津波被災地ボランティア続々帰国報告

放送日:2005/2/12

前回に引き続き、インド洋大津波についてのリポート。被災地には日本人ボランティアも続々と行っているが、彼らは帰国すると、それぞれ周囲の人に体験を話したり、報告会を開いたり、インターネット(ブログ)に書き込んだりして、現地での活動の様子を発信している。こうした《市民メディア》の情報は、大手が伝えているものより、生々しくてリアルだ。
今回は、そんな帰国ボランティアの中から、今日(2月12日)東京で合同報告会を開く、大平直也さんと中村真珠(マミ)さんにお話を伺う。

■現地で売られている《映像》の衝撃

−大平さんは、宮崎をベースにイラク救済基金の活動をしているんですよね。イラクで亡くなった外務省の井之上正盛さんの母校とイラクの小学校との交流の仲立ちなどをされているそうですが。

大平:
現地では、バグダッドを中心に、食料の援助や、学校や病院への支援を行い、日本に帰って来てから、イラクでの活動の報告会や写真展をやっているというのが、通常の活動です。井之上さんの母校とイラクの小学校との交流は、高遠菜穂子さんのグループと一緒に支援したりしています。

−イラクでの活動と、今回の津波の災害とは、どういうつながりが?

大平:
一番大きいのが、今、イラクには治安が悪化していて行けないという事です。去年4月の人質事件の後にイラクに行く予定だったんですが、行けないんですね。それで今、津波の被害がひどいので、そっちに支援に行こうと。JVC(日本国際ボランティアセンター)がイラクもタイも支援しているので、そこの紹介で、現地のNGOを紹介してもらって。

パンガー県という、プーケットの北にある地域にいきました。プーケットは観光地が多いんですが、パンガー県は漁村が多いです。(報道では観光地の被害が多く採り上げられますが、)やっぱり、地元の被害っていうのは、漁村が大きいんです。現地をレンタカーでずっと走ったんですけど、一番衝撃的だったのが、神戸や新潟という震災の被災地とは違って、津波の被害っていうのは、海岸線をずっとやられている事です。日本で例えるなら、新潟から、石川、富山、鳥取、島根の辺りまで、ずっと被害が続いている感じです。

−実際、漁村の人たちの声を聞いてきたんですか?

大平:
はい。やっぱり「船がほとんど壊れてるので、その修復をしないと生活再建ができない。非常に困っている」という話をしていました。いろんな避難所に行ったんですが、ある場所では、エビの養殖や漁に出るための機械が、大体30万バーツ(日本円で100万円くらい)かかるんだけど、その機材が全然なくなっているので、なんとかしてほしいという声もありました。

スタジオには、大平さんが現地から持ち帰った品物を持って来ていただいた。
−このペシャンコのアルミ鍋は、津波の力で潰れたものですか?

大平:
そうです。パンガー県の近くの島に行ったんですけど、そこにあった村全体が流れてしまって、家も本当に全部ないという状況でした。その中に、この鍋があったので、持って帰ってきたんです。現地の人たちは、近くの避難所にいるんですけど、本当に不安な状況で。特に子供たちが…。「津波の夢をみて眠れない」って嘆いている子もいましたね。

−この、木の枝で作った人形は?

大平:
それは、パンガー県のある避難所で見つけたものです。そこでは、漁師をしていた大人達が、なんとか生活再建をしようと船の修復を頑張っているんですけど、子供たちは自分が何をしていいか分からなくて、一番不安なんですね。そんな子供達に、バンコクのNGOの人たちが来て、ある取り組みを始めたんです。子供達が、津波で流されてきた木の破片を彫って、工芸品を作っています。これは、津波から逃げているタイの人たちを模ったものです。それを、現地にやって来たメディアやNGOの人達に、募金のお返しとしてあげると。(形としては、売って現金収入を得ているのと同じことなので)そうやって収入源を得られて、子供達も「自分達にも何かできる」と、生き生きしながら作っていました。

私が見せてもらって最も衝撃的だったのが、現地で売っている写真やDVDなどの映像類。観光地での出来事だったので、今回の津波は非常に多くの人がカメラやホームビデオで撮影していた。それを、外来のボランティアなどに売る事で、復興資金源としたり、ドサクサ紛れに儲けようとする者が続出しているのだ。もともと今回大平さんにお話を伺う事になったのも、「TBSでこれを放送できないか」と、現地で買ってきたDVDを持ち込まれたのがきっかけだった。そこには、遺体の惨状や、人々がまさに波に飲み込まれていく瞬間などが、あまりにも生々しく映し出されていた。とてもではないが、大手メディアで放送できるものではない。しかし、それを見る事で初めて、「今までニュースで見ていた津波の怖さは、本当の怖さの何十分の一だったんだ」と、私も実感した。

大平: やっぱり、これを日本に伝えないと。もし日本で同じ災害があったら、という事もありますし、今後の対応を考える時にも必要ですし。伝えていく責任があるなと思いながら、持って帰って来ました。メディアで流せなくても、集会などで、地道に伝えていかなくちゃいけないなと思っています。

−じゃあ、そのショッキングな映像は、今日の報告会でも披露するんですか?

大平:
はい。

市民メディア時代に入り、従来はオブラートに包まれていたような強烈な《現実》の映像が、むき出しで受け手の元に届くようになった。これはその、象徴的な事例だ。受け止められる自信のある人だけが、それこそ“自己責任”で、行って見てほしい。



■現地人ボランティアの、一味違う取り組み

続いては、上智大学の大学院生、中村さんからの報告。中村さんには、去年の6月にも、タイのホームレスの人たちが日本にやってきて、日本のホームレスの人たちと交流するという話をしてもらった。

中村:
あの後、1年弱ほど、タイのCODI(コミュニティ組織開発機構)というスラム関係のNGOでインターンさせていただいたので、その縁で、今回も現地へ行ってきました。津波の後すぐに(NGOの)友達の携帯に電話したら、もう被災地に入っているということだったので、支援の入り方を教えてもらいました。

今回、津波で家をなくした人たちが、いわば一斉にホームレスになってしまったわけだ。中村さんは、外国から一時的にやって来たボランティアではなく、現地で日ごろから活動に取り組む団体の動きを見てきた。その両者には、大きな違いがあったという。

−外国から来ている援助と、地元のタイ人がやる援助とは、どう違うんですか?

中村:
様々な団体や個人が援助に入っているので、一概には言えないんですけれども、(外国から来た支援の場合)「何かしてあげたい」という思いが先行している、というのがよく見えました。被災した側の方々が今どういう思いでいるのかを聴いていくより先に、“これだけのお金があって、こういう事をして来ました”というのを自国に帰って報告するために、その対象を探しているという感じの団体もありました。

−既に出来上がっているプランに、現地の人々を当てはめてしまうわけですね。
  実際に、どんなところで「ニーズと合ってないな」と思いました?

中村:
例えば、これは外国ではなくタイ政府による支援の話なんですが、もともと漁村で暮らしていた、いわゆる“海の民”と呼ばれる人達に対して、家の再建を援助しようと。“海の民”の人達は、ずっと海の近くで、海と共に生きてきました。船に乗って漁業を営んできたわけですから、海から離れては生活できないんです。ところが、彼らの家が再建される場所というのが、沿岸部から4〜5km離れた内陸部だったんですね。彼らの中には、「内陸部で箱モノの生活を続けたら、頭がおかしくなる」と訴えている人達もいました。

−なんでもかんでも用意してしまう、過剰なケアが産む弊害もあるんでしょうか?

中村: ありますね。タイ国内のNGOネットワークの人達は、その弊害にかなり気を使っています。例えば、彼らは《住民達が自分達で物事を決めていける枠組み》を作ろうとして、入っていくんですね。だけど、外国のNGOが先に入って、「物をあげる」というのをワーッとやってしまうと、被災者側に“外から来る人は物をくれる”というメンタリティがついてしまって。その外国団体が去った後、国内のNGOが自立的な再建を進めようとしても「なんで他所から来てるのに、自分達にやらせようとするんだ」という状況になってしまうんです。

−それに対して、タイ人の地元ボランティアは、具体的にどんな支援を?

中村:
例えばですね、コミュニティ・オーガナイザーと呼ばれるNGOのスタッフが村の中に入っていって、村の住民と丁寧に話し合って、どういう被災状況があるのかを住民達自身が調べていく、という枠組みを作るんですね。よそ者が調査するのではなく、住民達が一軒一軒回って状況を調べていって、それをみんなでシェアして、どうしていくかを一緒に考えていく、っていう支援です。

−それなら住民の自立型ですね。

中村:
かつ、《持続可能》です。

−ニーズを調べてから支援に移る時には、会議を持ったりするんですか?

中村:
住民をまとめて情報を整理していくオーガナイザーと、若手建築家の人達(住民達がどんな家を建てたいかをサポートする人達)がいるんですね。そこでミーティングを開いて、「この家はどうやって修復するか」「いくらで住民を雇って作業するのか」を話し合っていく。

−でも、「与える→受け取る」という形と違って、「話し合いで合意を作る」というのは骨が折れる作業ですよね。それで逆に、紛糾して先へ進まなくなったりということは?

中村:
確かに、いろんな意見の人がいますから、まとめるのは大変です。でも、コミュニティ・オーガナイザーの人達は訓練を受けていて、いかにみんなが楽しく話をまとめられるか、コツをつかんでいるんですね。
あと、「他の地域で同じような状況に陥った時にどうしたか」を知るために、住民同士の交流も積極的に行っています。(これは普段から国を越えても行われていて、去年タイのホームレスの人達が日本にやってきたのもその一環です。)今回、私が滞在している間に、インド、インドネシア、スリランカの被災者とNGOの方々がタイに来て、体験をシェアしました。そこで私が日本人ということで現地の人達に言われたのが、まずツナミという言葉が日本語から来ているという事が瞬く間に広がって、「日本は地震や津波が多いから、学びも多いだろう。だから、ぜひそれをシェアしたい」と言われました。だから私もこれから、阪神の経験が新潟にどう生きたのかを知って、それをまた向こうに伝えてきたいと思います。
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