『オーマイニュース』発進!(3)
有名ブロガー達から続々“愛のムチ”

放送日:2006/09/09

市民が記者になるインターネット新聞の可能性や限界について考える3回シリーズの、最終回。先週土曜(9月2日)、早稲田大学で開催された「ブロガー×『オーマイニュース』〜市民メディアの可能性」というシンポジウムでの議論をご紹介する。前回の予告通り、かなり面白い内容になった。
シンポジウムには、インターネット新聞『オーマイニュース』から、前々回このコーナーに出て頂いた鳥越俊太郎編集長を筆頭に、編集部や記者が4人参加し、対する“ブロガー”(ブログを書く人)側も、その世界の人気者4人が居並んだ。
以下、各人の発言を、録音のテープ起こしで言葉遣いまで忠実に再掲する。(ただし、[テーマ以外の発言の中略]や、[実際には不連続な発言順の直結]などの整理は行なっているので、あしからず。)

■幼稚園児が小泉批判!?

まずジャブを繰り出したのは、『ガ島通信』というブログの書き手である藤代裕之さん。『オーマイニュース』について、かなり辛口の感想を語った。更に、『オーマイニュース』の編集委員の1人である、ジャーナリストの佐々木俊尚さんも、鳥越編集長に疑問をぶつける。

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ガ島:
(『オーマイニュース』がスタートして)1週間ですけど、私としては今、もう別にあまり見たくもないと。何が一体書いてあるのか、まぁ、どうでもいいメディアに今はなっているというのが、正直なところ、僕の印象です。
鳥越:
まだ1週間ですからね、1週間だけでね、全然意味がない、見る意味もないと、言わないで欲しいんだよね。
ガ島:
まぁ、現時点で。
鳥越:
現時点は幼稚園児なんだよ、まだ。ヨチヨチ歩きなんですよ。ヨチヨチ歩きなんだけど、でもね、人間は幼稚園児だからと言って、「お前ダメだ」と、言わないでしょ? 幼稚園児だけどこの子はきっと大きくなっていくだろうと、思うじゃないですか。そういう風に思ってほしいのね。
佐々木: でも幼稚園児は小泉批判しないですよねぇ?なんであんな最初からいきなりイデオロギッシュな話で爆裂してしまったのかとすごい疑問で僕は。
鳥越:
いや、小泉批判がなんでイデオロギッシュなのよ?
ガ島:
ちょっと、ちょっと待って下さい。
鳥越:
なんでイデオロギッシュなのよ?小泉批判しちゃいけないの!?
ガ島:
書く側の理論が…
鳥越:
それね、「小泉批判がイデオロギッシュだ」という事自体が、すっごいイデオロギッシュ!
ガ島:
ちょっと待って下さい。ただですねぇ、(このシンポジウムの)最初のアンケートで、「(『オーマイニュース』は現在)中立的なプラットホームか?」という問いに対して、(会場の聴衆で)手を上げた人が殆どいなかったということが、現実としてある。そこのところは、やっぱり『オーマイニュース』側は受け止めなきゃいけないんだ、と私は思ってます。

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つまり、会場の大部分の人は、今のところ『オーマイニュース』は偏っている、と感じているのだ。私も、率直な感想としてそう思わないでもない。権力を批判的にチェックする姿勢は勿論良いのだが、鋳型にはめた、言い古されたような没個性の言い回しが目立ち、《マイ》ニュースになっていない。ただしそれは、編集部が意図してそうなっているわけではない。市民記者として登録して記事を送って来る人達の多くが、目下、そういう傾向だから、結果的にそうなっているわけだ。市民の中にも、例えば首相の靖国参拝に賛成の人だって沢山いるわけで、そういう人達の視点の記事が投稿されて来るようになれば、甲論乙駁の面白い市民メディアになると私は思う。

■ことごとく発想が違う新旧メディア

「幼稚園児は小泉批判しない」と指摘した佐々木さんにしてみれば、「せっかく誕生した市民メディアである『オーマイニュース』が、特定の考え方の人達だけの“仲良しサロン”に固まらないように」という、編集委員としての危機感、愛情からの発言だった。
しかし、更に続けて同氏が「(小泉批判より)皆がもっと関心を抱くテーマが有るはず」と指摘すると、今度は鳥越さんが「じゃ、佐々木さんやってよ!」と切り返し、会場がドッと沸いた。実はこれ、非常に的を得たやり取りである。今までのメディアでは、論調に不満があっても外からブツブツ文句を言うことしか出来なかったが、市民メディアなら、自分が反論記事を書いてしまえばいいのだ。今までの固定観念を捨てて、“そういう場所なんだ”ということに皆が慣れてきたら、本当に面白くなるかもしれない。
こうした発想の大転換を、佐々木さんは次のように表現している。

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佐々木: 結局、メディアってのは、完成したものを外に出すってのが今までのマスメディアの役割だったんだけど、『2ちゃんねる』とかブログの世界ってのはそうじゃなくて、もう荒削りでも、間違ってる物、嘘でもね、あるいは真実も、本当の物もいい物も、ぜーんぶゴッチャ混ぜ玉石混交のをボーンと出して、その中から「皆さん選んで下さい」っていうやり方なわけでしょ? そこをね、どうやって『オーマイニュース』編集部が受け止めて自分の物にしていくか、そこが問われてるんじゃないかなと。言い方を変えれば、まぁ、そういう古い《プロセス型編集メディア》が、こういう『2ちゃんねる』やブログ型のですね、《空間的メディア》と言うか《“場”的メディア》と、ついに衝突を始めてる感じがして、僕は実はね、ちょっと面白い状況ができるんじゃないだろうかって、期待はしてます。

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全く異質な新旧メディアの衝突点は、色々ある。先週は、『2ちゃんねる』の管理人、ひろゆき氏の《編集無用》論を紹介したが、例えば《匿名か実名か》というのも重要な論点だ。普段、TV画面に堂々と顔を出して論陣を張っている鳥越さんとしては、『2ちゃんねる』などの掲示板やブログに溢れる匿名の無責任な悪口が、全部とは言わないまでもかなり我慢ならないようだ。
そこでこの日のシンポジウムでも、鳥越さんはこの点を強調した。ところがこれに対して、人気ブログ『小鳥ぴよぴよ』を、実名を伏せて書いている、ペンネーム“いちる”さんが、やんわり反論する。

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鳥越:
我々が目指したのは、やっぱり「責任ある参加」ということですよね。これは一つのキーワードだと思います。「責任ある参加」ということはどういう事かと言うと、実名を出す、顔を出す、そしてちゃんと自分の言いたい事を言う、と。
いちる: あの、実名でやると、一般の人は、もしかして自分に被害が及ぶ可能性があるんじゃないかと思って、ちょっと怖がる人が一定数いるかなと思ってるんですね。 あの〜、自分のネット上のアイデンティティを確保する為に、実名である必要は全然無い。実名と匿名以外に、《ニックネーム》っていうことがあると思うんですね。『オーマイニュース』に表示される名前は《ニックネーム》でいいんじゃないかと思ってます、基本的には。それがアイデンティティを保障できれば…。その人の《ニックネーム》をクリックすると、その人が今まで書いた記事一覧みたいなのがズラッと出てくる、みたいな機能さえあればいいんだという風に思っています。

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過去にどんな記事を書き意見を言ってきた人かが分かりさえすれば、特に「本名」なんて必要ない。―――この発想は、一考に価する。現在のマスメディアでは逆に、たとえ記者やリポーターの本名が出ていても、その人の過去の実績は容易に辿れないのが実情なのだから。
とは言うものの、この《匿名・実名論議》については、私としては鳥越さんにもいちるさんにも半分ずつ賛同、というスタンスである。(詳しくは、別の機会に。)

■「書き手のため」か、「読み手のため」か

シンポジウムは更に、インターネット新聞型市民メディアの命である《誰でも書き手として参加できる》という特性そのものを揺さぶる議論へと発展した。
発端となったのは、『オーマイニュース』編集次長の平野日出木さんの発言だ。平野さんは、「ブログはかなり文章発信力のある人でないと続けられない」という自身の実体験に基づき、こう語った。

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平野:
そのー、ブログやるのは非常にハードルが高いっていうか、大変なわけですよね。でも、そういう人達が、じゃあ、意見が無いかっていうと、無いわけじゃないと。でも毎日は書き続けられない。時間も無い。じゃあどうするかって言うと、『オーマイニュース』みたいなプラットホームがあれば、たまに「自分はこう思った」ってのを書いてもらえれば、自分達の意見は、皆に広く伝えることが出来る。要するに『オーマイニュース』ってのは、そういうプラットホームを提供できるんじゃないかなーと、私は思ってるわけですね。
山口浩(駒澤大学助教授): 市民が参加できるって意味で、書き手にとっては価値があるんですね。だけど、読み手にとってはそれ、価値じゃないんですね。
佐々木: 書きたい人がそれを書いて、ブログほどのレベルじゃなくてもちょっとした事を書いてそれを載せるってのは、別にいいんですけど、それって“書き手の論理”でしかないですよね。
山口:
それは読み手にとって失礼ですよね。読み手っていうのは、《誰が書いたか》ってことじゃなくて、《いい記事》を欲しいわけですよね。で、その時に、(質を度外視して)「私、書いてみました」っていうんだと、それでいいのか? 送り手側としての倫理観みたいなものがあるんじゃないのか?…と思うんですね。
ガ島:
まさに、書き手にしたら、もしかしたら良い場所なのかも知れないけど、読み手というポジションから考えると、まぁ、有名なブロガーとか、きちんとした事を書いてる人のブログを読んでる方がいいかなーと、今は、今は思ってます。
佐々木: いくらそこに、『オーマイニュース』という場があって皆が書けるからといって、誰も読んでくれないんなら、それで意味本当にあるのかっていう疑問、僕あるんですよね。

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「誰でも書けます」というのは、読む側にとってはちっとも魅力ではない。その結果、読み手がいなくなってしまったら、いわば「皆が舞台の上に上がって客席はガラガラ」という状態になってしまう。そんな舞台に意味はあるのか?という議論。これに対しては、「だからこそ、強力な編集スタッフがいるのだ」と、私は反論したい。 確かに、舞台の上で踊っている人があまりに増えると、どこで誰が何を踊っているのか、見ていても分からなくなる。市民メディアの欠陥として、そんなカオスを懸念する声はある。そこで、
* 同じような種類の踊りの人を1ヶ所にまとめる【分類作業】
* 舞台のここではこんな踊りをしていますという“プラカード”を掲げる【表示作業】
* そのグループの中でも特に踊り方の上手い人を舞台の前の方に出てもらう【配置作業】
―――などを編集部が行なえば、客席にも充分配慮は可能だと思う。
逆に、見る人に失礼だからと、編集部が
* “下手な踊り手は舞台に上げない”という【排除作業】
を行なったら、それこそ市民メディアとしての原点の意味が失われてしまう。

■あらゆる人に《ファクト》はある!

ただ、『小鳥ぴよぴよ』のいちるさんだけは、「あまり読み手のことなんか考えないで、気軽に書ける場を作ろうよ」という発言をした。そこをきっかけに論点は、「参加者の増加による“スケール・メリット”(数が多いことによる利点)」へと移る。

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いちる: ここはインターネットですから、インスタントに・手軽に・早く・気楽に・ユーモアをもって・大量に、情報を出す。それがインターネットなんですね。だから、読み手の事を考えてあまり敷居をどんどん高くして行ってはいけない。『オーマイニュース』を成功させなきゃいけないってことを考えるとするとですね、スケールメリットを出さなきゃいけない。その為には、どんどん敷居を下げなきゃいけない、というのが、僕が思ってることです。
佐々木: 韓国『OhmyNews』の場合は、物凄い数の市民記者が集まってたんで、そのスケールメリットが出ることによって自動的に徐々に情報が上がるようになってきたっていう非常にいいスパイラルだったんです。だけど、日本の『オーマイニュース』じゃ、今(市民記者が)1500人。それが、10万人、100万人になれば別だけど、そんな風にホントになるのかと。じゃあそこでね、《ファクト》が出て来るかとなると、かなり心もとないわけで…
山口:
あのー、《ファクト》ってそんなに簡単に出てくるもんじゃないですよね。

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市民記者が物凄く増えない限り、ニュースの当事者がたまたま市民記者で、直接その《ファクト》(事実)を記事に書く可能性というのは出て来ない。だからネット新聞には《ファクト》は並ばず、読んでも面白くない。―――前回紹介したひろゆき氏も同様の指摘をしていたが、この考え方には、明確に反論したい。
市民メディアのニュースに登場する《ファクト》とは何か?今までの既存メディアが報じるような事件だけが《ファクト》ではない。そんなつまらない先入観は打破して、発想を転換しよう。例えば―――
● 私の入れ歯は、どこで直しても口に合わない。なぜなんだ?
● あの交差点は見通しが悪くて、今日も横断する時ヒヤリとした
● 面白い卒論が書けたので、皆に読んでもらいたい
● 道端によく花を植えているおじさんと、今朝、話が出来た
● 我が家に、今まで聞いたことのないタイプの怪しい勧誘が来た
● 大手メディアの論調に対して、私の職業的知識から反論できることがある
● 引きこもって5年、僕は部屋の中でこんな事を考えている
―――これらはすべて、大手メディアには載らないけれど、皆の共感や関心を惹く、時には社会を動かすきっかけにもなり得る、《ファクト》なのだ。こういった記事を書く為に、凄い人数の登録記者など要らない。10人いれば、10人の《ファクト》がある。そこに皆が広く感応できるような要素を見出して行くことを、編集部が“お手伝い”すればよい。 ブログや掲示板などの無編集発信者と既存メディアの狭間に立って“どっちつかず”に陥ることなく、インターネット新聞は、このようにして、その立ち位置を明確にして行けばよい。それが実現するかどうかの鍵は、これから『オーマイニュース』や『JANJAN』に参加していく、市民記者一人一人が握っている。

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