ヒバクシャ112人が出航!  最初で最後の規模の“世界一周・証言の旅”へ

放送日:2008/8/23

今年もまた、広島・長崎の日が過ぎた。まもなく、100人以上のヒバクシャの方々が、一斉に1つの船に乗って地球一周の証言の旅に出るという、前代未聞の大きなプロジェクトが始まろうとしている。今朝は、9月7日の船出を前に、NGO『ピースボート』共同代表の1人、中原大弐さん(眼のツケドコロ・市民記者番号№71)にお話を伺う。

――これは、どういう企画ですか?

中原: 広島・長崎から63年。総数112名(在韓被曝者4名含む)の被爆者の方が1つの船に乗り込んで、103日間、世界22カ国、21地域を巡りながら、自分自身の被爆の体験を世界の人々に伝えていこう、という企画なんです。

■世界の共通語「ヒロシマ、ナガサキ」を語れるように

――どうやって、こんなに大勢集まったんですか?

中原: ピースボートは25年間、船で世界中を回ってきたんですけど、よく海外でいろんな質問をし合ったりするんです。その時に、現地に住む人たちに「日本について何を知ってる?」って言うと、必ず「ヒロシマ」「ナガサキ」っていうのが出るわけですよ。で、交流している日本人側の若者は、そう言われて「えっ」と、逆にビックリしてしまうんです。日本の若者も、8月6日、8月9日が広島・長崎の日であることは、もちろんアイコンとしては知ってるけれど、じゃあ何故、広島に原爆が落とされたのか、そしてそれから被爆者の人たちが戦後どんな事を思って生きてきたのか、その実態は全然知らないんですよ。
 もちろん、被爆者の方が世界に行って自らの証言をするということも大事なんだけれども、同時に、乗り合わせている若者たちが100日間かけて、被爆者の方々と日常生活をしていく中で、彼らの63年間というのをどこかで体験し、そこから何かを引き継いでいくということが出来れば…。100日間の船旅の約7割が海の上なので、時間がゆったりある状況の中で、被爆の体験、戦後、そして彼ら自身の人生みたいなものを語り合っていく場が提供できれば、という思いで始めたんです。

そこがこのイベントの最も前代未聞なところだ。飛行機で行って、講演をしてポンと飛んで帰ってくるのではない。聴き手の側にしても、100人の被爆者の方と延々100日間、寝起きを共にするという体験は、今までならあり得ないことだ。

――被爆者以外の一般の乗船者は、何人位なんですか?

中原: 通常の乗船者という人たちが600人位いるんです。この時期、若者が少し多くて、350人から半数以上は若者なんです。将来を考えていくと、いつか、(被爆体験の)証言者たちはいなくなる。その時に、世界に行って、「ヒロシマ」「ナガサキ」って世界の人々に言われたら、僕ら若い世代が、それに対して返していく言葉をどれだけ持っているのか。やっぱり考えれば考えるほど、この広島・長崎ということを僕らは背負わないといけない。これは、世界と向き合っていくときに、凄く重要な《外交カード》でもあるし、伝えていく《人類普遍の意味》がある。その双方を持っていると、僕は思うんです。

■8月《5日》をカラーで伝えたい

『ピースボート』は、世界の貧困、環境問題、対立など、色々なテーマを抱えた地域を見学・交流しながらずっと回っていく。と同時に、「水先案内人」と名付けられた講師のような方が何人か乗船して、移動中の船の上での時間も有意義に過ごすという形が、1つのパターンになっている。

――その「水先案内人」の部分が、今回は被爆者の皆さんで膨らんでいるという形ですね。

中原: 今回、広島・長崎を中心に一般公募したんです。基本的には、被爆者の方は招待という形でやったんですけど、1つこだわったことがあって、それは、「誰でもいいよ。むしろ、今まで証言をしたことが無いという人も歓迎だ」と。証言っていうと、何か大人数の前で自分の思いを語っていく、もしくは、あの悲惨な現実を語っていく(というイメージが強い)。だけど、僕はむしろ、ごく《数人》の若者の前で、8月6日ではなくて、《8月5日》=つまりあの悲劇が起きる前、「あの当時、私達はこうやって生きてたのよ。こんな事を考えていたのよ」という、失われてしまった日常の部分を語るだけでもいいと思う。あの当時、自分たちが、時代や政治とか、音楽とか、何を考えたんだろうみたいなことを伝えていくだけでも十分だ、と僕は思うんです。

原子爆弾が落ちる前の日までの様子。あの日、ピカッと来て何が失われたのか。あの惨状だけでなく、《失われた物》が見えてくるということは、凄く大事だ。

――その(原子爆弾が落ちる)前の“当たり前の”空気が分かれば、今の空気とどこが似ていてどこが違うのかとか、色々考えるヒントが、そこから湧いて来ますよね。

中原: そうなんですよ。若い世代と話してて、口を揃えて言うのが、「日本の歴史っていうのは、ある所まではカラーなんだけど、そこからはモノクロ、モノトーンの世界に入っていってしまう」と。たとえば沖縄戦でも、鉄の暴風雨が降り注いだあの日も、青空だったんですよね。そこはやっぱり凄く大事なことで。

■拡がる発信―――訪問国でも、帰国後も

中原: そして今回、映像でも、ぜひそれ(被爆者たちの証言)を記録に残して行こうというのを考えているんです。テーマで言うと、ザ・ウォー・イブ(=戦争前夜)みたいな切り口で、「失われたくなかった日常」をテーマに、一人ひとりの記録を集めていく。その彼らが語る日常というのは、ひょっとしたら、63年経った僕らも失いたくない日常と同じなのかもしれない。(船旅から)帰ってきて、それを(映像を柱に)いろんな形でアウトプットしていくのは、若い世代に戦争の記憶を伝えていく1つの方法かな、と考えています。

彼らの船上での語りをビデオカメラで納めておいて、それを何らかの形で、船に乗っていない人達にも共有していく。ちなみに、この重要な役割を担う同行カメラマンは、私のオフィシャルサイトの動画制作を担当してくれていた国本隆史君だ。彼は、学生時代に長崎で被爆者の話を集めて回る活動等をしており、今回は、本職のサラリーマン稼業も、下村サイトの手伝いも中断しての乗船となる。

中原: 今回これを打ち出して、もう1つ思ったのは、世界各国の反応なんです。どの国でも「これを積極的に受け入れる」と、予想以上の反響が今来ていて…。大きな理由として、2つあると思うんです。1つは、イラク戦争のこともあると思うんですけど、やっぱり、世界から戦争を無くしていこうという潮流が市民社会にはある。もう1つは、(実際の)被爆者に会ったことがないんですよ。だから、彼らがどんな事を喋るんだろうか、っていうことを、世界中の国々のメディアが「ぜひ撮りたい。ぜひ出会わせて欲しい」ということで、世界中から予想していた以上の反響があるっていうのが凄く嬉しいなぁと思ってて。

――なるほど。相変わらず一番鈍感なのが、日本のメディアだったりして…

中原: そうそう。(笑) 

■小さな島での出会い、南米でのデビュー

――今回の旅で、生身の被爆者の声を初めて聞く人が、世界に沢山生まれるわけですが、それはどんな影響を及ぼすと思いますか?

中原: たとえば、南太平洋のタヒチに行くんです。タヒチっていうのは、ムルロア環礁でのフランスの核実験(1995年)によって被爆した人が沢山住んでるから、世界の中の被爆者っていう側面で言うと、今回、彼らとの交流もやろうと思ってるんです。そういう意味では、日本の被爆者と世界の被爆者が出会うということで、新しい展開、運動のつながりが生まれてくると思うし。
 同時に今回、南米のベネズエラっていう国にも行くんですけど、ベネズエラで被爆者が語ったことは、今まで無いんです。だから、歴史的に広島・長崎という体験が、ベネズエラで“デビュー”する機会になるんですよ。これは、自分たちの国の体験・歴史を世界に伝えるという意味では、被爆者の方々自身にとっても生きがいになるだろうし、日本としても、非常に意味のある外交だと思うんです。

正に“民間外交”であるこの地球一周の船旅のパンフレットには、横浜を出港し、ベトナム、シンガポール、インド、エリトリア、エジプト、トルコ、ギリシャ、マルタ、イタリア、スペイン、ベネズエラ、ドミニカ、パナマ、パナマ運河を渡ってペルー、チリ、タヒチ、ニュージーランド、オーストラリア、パプア・ニューギニア、パラオ、そして横浜へ戻る、という行程が載っている。

――本当に、地球一周ですね。

中原: そうですね。もちろん各地で色々な事をやるんだけれども、同時に被爆者の方にも、エジプトに行ったらやっぱりピラミッドを見て欲しいし、ペルーに行ったらマチュピチュも見て欲しい。旅っていうことをぜひ楽しんで欲しいと思うんです。その一方で、どんな形でもいいから、若い人に《歴史のバトン》を渡して欲しいなと。この船に乗り合わせた若者が、100日間一緒に生活をしていく中で、大なり小なりいろんな事を感じると思うんです。それを今度、日本国内に帰ってきた時に、いろんな地域で歴史のバトンを継承して伝えていくきっかけにして欲しいなと思います。

そうして一緒に船旅をする日本の若者たちも変わるだろうし、生まれて初めて被爆者の声を聞く世界の人たちも変わるだろう。そしてまた、被爆者たち自身も、この経験を経て変わるような気がする。

■初めて体験を語る人々

――「乗るよ」って申し込んできた人たちの中には、たとえば、身の周りの人以外には初めて被爆体験を語るという人もいらっしゃいますか?

中原: います。正直な話、今まで証言をしたことがある人は、本当に一握りなんです。一般の人のほうが多いんです。僕はそれでいいと思ってるし、いきなり最初から「語りなさい」っていうことも言わない。この長い100日間のどこかで、自身の体験を、どんな形でもいいから伝えて欲しいし、語って欲しい。それを僕らがどうやって受け止めていくのかっていうのは、非常に大きなプロジェクトですし、出航してからもいろんなアイデアを出しながら、いろんな事をやって行きたいと思ってます。

――100人を超える被爆者の方々への説明会も開かれたわけですよね。

中原: もちろん! そこでも、「私、今までそういう事を話したことがないんですけど、それでもいいんですか?」っていう問い合わせが一番多かったんです。僕らは「いいです!」と。応募をして来るということは、今まで語ったことが無いけれども、どこかでそれを伝えたいっていう思いがやっぱりあるんだと思うんです。だから、戦後63年の中で、彼らがそれを語れなかった環境、社会、政治があったということです。
 いつか、彼らはいなくなる。で、戦争を体験したことが無い僕らが、日本の社会の中心になっていくというときに、そういう人たちと100日間一緒に生活をした体験を持つ人間と、そうでない人間とではやっぱり違う、と僕は思うんです。

このコーナーで4年前に、『ピースボートTV』が始まることを採り上げ、いよいよ『ピースボート』も船に乗っているだけではなくて、その成果を発信するのだとお伝えした。今回はその極めて大きな、具体的なコンテンツになる。どういう証言映像集が出来上がるか、非常に楽しみだ。

――皆さん、ご高齢ですから、帰国まで健康管理が本当に大変だと思いますけれども、無事な船旅を。

中原: はい!

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