前回に引き続き、先週封切りされた、周防正行監督の映画『それでもボクはやってない』の司法監修を担当され、映画とよく似た事件で弁護人も務められた安田隆彦弁護士に、お話を伺う。
■熱心さが行き過ぎると…
映画では、役所広司扮するベテラン弁護士が、痴漢の現行犯として逮捕された主人公の青年と接見(面会)し、供述調書を取られるときの落とし穴について、アドバイスをする場面がある。
―――――<作品より>―――――――――――――――――――――――――――――――
弁護士(男): 調書に自分の言ってる事が正しく書かれていなかったら、絶対に署名はしないでください。
主人公: えっ? …もうしちゃいました。
弁護士(男): …してしまったものはしょうがない。次の取調べの時に訂正してもらってください。これからは、いい加減に署名しないように。裁判で、不利な証拠になりますから。調書は、取調べ官の作文です。聞かれたことに答えているのに、出来上がった調書は『正直にお話し申しあげます』とかなんとか、一人称になってるでしょ。文体だけじゃない。ニュアンスも変えて、有罪の証拠となるように、文書を作ってしまう。例えば、「手が偶然お尻に当たることもあるだろう」なんて言われて、「そうですね」と答えたら、『私は偶然、手でお尻を触ってしまいました』なんて、自白したように書いてしまう。根気よく訂正を求めてください。
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こうした警察当局の熱心さを通り越した強引さは、お芝居の中の話だけではない。私も学生時代、ある軽微な選挙違反容疑事件の捜査と言う名目で、友人達が次々に取調べを受け、まさにこのような調書の取られ方をしたという話を聞き、「警察って、“方針”を決めたら一本槍で、両刃の剣だな」とつくづく感じた思い出がある。
安田: どちらにしても検察側は有罪を目標にするわけですから、有罪になるほう有罪になるほうに調書を取るんです。ですから、弁解なんていうのは何も聞いちゃいない。そういう中でやっていくもんですから、どうしても有罪に関係無い、ないしは反対の証拠になってしまうようなものは取らない傾向にはありますね。正確に一問一答式に書いたりすると、結構面倒なところがあったり、供述調書の迫力がない。
――迫力なんて、求めるんですか!?
安田: あまり良いことではないんですが、日本は、“書面主義”と言って、供述調書等が非常に重視されてしまう。つまり、最終的には裁判官に読ませるわけですから、そういう意味では、読みやすく読みやすく(しようとする)。そういう傾向があると思いますね。
しかも、よく我々も感じるんだけども、役所広司さんが映画で言っていたように、取調官は、基本的には第一人称で調書を書く。
つまり、「私は…」と、さも取調べ対象者が自分から語ったような文体にしてしまう、ということだ。これは、決して法廷に限ったことではなく、週刊誌などでもときどき、「事件の当事者が手記を寄せた」と称して使われる手法だ。私自身もハメられた経験があるが、記者からインタビューをされたのに、質問の部分を全部取り除いて「下村が手記を書いた」ということにして載せられてしまったりする。
■「自白したんだから本当だろう」の落とし穴
この問題が根深いのは、作文する側が別に悪意でやろうと思っているわけではなく、上述の通り、“迫力”を求めていたり、分かりやすさを求めていたり―――つまり、良かれと思ってしているという点だ。
安田: 映画でも何回も出てきますが、(起訴された者がやはり)有罪となる率は、99.9%。これは世界一なわけです。やはり厳密な捜査をやって、本当の犯罪者を適正に処罰しているという面はあります。そういう意味では、効率化のために(犯行を)認めている被告人とか被疑者のケースについては、裁判官にも早く読めて分かりやすいようなものを書こうという流れはあると思いますね。
そのようにして書かれた「供述」が、報道されたり裁判で証拠採用されたりすれば、一般の人は当然、「自分で言ってるんだから本当だろう」と思ってしまう。
「警察が発表したんだから本当だろう」と何でも信じる《善良過ぎる国民》と、逆に「警察権力は全て横暴だ」と《悪意に解釈し過ぎる国民》との中間に、恐らく多くの真実はある。
安田: バランス感覚というものは、必要だと思います。私はなにも、「本来有罪の人が嘘をついて釈放されればいい。世の中にすぐ戻って来ればいい」とは思っていません。ですが、否認している人とか、前科前歴がほとんど無い方が否認している場合は、やはり捜査機関も慎重にならなければいけない。裁判官もそうです。事件毎に、そういうことをきちんと区別していくという姿勢が、日本には欠けてます。自白を取ることだけに汲々とするという傾向は、アメリカやイギリス等は少ないと思いますね。
■誰にも見えない取調室の真実
いよいよ映画は、クライマックスの法廷シーンへ。映画の初めのほうで、主人公を凄い剣幕で取調べた刑事が証人として出廷し、それに対して主人公の弁護人が尋問で対決する。
―――――<作品より>―――――――――――――――――――――――――――――――
弁護士(男): 被害の客観的裏付けを取ろうとは考えませんでしたか? たとえば被告人の手の付着物を採取して、被害者の下着の繊維と同一のものか調べるとか。
取調官(刑事): いろいろと忙しく、うっかりしてました。
弁護士(男): 「うっかり」とはどういうことですか! 被告人の人生がかかってるんですよ!
取調官(刑事): いつもは採るんですが、どうして採らなかったのか良く覚えておりません。似たような事件が多いんで。
弁護士(男): あなたは容疑の裏付けを取らなければならない立場にありながら、具体的な証拠を調べようともしなかった。
取調官(刑事): そんなことはありません。
弁護士(男): あなたは被告人の弁解を真摯に聞くこともしなかった。どうして被告人の供述をきちんと調書に書かなかったんですか?
取調官(刑事): いえ、正確に録取しました。
弁護士(男): 「ドアに挟まっていた上着を引っ張っていただけ」という被告人の言い分を、あなたはなぜ録取しなかったんですか?
取調官(刑事): そのような言い分は聞いておりません。
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――安田さんが担当された現実の事件でも、取調べの刑事が容疑者の言い分を無視して記録に残さなかったという事がありましたか?
安田: ありました。被疑者・被告人の供述調書の中には、もう一切出てこないですね。私の事件でも、現実に「コートが扉に挟まった」とか、「目撃者の方が横にいて、駅員の事務室まで『コートが扉に挟まって一生懸命引っ張っていた』ということを言いに来てくれた」というようなことも(被疑者が)言ったんですが、それは(調書に)書いてありません。
――「そんな事聞いてない」とまで、この映画の中では刑事は言ってますけど、これは“嘘の証言”ってことにならないですか?
安田: そうです。
――嘘を言っちゃって、いいんですか?
安田: 良くないです。ただ、それを処罰する事はなかなか困難だということがありまして、偽証罪がまだまだ軽く見られるところはあると思います。
確かに、狭い取調べ室の中でのやりとりなので、「言った」「言わない」のどちらが本当なのか、追及の仕様がない。そういう風に見ると、この映画は、単なる“痴漢冤罪事件の話”ではなく、もっと広く深い、《日本の刑事裁判のあり方》そのものがテーマだと言える。
■「それでもヤツは…」と、複眼で!
勿論、犯罪自体を裁くことは重要だ。だが、映画のスクリーンに大写しにされる字幕のメッセージ―――“十人の真犯人を逃すとも、一人の無辜を罰するなかれ”―――は重い。これは、「たとえ10人の犯人を逃すことになったとしても、やってない人1人を罰する過ちを犯してはダメだ」という意味だ。
安田: それぐらい「刑事手続きが重要なものなんだ」というのを如実に示しているわけです。ですから、やはり皆さんに、そういう重要性をもっともっと身近に感じていただきたいということを僕も思います。周防監督もそういうことをおっしゃりたかったんじゃないでしょうかね。
特に通勤しているサラリーマン男性は、自分も痴漢と間違えられ《裁かれる立場》になる可能性があるという意味で、この映画に切実味を感じることができる。だが、もうじき、裁判員制度が始まると、本当に、見ている誰もが《裁く立場》としてこの映画に登場してくる可能性もあるわけだ。
安田: 確かに《人が人を裁く》ので、全くミスが無いということはありませんが、やはり合理的な事実認定をしなきゃいけないわけです。ですから、検察官の主張立証に合理性のある疑いが残るのであれば、それは有罪にしちゃいけないんだと、それを審査するのが裁判官であり、裁判所であり、裁判員なんです。
今回の映画のタイトルは『それでもボクはやってない』だが、次は同じ題材で、『それでもヤツはやっている』という視点から、もう1本このストーリーを見てみたい。そうすれば単なる善玉悪玉の話ではなく、「調べる側・裁く側からは本当に、やってない人でもやったように思えてしまうこともあるのだ」ということが浮き彫りにされるだろう。そこまで思い至ると、もっと慎重に人を裁かなくてはいけないというバランス感覚が身に付くかもしれない。
安田: 裁くということの難しさ、慎重にならなければいけないということを、一般市民の方にも十分に理解していただきたいと思いますね。
映画の封切りから、1週間経った。まだご覧になっていない方はぜひ映画館に足を運んでいただき、やがて自分にも回ってくるかもしれない裁判員の時のために、考えて欲しい。