豪憲君殺害から1年…秋田事件取材は、あれで良かったか?

放送日:2007/5/19

秋田県で小学1年生の米山豪憲君が殺害されてから、一昨日(5月17日)で1年が経った。去年の今頃、豪憲君の自宅周辺の住宅地は、報道陣の殺到で騒然としていた。特に、後に殺人罪で逮捕・起訴されることになる畠山鈴香被告の実家は、記者やカメラマンがぐるりと取り囲み、いわゆる“メディア・スクラム”(集団的過熱取材)と言われる状態になりつつあった。

■“結果オーライ”で良いのか?

当時は、その取材手法がメディアの中でも少々問題視されていたが、6月4日に畠山被告が逮捕されたことで、結果オーライのような空気になり、それから特に強く再検討されないまま、ウヤムヤになってしまった。あの事件の取材のあり方は、本当にあれで良かったのか? 『LAMVIC(報道被害救済弁護士ネットワーク)』(1月にこのコーナーでも紹介した)の一員で、「いわゆるメディア・スクラムをめぐる問題点について」という論考もある飯田正剛弁護士にお話を伺う。

飯田: 弁護士会の調査ということで、去年の6月3・4日に、藤里町、能代市、秋田市と回って来ました。(鈴香さん)逮捕の前日と当日ですね。鈴香さんのご家族にも会って、話を聞いて来ました。
  現地で、私もいろいろ考えたんです。法律家的に言うと、個人の尊厳、或いは、最低限守られるべきものが守られてないんじゃないか、つまり、《リンチ》と言ってもいいような状況を、結果的に認めてしまうことになって本当にいいのか、という問題意識が出てきましたね。

そもそもこうした取材は、全てのケースで「コイツはクロじゃないか?」ということからスタートする。(完全にシロだと思う人の所に、取材に行くわけがない。)だから、「クロの場合は過熱取材をしてもOKなんだ」という《暗黙の了解》を許してしまうと、結局あらゆるケースで、同じパターンが再発してしまう。松本サリン事件の河野義行さんのケースが、その良い例だ。これを防ぐには、「シロかクロか判らない」段階では無条件にメディア・スクラム禁止、という考え方に切り替えるしかないと思う。

飯田: ジャーナリズムの立場から言うと、「事実を追求する」「真実を追究する」ということで、後になって事実、真実が分かって、結果的にその《報道の仕方》が合っていたという場合があると思うんです。しかし、《取材の仕方》の場合は、その都度、取材をする側・取材を受ける側の緊張感、その場の合法性というものを判断していかないと。結果的に逮捕されて有罪になればいいんじゃないかという形で、取材段階での違法性や道徳的な問題が(さかのぼって)不問にされてしまうのは、ちょっとおかしいんじゃないかなという発想です。

■倫理の問題を越え、違法性の問題に

――飯田さんご自身も、現場で写真撮影しているときに、現地にいた記者と議論になったとか?

飯田: そうです。6月に現地に入ったときに、当時、畠山鈴香さんの実家を取り囲んでいるマスコミ陣を取材・調査したわけですけれども、私が手持ちのカメラで、メディア・スクラムをしているマスコミの人達を写真に納めていたんです。もちろん遠くからで、特定のメディアじゃなくて、集団的に脚立とか三脚で構えている(マスコミ側の)状況を撮っていたんですが、そのスクラムをしていた記者の1人が、「なんでそんな写真を撮るんだ!?」と言ってきて、現場で議論になりました。

――そのクレームをどう思いましたか?

飯田: その時に私は、「撮っているマスコミの人達が、自分達が逆に撮られた場合になると、なぜ抗議するんだ?」「自分達のやっている事が本当に判っているのか?」という、まず素朴な疑問が浮かびましたね。更に、そこで私が考えたのは、「マスコミの人達の倫理観に任せているだけでいいのか?」「《倫理的にOKかどうか》じゃなくて、法律家として《違法性という形での議論》をしないと深まらないかな?」ということです。被害者の依頼を受けて裁判所に持ち込んで、例えばそこの撮影禁止の仮処分とか、そういう場でメディア・スクラムの違法性を議論しないことには始まらないだろうと考えたわけです。ということで、今になってみれば結果論ですけれども、その記者には感謝していると言うか、問題提起のきっかけを与えてくれたと思っています。

――しかし、《違法性》って、どんな法律に触れるんですか?

飯田: 憲法13条に抵触する、プライバシーの侵害と、民法709条のいわゆる不法行為ですね。取材を受ける対象者、取材の場所、取材の方法・手段、追尾をするかどうか、対象者が抗議をしたかどうか、沢山の人(同業者)がいる事をマスコミが認識していたかどうか、そして取材対象者にどういう圧迫感や影響を与えるか、という総合的なファクターを考慮します。その上で、「この場合は取材されても我慢しなさい」=いわゆる《受忍限度》の枠内だと言う場合は適法でしょうけれども、それが《受忍限度》を超えて、取材を受ける側の人格権・プライバシー権を侵害すると判断される場合は違法である、という枠組みを作ったらどうかなと、考えたんです。

<参考>
      憲法第13条    すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する
                 国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の
                                  上で、最大の尊重を必要とする。

      民法第709条 (不法行為による損害賠償)
                 故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した
                 者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。

《受忍限度》を超えている象徴的な表れとして思い浮かぶのが、カメラを怒りの形相で睨みつけたり、カメラを押し下げたりする畠山被告の映像だ。記憶している方も、多いだろう。あの映像は、犯罪者イメージと結びつけて各局で何度もオンエアされた。しかしあの表情は、しつこい報道陣に向けられた怒りであり、彼女が無実だとしても(いや、むしろ無実であればなおさら)強い怒りの形相になって当然だ。あの顔は報道陣によって“作られたシーン”に過ぎず、ニュースでは全くない。もし彼女が去年、シロという展開になっていたら、どこのテレビ局も以後自分達の取材姿勢が問題視されることを恐れて、あのシーンは絶対に使わなくなったに違いない。

飯田: シロになった場合に限らず、彼女が仮にこの後裁判で有罪になったとしても、あれは許される限度を超えているんではないかと。

■若手記者が漏らす、現場の苦悩

後日、私は、当時畠山被告の実家を取り囲んでいたテレビや新聞の若手記者複数と、メールのやり取りをした。某社(TBSではない)の若手記者からのメールを、一部ご紹介する。

 [メールより一部紹介]
あれほど大きな事件になれば、もちろん現場の一記者では判断はできません。張り込んでいる最中、もし彼女が家を出てどこかに外出すれば、私が現地のデスクに相談し、デスクは本社と相談していたと思います。そうなると判断に時間がかかり、それまでの間、「とりあえず追いかける」という判断をしたと思います。私は本当に「落としたくない」という思いでいっぱいでした。それは他社の記者も同じだったんだと思います。

この業界では、他社が皆報じているのに自社だけが報じ損なうことを「特落ち」と言い、何よりも恥とされる。「自分だけが報じ損なうということは、絶対にしたくない」という現場の心理メカニズムを、このメールは端的に表している。当時、現地のメディア15社ほどから成る『秋田報道懇話会』は、人数規制(1社○人以下にしよう)や、追尾自粛(追っかけは止めよう)などの申し合わせ事項を取り決めてはいたが、こういう本音をベースに手を打たないと、いくら机上で「べき論」を重ねていても、実効性は保証されない。

――このメール、どう感じますか?

飯田: 非常に率直に、自分の気持ちを書いていると思います。こういう現状をどう変えるかを、私達は考えたいんです。この場合にも“デスク”という上司が出て来ますけれども、現場の記者の疑問をデスクにぶつけるとか、どこかで1歩立ち止まるというか、「本当にこんな事をやっていいのか?」という議論があって欲しかったなぁと思いますけどね。

「今日は1日、ニュース番組を放送しなくていい。報道局の皆で立ち止まって考えよう」という日を作れるのであれば、そういった議論も可能だ。しかし、ニュースは後から後から、永遠に押し寄せ続ける。締切りに追われ続ける中で、「現場の人間が、考える場をどこで作るか?」というのが、現実に大きな壁となって立ちはだかっている。

現場判断のもう1つの難しさとして、よく言われる「節度を持って取材しよう」というときの、《節度ってどこまでだ?》という線引きの問題がある。「この位まではいいだろう」という判断を、現場の記者がその瞬間瞬間にしなければならない。恐ろしいのは、段々慣れて行ってしまうことだ。先ほどのメールの主も、こう告白する。

[メールより一部紹介]
いかに取材の際には人権を無視しているか、いかに配慮しているふりをしているか
(秋田の事件で)実感しました。しかしどうすればメディアスクラムを解消できるのか私はわかりませんし、このままだと解消できないと思います。正直なところ最近では、取材相手が限られているのに取材陣は沢山いるのだから、メディアスクラムはあって当然、仕方ないものだとさえ思ってしまいます。

飯田: 《取材慣れ》して行くと、記者の心理が変わるというのが、正直に出ていると言う感じですね。特に、《集団心理の怖さ》がモロに出ているという感じがしますね。

■代表取材は出来なかったのか?

このメールに語られている「取材陣は沢山いるのだから」という部分に、実は解決の1つの糸口があるかもしれない。単純に取材陣の数を減らす、代表取材(代表者が取材して、各社に情報や映像を分配する)という方法をもっと工夫できないだろうか。しかし、現実にあの時、『秋田報道懇話会』の協議でも、代表取材は成立しなかった。

――『BPO(放送倫理・番組向上機構) 』、或いはその下部組織である『BRC(放送と人権等に関する委員会)』など、社を越えた横断的な組織って、こういう時に仕切れないもんですかねぇ。

飯田: 確かあの時は、(畠山さん自身がクレームを付けたことで)『BRC』が警告というか、声明を出しましたよね。おっしゃるように、報道を受ける側とする側との間に入って、第三者が仲介、斡旋という何らかの形で調整をするということは、本当に必要だと思います。

代表取材が成立しなかったことについては、「畠山家は、一部のマスコミとだけ水面下で連絡を取り合っていた。それが、“うまく口説けば(取材に)応えるんだ”という皆の競争を煽り、代表取材の成立を困難にしたのだ」という、一部メディア内の意見もある。まさに私も、畠山被告や彼女の家族と話せる関係ができ、たびたび電話連絡を取り、何度か実家にも上がり込んでいた。
しかし、それを代表取材不成立の言い訳にされるのは、筋違いだと思う。取材相手は、自分の身を守らなければならないので、当然、信頼しにくいアプローチをする記者を選ばない。取材対象者側によるメディアの選別は、「常識的マナーを守る」とか「相手の話す事をちゃんと聞く」といった《当たり前の姿勢を守る競争》こそ生むが、メディア・スクラムをエスカレートさせるような《非常識な姿勢を煽る競争》は生まない。むしろ、選別姿勢を取ってくれた方が、横暴なメディアは情報が取れずに消えて行き、良い意味での自然淘汰が期待できる。「メディアを選んでください。公平原則なんか要りません」と、いつも現場で私は、取材対象者に言っている。
もちろん、代表取材という手法には、混乱の整理というメリットの反面、情報源が1つだけになるというデメリットがある。この方法を採るときには、各社は並行して別の視点による独自取材を怠ってはならない。

■警察でなく、民間による《情報の交通整理》を

飯田: 『秋田報道懇話会』が申し合わせをした中で、私が非常に危険だと思ったのは、(その申し合わせ事項を畠山家側に伝達する際に)警察が仲介、斡旋ということで間に入っていることです。しかも、その事について、マスコミの人達が無自覚であるということです。つまり、警察を排除して、鈴香さん達と直接話し合いをするという姿勢が欠けていたのが、非常に残念でしたね。

確かに最近、「マスコミの皆さんへ」という取材お断りの貼り紙が、様々な現場の各家の玄関先で多く見られる。その文面は皆似通っており、「これは、地元の警察が入れ知恵しているかもしれないな」と感じることもある。《ターゲットの生活の静穏の確保》と《メディアのスムーズな情報入手》の為には、ある程度までは、情報の交通整理も必要だとは思うが、コントロールする主体が警察というのは、明らかにまずい。

飯田: 犯罪被害者の実名・匿名の問題もそうですが、警察が仕切って情報をコントロールして、都合の良い情報しか出して来ないということになると、本当に怖いですね。

――今後、どうすればいいと思いますか?

飯田: 先ほどの仲介、斡旋という話ですが、現場で警察を排除した形で、マスコミなり犯罪被害者なりが声を上げて動いて行くべきだと思います。特に、『BRC』だけでなく、弁護士会という形で動けないかなと。私も弁護士会の調査で今回(現地に)入りましたから、そう感じました。

取材相手の側に情報整理・発信の達人(臨時の広報担当者)を派遣する、NPOのような民間組織が出来ないものか。私も、鳥インフルエンザの浅田農産会長夫妻自殺事件の時から、“流しのお助け広報部”のアイデアに強く賛同しているのだが…。

――今回の様な振舞いを、メディアがこのまま様々な現場で続けていると、いずれ権力側からも市民側からも、メディアは挟み撃ちにされてしまうでしょうね。

飯田: マスコミの人達が、「報道倫理による自主的な解決を図らないと、やはり、法律規制が出て来る」という怖さを知って、自分達で取り組んで行かないと、一挙に法律が出来てしまいます。そこの問題が大きいと思いますね。
 私のメディア・スクラム違法論に対しては、「(
飯田説は)政治家に悪用される」という異論もあるんです。政治家の悪用が進んで行くと、法律で規制して行こうという動きに繋がるので、確かに危険性はあるんです。ですが、私は敢えて、議論を巻き起こす意味で提起したんです。

メディア・スクラムを招くような事件は、また必ず起きる。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」ではなく、この1年を機に、再度慎重な議論をするべきだろう。

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