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メディアが変える・既存メディアは変わるか
「危ない報道」に対する「危ない批判」を憂う
以前、私は「眼のツケドコロ」その他で、横田めぐみさんの娘キム・ヘギョンさんに対するフジテレビ等のインタビューを、強く批判した。以来、一連の北朝鮮報道に対する非難の合唱が各方面でエスカレートしている。しかし、その論旨には、逆に首を傾げざるを得ないものも多い。
私は当時、[1]《対立する二者のうち一方が仕掛けた見え見えの情報戦に、メディアがまんまと利用されている》・[2]《取材相手に対する人間的配慮が欠けている》、という二点について、指摘した。その根底には、言うまでもない自明の事と思って当時それほど強調しなかった大前提がある。それは、「キム・ヘギョンさんやジェンキンスさんのインタビューを報道したこと自体は、全く間違っていない」という私見だ。
その伝え方の拙さ([1])や、扱い方の無神経さ([2])は厳しく指弾されるべきであるにせよ、「そんな取材活動自体をすべきでない」という主張には、私は全く同意しない。
考えてもみてほしい。メディアが、《可能な限り情報を集める努力をし、それをそのまま国民に伝えて、国民自身の情報判断に委ねる》のと、《「これは国民に知らせてやった方がいい・これは知らせない方がいい」と恣意的に判断して取材・報道を手加減する》のと、どちらが健全だろう?(ここは水道管のイメージで、前者を『パイプ型』・後者を『バルブ型』と仮称しよう。)この二択には絶対の正解というものは存在せず、その時々の社会が選択すべき事柄なのだとは思うが、私個人は、パイプ型の方がずっとマシだと確信する。「○○には知らしむべからず」などというバルブ型の権力をメディアに持たせてはならず、国民の判断力を尊重したいから。
だから、もし例えばあの時キム・ヘギョンさん会見に同席していいよと言われれば、私も躊躇なく(ただし細心の注意を払いつつ)それを実行しただろう。そして、前述の[1]・[2]の脇を固めた上でそれを報道に供し、視聴者の議論百出を喚起する。―恐らく大多数のメディア人が、同様の決断をしたと思う。報道の仕事に携わる者は、一人一人が「とにかく事象そのものに近づきたい」という本能的欲求のようなものを持っており、その欲求同士の自由競争の総体が、いわば"見えざる手"によって、真実を掘り出し伝えるというメディア界の機能を自動的に強化してゆくのだ。
これに対し、前述の取材活動自体を批判する人たちの意見は、結局のところ、各メディアに「自ら元栓のバルブを締めよ」と求めているに等しい。今の"見えざる手"の比喩になぞらえて言えば、それは《こんな摩擦を避けるべく、自由主義経済なんてやめて、統制経済に移行しろ!》という種類の言説に発展してゆくリスクをはらむ。
そんな懸念を一笑に付すほど、私はお人好しにはなれない。
※文中の情報は、全て執筆時点(冒頭記載)のものです。