本音トーク続出!シンポジウム「TVメディアを考える」

放送日:2005/12/17

先日(12月3日)、東京の慶応大学で開催された大変面白いシンポジウムに、パネリストの一人として参加してきた。タイトルは、「テレビメディアをみんなで考える〜より良きテレビ報道の為に〜」。徹夜明けのハイテンションで登壇した私が遠慮もせずに喋ってしまった、本音トークをご紹介する。

■“けしからん報道”の《罪》と、“けしからんオジサン”の《功》

まずは、最近の耐震データ偽造問題の報道のあり方についての問題提起から。

下村:
ヒューザーの小嶋社長とか、それは確かに、見る人によっては癇(カン)に障るキャラクターではあると思いますよ。(会場笑) 思うけれども、だったら彼の言ってる事は全否定なのか。国会の参考人招致でも小嶋さんは相当すごい勢いで喋ってましたけど、その中には「あ、そうだよね」って思える発言も確かにあるんです。でも、そういう取り上げられ方はしません。もう「こいつ、何言ってんだ」っていう取り上げられ方しかしない。もちろん逆に「小嶋さん、どう考えてもそれはおかしいよ」っていう発言もありますよ。そこを分けて、峻別してかなきゃいけないんだけど、もう「受け付けない」一色になっちゃってる。
それが何でいけないかと言うと、何も「小嶋さんの人権を守れ」とかそういう話じゃなくて、この耐震強度の偽装問題が再び起きないようにするためには、何故起きたのかを、ちゃんと見極めなきゃいけない。そのためには当事者が言ってる事をまずは《きちんと聞く》ことをしなくちゃいけないのに、皆聞かないで怒ってる。これはとっても不幸な状況だと思います。

私は、テレビメディアというのは、現実を一度キュッと絞ってからブワッと膨らます、そういう2段階の操作を行っている装置だと思ってます。例えば1メートルのサイズのものを1センチだけ切り取って、また視聴者のところで1メートルに増幅した時には、その選んだ1センチの部分だけが1メートルのサイズになって現れ、捨てられた99センチの部分は復元されない。そういう形になります。
で、不幸にして今現在は、その1センチに絞る所としてよく選ばれているのが、「けしからん」という尺度です。大変、世の中が不寛容になってきて、「これは、けしからん」という部分を抽出して、それがポンと広がって、ダーッと日本中に増幅される。その結果、本当に完璧な人じゃないと、どんどんどんどん、次から次へ、「こいつがけしからん」って槍玉に挙がっちゃう。テレビを見てると、「今日の”けしからん”はこの人です」っていう感じが、今ありますよね。「批判している人達は、とっても立派な人達ばかりなのか?」と私は大きな疑問を抱くんですけど。
「こいつが悪い」となったら「すべて悪い」という極端化の機能を、テレビが最近担いすぎていて、非常に「おっかないな」と思います。

半年前(2005年4月)の福知山線脱線事故の後にも、「JR西日本けしからん、と何でもかんでも叩きすぎ」とこのコーナーで力説し、賛同のメールを随分いただいた。ところが、この“けしからん報道”批判に対し、パネリストの1人である慶応大学の草野厚教授から、思いがけない突っ込みが返ってきた。

草野:
“けしからんオジサン”の代表だと思うんだけど、みのもんたさん。下村さんは彼と一緒に仕事されてますよね。あの人がバーンと言うと、どういうわけか「そうだよね」と思っちゃう場合もある。それが怖いと。
下村:
数時間前までその“けしからんオジサン”と一緒にいましたけど、僕はみのもんたさんを非常に高く評価し、尊敬してます。一番端的な例をご紹介します。 11月5日に「麻原彰晃被告に、法廷維持能力は本当にあるのか?」というテーマで、私がリポートしました。つまり、本当に精神疾患で何も分からなくなっているのに、法廷の真ん中に座らせておいて、周りだけが議論してドンドン進めてるんだとしたら、あの裁判自体が茶番になってしまうわけで、本当のところはどうなんだ?と。だけど、そういうことを言い出すと、「あの麻原を死刑から免れさせるのか!」っていう反発が、当然ものすごく来るわけですね。
スタジオには河野義行さんをゲストとしてお招きしました。松本サリン事件で意識不明になってしまった奥さんのお世話を、今でも毎日続けていらっしゃる河野さんが、この問題をどう見るかを語ってもらいました。河野さんはご存知の通りの考えをお持ちの方ですから、「いや、私はそれでも、早い判決よりも、きちんとした判決を望む。もし麻原被告がおかしいのならば、専門の医者にちゃんと診てもらいたい」とコメントしたんですね。
そしたらみのさんが、「河野さん、あなた、よくそんなことが言えますね。恨みっていう感情も大事ですよ」と言って、河野さんのコメントに対して半ば噛みついたんですよ。それで河野さんは、キッと形相が変わってですね、「だって私は、それと同じ目に遭ったんですよ」とパッと切り返したんです。メディアのそういう独断によって、一度犯人扱いされたんだと即座に返したんですよ。
これは凄いなと。河野さんのこのキッと睨んでの一言を引き出して、全国の人に伝えるのは、これはみのさんじゃなきゃ出来ないな、凄い人だなと僕は思いました。つまり、先程の河野さんの立派なコメントを聞いた瞬間には、きっと少なからぬ視聴者が、「立派なこと仰ってるけど、そんなこと言ったって…」と本音の部分で思ったでしょう。普通ならその思いは封印されて終わりなんです。でも、みのさんがそれを代弁したんです。代弁したことによって、河野さんが「だって私は」と反論する。それが、さっきモヤモヤ思った視聴者には、ポーンと《自分への反論》として突き刺さったわけですよ。
だから結局、いわば色んな人が抱いているモヤモヤ(ある時には“けしからん”という気持ち)を、患部として一度摘出してくれるのが、みのさんの役割なんです。摘出してそこにちゃんとパーンと治療を加えて、要は開腹手術をして、また中に戻すということをやってるわけです。だからみのさんがスタジオで演じてる機能は、すごく重要だと僕は思ってます。

漫才に《ボケ》と《突っ込み》があるように、報道には《突っ込み》と《返し》があった方がいい。私が紹介したこのケースで言えば、みのさんが突っ込んだからこそ、河野さんの返しが得られたのだ。ただ、《ボケっ放し》では漫才にならないのと同じで、《突っ込みっ放し》で終らないことが必要だ。せっかく患部を摘出して治療を加えても、それを腹内に戻さなければ、手術は完了しないから。

■取材する側・される側の、信頼関係と緊張関係

次は、「取材する者とされる者の信頼関係」という議論。パネリストの一人、民主党の参議院議員・福山哲郎さんが、裏切られた体験を暴露した。福山議員は、この夏の総選挙で民主党のメディア対応窓口の1人になっており、そんな中での出来事だ。

福山:
ちょっと感想を聞かしていただきたいんですけど、(選挙のときに)実はこういう場面がありました。
岡田代表がコマーシャルを作る。その撮影現場にマスメディアが入りたいと言う。岡田代表は、「撮影の現場にまで入って来られると、自分は表情も作れないし、そういうのは苦手だから勘弁してくれ」という話になって、メディアからすごく抗議されました。で私は、「メディアの人が皆来ているのに申し訳ないので、頭(最初の様子)ぐらい撮らせましょうよ」と言って、岡田代表と何回も直談判して、岡田さんにOKを貰って、取材に入ってもらいました。それで、8割方のメディアは歓迎してくれました。「よく交渉してくれました。僕らでは絶対ダメだった」と感謝をしてもらったんです。
でもその数日後、どこのテレビ局かは言いませんが、「岡田代表がノーと言い、記者と岡田代表の間を行ったり来たりして、苦労している福山議員」という形で映像になったんです。僕は、それは反則だろうと。「あんた達が撮りたいって言うから、一生懸命岡田さんと交渉して、なんとか頭撮りに入れたのに、それはないだろう」と。そこで僕は、(マスメディアに対して)非常に不信感が高まりました。たまたまそのひとつの例だけ申し上げましたけど、他にも何度かこういうことはありました。
下村:
多分私も、その場にいたら福山さんのその映像を使ったと思います。なんでかって言うと、それは民主党のある一面を非常によく、偽りなく映しているから。
私も、その場はたまたま居なかったわけだけど、同じようなことを辻元清美さんに対してやったことがあります。彼女が復活するよりも、まだずっと前の段階のときです。彼女は、メディアに叩かれて非常にナーバスになっていて、ずっと取材に応じてなかったんだけど、「下村なら」と応じてくれたんです。その単独インタビューに応じたとき、ピンマイクを胸につけながらの雑談から、もうカメラは回ってたんですね。その雑談の中で、辻元さんが「今日ここに来る前、昨日はどこを取材してたん?」って聞いて、「鈴木ムネオさん」って私が答えたら、「ム…!」って彼女は絶句したんですよ。つまり彼女は、鈴木宗男さんとセットにされるのは凄く嫌なんですね。その「ム」っていう一文字に、ものすごく彼女の気持ちが表れていたから、これはオンエアしようと思って、しました。

「ここは放送しないでね」と頼まれて「しません」と約束した部分を使ったら問題だが、そうでない限り、現場でテープが回った中で一番訴求力があると思う部分を使うのは、取材する立場から言えば当然なのだ。つまり、《一番実情が伝わる所》という価値判断で選んでいるのであって、それをしないで、《一番取材相手が喜ぶ所》という価値判断を優先させたら、それはもう「報道」ではなくて「広報」になってしまう。
このシンポジウムを主宰したのは、以前このコーナーでも紹介したことのある『メディア検証機構』というNPO。報道番組を視聴者側が採点して格付けする活動をしている団体で、基本的にテレビメディアに対して厳しい目を持っているが、その理事長である草野教授も、この福山参院議員と私のやり取りを聞いて、「それは、放送しようと判断したディレクターの方が優秀だよ」とソフトなスマイルで支持表明し、福山議員も「分かりました…」と苦笑で落着した。

■“ナマ物”を保存する難しさ

このシンポジウムで『メディア検証機構』は、冒頭に5つの提言を発表した。そのうちの1つに、テレビ各局は放送した報道番組をデータベースにして保管して、後で誰でも見返せるようにしてくれ、という要望があった。
確かに、新聞記事ならば縮刷版で何年後でも読み返せるが、テレビの報道番組は個人的に録画していない限り、後で見る方法は基本的に無い。この提言に対し、なぜテレビ局側がそういう長期保管に不熱心なのか、物理的な理由でなく心理的な理由の1つを私が解説した。

下村:
テレビというメディアは、文字メディアと違って、「この瞬間だから、この情報には意味があるんだ」という形で出すんです。だからライブラリーなんかをされてしまって、それを後で見られたら、もう見え方が違っちゃうのは当たり前なんです。つまり、“新鮮な果物”として提示しているので、これを「5年後でも食えるようにすべきだ」って言われても、「それは食えないよ」っていうのが、テレビ局側の考えとしてあります。《その時点では》という部分が、テレビの情報ではものすごく大事です。
「ならば、ライブラリーに保管するときに、それが放送された時点の時代背景を注釈として添付すればいいじゃないか」というアイデアが出そうですが、私は『サタデーずばッと』と『筑紫哲也NEWS23』いう2つの番組でリポートをしてますけど、制作のときには、時代背景どころじゃなくて、「《土曜日の朝》だから、こういう出し方だな」というところまで考えます。「何時の時間帯に見るから」・「直前のニュースで皆がここまで知っているから」こうだな、と、出し方自体を根本から変えてます。それぐらい、「その瞬間に一番いい表現は何か」ということを考慮しながら発信するのが、テレビというメディアなんです。そこまで細かい《瞬間の空気》は、いちいち注釈として添付しようがありません。
草野:
でも、それって制作者側の論理ですよね。仮に、その情報を提供された視聴者がですね、後で「やっぱり、あの番組の作り方は具合が悪いんじゃないの」と思ったときに、それを検証する手立てがない。それが我々『メディア検証機構』の設立趣旨なんですが、これについては、下村さんはどう手当てをしたらいいと思いますか?
下村:
実際に報道被害が発生してしまったときにですか?
草野:
(視聴者が)問題だと思ったときに。
下村:
いや、私個人の私見は、「全部ライブラリーに残すべきだ」なんですよ。先程お話ししたのは、テレビ局側の人間がそれに抵抗する心理的な理由を説明したわけです。
だから私も、「こういうライブラリー制度ができたら、言われなき批判をたくさん浴びるだろうなあ、嫌だなあ」とは思いますよ。「それは、当時の空気がそうだったんだよ!」って反論したくなるような“後出しジャンケン”的反応が山ほど来るのは容易に予見できるけど、だけどそれでも、報道被害などへの手当てを考えたら、新聞の縮刷版と同じようにテレビの情報も残すべきだと思います。それは、テレビで発信してる者が負わなきゃいけない部分だと思います。
草野:
ありがとうございました。

こうやって、視聴者側や取材を受ける側の人から、疑問点や提案などをぶつけてもらって放送局側が応えていく、という場が、どんどん増えるといい。その一環として、このシンポジウムは非常に良い場であった。

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