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「いじめ」議論と『教育再生会議』の行方

2006年10月24日

教師の言葉がいじめを誘発して、中2男子生徒が自殺した事件で、「こういう教師を現場から退場させられないのか」、「事実を隠蔽しようとする学校の事なかれ主義は何とかならないか」という議論が盛んだ。この話は今後、山谷えり子首相補佐官首相補佐官が管轄する『教育再生会議』の「教員免許更新制の導入」「公立学校間にも競争原理を導入」という検討テーマとリンクしてくる可能性がある。

確かに、今回の悲劇の引き金を引いたような鈍感教師には、教員免許剥奪(あるいは長期停止)というレッドカードを渡すべきだと私も思う。学生時代に教員免許を一度取ったら一生安泰、という現行の制度は、再考の余地がある。しかし問題は、《免許更新の可否を誰が判断するのか》ということだ。その事実上の権限が、学校長や地元の教育委員会に委ねられるなら、いじめを隠そうとする教師達の隠蔽体質は、明らかに今よりも助長されるだろう。更に、競争原理が導入されて「良い学校・悪い学校」の比較・選択が加速されれば、一体どこの校長が、自分の学校のいじめを積極的に公表するだろうか(学校間競争のない今でさえ、こんなに隠すのに!)。『教育再生会議』には、そういった容易に予見される弊害を十分考慮しながら、議論を進めていただきたい。

では、どうすればよいのか? 少なくとも免許更新の可否が検討課題に上るような問題教師については、その評価を生徒や保護者たちにも尋ねる道を模索して欲しい、と私は思う。もちろんそこには、「生徒のご機嫌取りに走る教師を生まないか」「身勝手な親達に振り回されないか」といった新たな問題も生じるが、閉鎖された一部の権力ポストの人にだけ判断を任せるよりは、こうしたオープンな方法での小混乱の方がはるかにましだ。(もともと民主主義って、手間ヒマのかかる制度なんでしょ?) また、「良い学校・悪い学校」を明らかにしていくのなら、その判断基準となるデータを、学校側の自己申告ではなく第三者(地元住民など)の目で監査できるシステムも、あわせて検討されなければ、どの学校も“キレイ事”のオンパレードになりかねない。

こうして書いていると、「諸外国では、どうやってオープンな“みんなの学校”を作っているのかなぁ」と、実情を知りたくなる。モデル校ではなく、ありふれた一般校の普通の姿を、世界各地に散らばる日本人達が、「我が子を現地校に通わせている保護者」の視点で、市民メディアに発信してくれないかなぁ…。