今週火曜(6月10日)、東京大学にある「先端研」での「障害学」ゼミを傍聴してきた。聞きなれない名前が並ぶこの講義の内容に、今回は眼をツケる。
「先端研」とは、「先端科学技術研究センター」の略。科学技術の進歩と社会の変化の中で、次々に生まれる課題には、これまでの枠組では迅速に対応しきれない。そのため、「先端研」ではこれまでの学部の境界を取り払い、文系・理系の枠さえもはずして、人間と社会に向かう先端科学技術の開拓に取り組んでいる。「障害学」もこの先端研らしい研究テーマの一つだ。≪障害≫という切り口から、社会学、法律学、経済学、機械工学…といった従来の研究分野を横断して括り直す試みがなされている。
目が見えず耳が聞こえない福島智助教授がバリアフリーの研究に取り組んでいる所としても知られている。
先週金曜(6月6日)には先端研のオープンキャンパスがあり、「障害学とテクノロジー」というパネルディスカッションが開催されたばかりだが、今回は、敢えて普段のゼミの様子を覗いてみた。長瀬修・特任助教授が進行役のゼミで、この日は、NPO 『ユニークフェイス』の石井政之代表がゲスト講師で、“顔面不平等社会”というテーマで議論した。
『ユニークフェイス』については、団体設立の時と、ハンドブック出版の時に、このコーナーでも採り上げた。顔にアザや傷があり、「見た目の違いによる生きづらさ」を持つ人々のセルフヘルプ(自助)グループだ。情報交換や交流を行って助け合うと同時に、偏見を無くすために社会への様々な働きかけを試みている。
“先端”を学ぶ学生たちに、石井さんが何を語ったか。
第1のポイントは、顔のアザや傷は、“何かが出来ない”という《身体機能のハンディ》とは違い、いわば《社会関係のハンディ》であるという事だ。
- 石井:
- 誰からも隠せない場所に、アザなり傷が見えてしまっている。だからこそ社会的な関係性の中で苦しみが出て来ます。≪見えている≫という事がどれだけ大変か。それがなかなか伝わらないんです。なんで私だけが? 何故顔にアザがあるとこんなに苦しむのか? 誰も教えてくれない。隠蔽された苦悩があるわけですね。
顔についての苦悩は、社会からだけでなく、当事者同士でも隠蔽されている。その結果、当事者同士の繋がりも有史以来全く無かった。長瀬助教授が講義中に配ったプリントにある言葉を引用すれば、「少数派以前の孤立者」。つまり“派”さえ形成できず、1人1人で悩んでいた。
そこに『ユニークフェイス』が生まれ、社会の偏見に変更を求める働きかけを始めたことは、「障害学」を研究する人たちにとっても注目の動きなわけだ。
なぜ、他の少数派に比べて、“ユニーク”なフェイスの人々の結集はこれほど遅れたか。その一因として、石井さんは、社会全体の中で「無いもの」とされてきたことを指摘している。石井さんは『ユニークフェイス』結成のきっかけとなった『顔面漂流記』(かもがわ出版)という本の執筆中、ふと回りを見回して、次のような事に気付いたという。
- 石井:
- 顔にアザがある人の写真を、雑誌などで見たことがないわけです。新聞の写真を見てもない。ニュースを見ると、社会は普通の顔した人だけでできているかのような錯覚をしてしまう。情報産業の中心にいる人達が、おそらく、“普通”の顔をした人達なのでしょう。
この結果、当事者の中に何が起きているかを、石井さんは講義で配ったプリントの中でこう指摘している。「『自分と同じ症状の人は、自分と同じ社会的状況にある』という『思い込み』」が生じてしまっているが、「同じ、似た症状でも、100人いれば100人の生き方がある。多様性と、共通性の両面を発見する場」が必要だという。
「自分だけじゃないんだ」という一種の“楽になる気持ち”と、「皆それぞれに取り組んでるんだ」という“自分の問題に対峙する勇気”という両面が求められるわけだ。
では、当事者側でなく、周辺の社会の側が持つ思い込みとは何か。石井さんは、低身長症の人に対する一般人の態度を例にとって説明した。
- 石井:
- 120cmで50才の人は、子供扱いされてしまいます。圧倒的多数のマジョリティが持っている“50才という年齢に見合った身長”のステレオタイプではないからです。同様に、顔にアザがあると“気持ち悪い奴”というステレオタイプが作動して、対等な人間関係を作るのが難しくなるわけです。
「標準と違う」ことに対する仲間ハズレの行動パターンは、日本社会で本当に多い。
更に、石井さんが指摘したもっと根深い問題は、一般人が示す≪励まし方≫にある。「顔じゃないよ、心だよ」「大したことじゃない、気にするな」という決り文句だ。あまり考えずにパッと口にしてしまいそうなのだが、これらの言葉は、《社会の側に問題がある》ことにフタをして、《受け止める側が気にしないように》と強制しているのだ!
この社会の空気に、当事者はどう対峙してゆくのか。石井さんは、こう語る。
- 石井:
- 「顔じゃないよ、心だよ」「障害者に比べれば顔の問題など大したことはない、世の中にはもっと苦労している人がいる」というステレオタイプを、揺るがせて、変更させていくという事。今まで社会が気付かなかった苦悩が存在するのだ、と見せていく事です。そして、その苦悩が解決できることを証明していきたい。解決の主役は、私たち当事者であると思っています。
とはいえ、100人いれば100通りの苦悩がある。社会に向けてアピールしていくことを目的としながらも、メンバーの中には、社会に“顔をさらす”ことに大きな抵抗感を持っているからこそ、この集まりに参加している人達もいるのだ。それが『ユニークフェイス』設立以来のジレンマになっている。「そっとしておいてほしい」人のデリカシーは大切にしつつ、表に出られる人は、どんどんメディアなどに登場して発信していくことが1つの方法だと、石井さんは語る。
そこでまずぶつかる壁は、殆どのメディア制作者が、こうしたハンディに取り組む人の話を「お涙頂戴」のストーリーに仕立てようとする、非常に強いクセを持っていることだという。
- 石井:
- 長い間、そういう“障害者涙モノ”を作ってきた経験が骨身に沁み込んでいる。だから≪自動的≫に作ってしまうんですね。だから私達がメディアに出る時には、そのステレオタイプの技法しか知らない人達と向かい合って、相互に関係を作りながら、全く新しいものを作っていきましょう、と言っていくんです。その共同作業性が保証されない場合には、取材を拒否します。「前に見たことがあるお涙頂戴と同じものだ」と安心して泣いてもらっては困る。そんなものではなくて、全く違う価値観の存在がここにいて、自分の古い価値観が壊れて行く、揺らいでいく―――という情報を、私達は発信していきたい。
『ユニークフェイス』という《取材される側》の人たちが、《取材する側》と共同制作のつもりで個々のリポートや記事作りに関わっていく、ということだ。これは『ユニークフェイス』だけではなく、最近、他の様々なグループも同じ方法論を提唱している。一方的に取材されるのではなく、自分たちも一緒になって発信していく。下村が常々お伝えしている市民メディアの考え方にも通じる、新しい潮流だ。
もっと詳しく石井さんの考え方を知りたい方は、最近出たばかりの新刊『肉体不平等−ひとはなぜ美しくなりたいのか?』(平凡社新書・700円)を一読されることをお勧めする。