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注目の話題

「家族が焼かれる」瀬戸際でも、模範的言動を求める社会にて

2004年4月27日

  イラクで拘束されていた日本人の人質第一陣の3人は、完黙のまま帰郷し、会見に耐えるだけの体力回復を待っている状況である。
  彼らが解放された映像の第一報がアルジャジーラTVから日本に飛び込んできた瞬間、北海道東京事務所に詰めていた家族達が大喜びするシーンの中に、彼らと握手を交わす私の姿や「下村さん、やったよ!」という声が入っていた事に、随分問い合わせをいただいた。「下村家では誰が解放されたんだ?」という質問もあった程、確かに私は喜色満面で映っていた。事の次第は、こうである。

ピースボート(前回本欄)の寄港地ベトナムから帰国した今月12日、スイッチオンにした携帯電話に最初に飛び込んできたのが、この3人の家族のサポートにあたっているあるボランティア・メンバーからのSOSだった。殺到するメディアの取材にどう対応して良いか分からず混乱しているから、とにかく助言をくれ、という要請。以来私は、人質解放の瞬間に至るまで数回、あの事務所に一個人として足を運んだ。
あの部屋は関係者以外立ち入り禁止で、まさかメディアがいるはずはないと私もすっかり油断していたのだが、この時だけは「喜びの一瞬」を撮る為に特別許可を得て代表カメラ(撮影後、各テレビ局に映像を配信して共同使用する)が入っていた為に、あのように全チャンネルで私のノーガードな姿が出まくってしまった、という次第である。なんともはや…

同事務所での私の役回りは、あたかも、浅田農産会長自殺事件の時にこの欄に寄せられた、ある高校教師の提言「流しのお助け広報部」的な作業を、さっそく舞台裏で実践したようなものだった。日々の声明や、会見での答え方などへの、ほんのちょっとした事前アドバイス。それは<<事実を粉飾する操作>>では決してなく、むしろ正反対に<<表現ミスや揚げ足取り等によって事実が伝わりにくくなることを予防する作業>>だった。

それにしても、あの家族達と同じ立ち位置に身を置いて外界を眺めると、まるで世間の全ての人達が手に手に針を持って、その先端をこちらに向けながら、「何かちょっとでも失言をしたら刺してやる」と身構えながら取り囲んでいるように感じられた。この異様なプレッシャーは、何だろう。日本社会って、昔からこうだったんだろうか。
  事態は今も、現在進行形である。

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