうぞ」っていうわけにはならんのです。《集落機能》ができないと、維持できないと、そこで通年生活するというのは、すごく難しいと思うんですよね。

集落ごとに意見を交わす場があって、それをまとめる区長がいて…というような仕組みとしての、《集落機能》。平らで真四角な地面に、ただ綺麗にもう一度建物を並べて、という都会の復興とは、かなり取り組み方が違う。

■高齢化は「問題」ではない!

壊滅的被害を受けて、未だに避難指示が出たままの6つの集落では、もはや元の土地での再出発は不可能で、旧村内の別の場所に丸ごと移転して、ゼロから新しい集落を作り上げなければならない。しかしそれさえも、青木室長は「チャンス」という前向きな言葉で捉えようとしている。

青木:
山で快適に暮らすためには、今までの伝統文化を踏まえたうえで、どういう形の集落を作るかというのが、これからの復興のベースだと思っています。何百年と続いた集落の機能ですとか、文化とかね、そういうものを今回、折角こういう形で今に合わせて作れるようになったわけだから、もう1回住民と相談した中で、一番暮らしやすい形で再生する方が、はるかにいいのではないか、ということですよね。
復興プランを作る時に「震災を千載一遇のチャンスと捉えて」というふうに書いたんですけども、基本的にはそういうことなんですね。山の中には山の中のやり方というのをね、やっぱり考える必要あると思うんですね。すべてが全国一律の制度の中でやるんじゃなくて。

「山の中には山の中のやり方」とは、具体的にはこんな発想だ。例えば、山古志で今一番心配されていることの1つに、高齢化問題がある。山に帰りたいという傾向は、高齢者ほど強く、若い世代の中には「もうこの機会に村を捨てて町に暮らしを移そうか」という気持ちもある。そうなると、これを機に一段と住民の平均年齢が高くなってしまうのでは、という問題が生じそうだが、青木室長は、その懸念をこう喝破する。

青木:
高齢化なんてのは、「問題だ」というのが問題なんですよ、あれは。みんな昔から、長寿になりたくてどうしようもなかった。人間が望んでも望めなかった長寿社会を手にいれたわけだから、それは喜ぶべきもんであって、問題視すること自体が問題なんですよ。
だとしたら、その高齢者がどうやったら生き生き暮らせるか、というのを、やっぱり考えていかなきゃならんわけです。だから、《60歳からが地域の後継者》だということと、もうひとつは、《生涯現役で暮らせる地域》を作ろうということなんですね。60歳から80歳までなら、山古志に帰ってきて、畑を耕しながら、または田んぼを作りながら、集落機能のなかで、あの環境のなかでだと、本当に現役で暮らせると思うんですね。
まず高齢者が帰るから、人がつながるんだと思っとるんですよ。若い人達がつなげるというつながり方は当然あるんですけど、年寄り同士がつながっていく世代のつながり方だって、いいんだろうと思っとるんですよ。そういう形、そういう生活の仕方を、やはりこの復興を通じて、提言していきたいですね。

■復興とは「元に戻す」ことに非ず

今の青木室長の話の中の「60歳で山古志に帰って来て…」という言葉には、実は2つの意味がある。ひとつはもちろん、「仮設住宅から元の地域に帰る」という意味だが、もうひとつ、より長期的なライフサイクルの構想を含んでいるのだ。一言で言うと、《出稼ぎ再生プラン》。

青木:
かつて山古志なんかも昭和40年代以降、半ばぐらいまでは、地域のリーダー達が秋になると出稼ぎして、都会に出て、そこで仕入れて来る情報とか技術とか経験というものを、今度春に帰って地域で活かせる、ということがあったわけですよね。ところがその後、出稼ぎしなくてよくなった。それほどに生活は確かに向上したということですけど、その分今度、旬な情報とか、そういうものを、なかなか地域で活かしにくくなってくるっていう問題があると思うんですね。
ですから、折角こういう地域作るんですから、《もう1回出稼ぎをしよう》と思っとるんです。昔の出稼ぎは1年ごとだったけど、今度は“40年の出稼ぎ”をしようと思っとるんですよ。つまり、20歳過ぎまで地域にいた人達がね、都会に出て、40年間一生懸命日本の経済を支えてもらう。そこで定年になった人達が、もう1回地域に帰ってから20年間、現役で暮らせるとしたら、まさに昔の出稼ぎと同じことじゃないですか。それが多分、地域の活力に相当なるんじゃないかと。そういう形の地域づくりを目標にして、再生していきたいと思ってますね。

春になったら戻る出稼ぎではなくて、定年になったら戻る《一生単位》の出稼ぎシステム! こうなるともう、山古志だけの復興話にとどまらず、全国の山間地の村のモデルになりそうな計画だ。2度目の冬の雪が溶けたら具体的に動き出す、というこの山古志再生の取り組み、大いに楽しみである。

青木:
だからもう、元に戻すってことじゃないんですよ、これは。復興というのは、《新しい地域づくり》だと思ってますから。だって今でも地域に入ると、「これから100年続く村をつくるんだ」って言ってる人達がいますから。
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