高校放送部が出版した、「ニュースがまちがった日」

放送日:2004/8/21

学校の夏休みも、あと10日という地方が多い。「まだ宿題の読書感想文、何を読むかも決めてない!」という高校生のリスナーの為に、ユニークな本をご紹介しよう。勿論、大学生や大人が読んでも、面白い。太郎次郎社エディタスから発行された『ニュースがまちがった日』だ。この本を書いた、長野県松本美須々ヶ丘高校放送部の元顧問・林直哉先生と、本の中に大勢登場する当時の放送部員のうちの1人・安田恵子さんに、お話を伺おう。

−安田さんは、今年の初め頃にも、このコーナーに出演してもらいましたよね。

安田:
あの時は、全国の市民メディア団体が一堂に会した、という報告をさせていただきました。そういう活動に目が向き始めたのも、高校時代の放送部がきっかけでしたので、今回はそこのところをお話したいと思います。

この本の題材になっている同校の当時の取組みは、このコーナーでも何回かチラチラ言及しているが、改めてその概要に触れておこう。
本のタイトルの「ニュースが間違った日」というのは、94年に起きた松本サリン事件報道で、第一通報者の河野義行さんを犯人扱いしてしまった事を指している。なぜそんな報道になってしまったのか、同校の放送部が長野県内すべてのテレビ局の若手記者と報道部長に素朴に聞いて歩いて、ビデオ証言集を制作。それが97年度の東京ビデオフェスティバルでグランプリを受賞し、全世界から寄せられた約2000作品の中のトップに輝いたのだ。

−その受賞までの高校生たちの奮戦記を描いた本ですか?

林:
そうだったら幸せだったんですけどね。グランプリを受賞して、作品が公の電波でオンエアされれば、そこで終わっていたんです。ところが、色々な事があってオンエアされなかったが故に、そこからまた新たな活動がはじまる。その中で、子ども達が気付いた事が積み重なって、深まって、一つの方向性を持つ営みとなっていった―――そういう本ですね。

林先生が人事異動で美須々ヶ丘高校を去るところで本は終わっているが、取り組んだテーマ自体は今でも“深化”中で、答えは出ていない。その意味では、「昔話」どころか「現在進行形」の本なのだ。

−ビデオ制作を通して高校生たちが《気付いた事》というのは?

林:
最初は、このタイトルにあるように、バリバリのメディア批判をやろうと思ってたんです。元々、僕自身が誤報を出された経験があったもんだから、てぐすね引いて待ってたんですよ。「何かあったら批判してやろう」って。そこに松本サリン事件が起こって、このチャンスしかないぞ、と。

−生徒たちもそういう意気込みで?

林:
ええ。生徒の中にも、「河野さんの娘さんの話を、友だちを介して聞いている」とかそういう子がいてね。
でも、実際に現場の記者達に会うにつれて、「あれ、想像していたのと違うぞ」と。直接お話をするなかで、《記者の人達も人間なんだ》と気付いていった。これが重要なキーワードになってくるんです。
例えば、インタビューの時にライトを向けられた記者が、「ライトってこんなにまぶしかったんですね」って言うんですよ。

普段ライトを《向ける》側の記者が、《向けられる》とこういう反応になるわけだ。
そういったリアルなエピソードがいくつも紹介されるのだが、その中での生徒達の様子を、林さんはこんな風に書いている。

(『ニュースがまちがった日』より/ 林さん記 )---------------------------------------

渡辺は率直に言った。
「テレビメディアの弱さというか、テレビ局の報道の弱さが見えたような気がする。全然いままでのイメージと違ってきた」
部員たちは、怒りをもって取材に入りながら、送り手の論理や現状にふれた。その率直な感想が「弱さ」だった。この言葉は新鮮だった。
羽根田も大きくうなずき、「テレビ局は傲慢なところと思っていたけれど、一人ひとりの記者は違う」と言った。
いままではブラウン管という装置が伝えているかのように思われたニュースを、彼女たちは「人が伝えるもの」としてとらえはじめていた。
----------------------------------------------------------------

−じゃ、それまでは、我々ニュースの伝え手を《人間》だと思ってなかった?

安田:
そうですね。テレビでニュースを見る時に、それを作った《人》がいるんだって意識しながら見るって事は、ほとんどなかったと思うんですよ。それは、ほとんどの視聴者の人も同じなんじゃないかなって思います。

−それが、昨今よく言われる《メディア・リテラシー》の一つの骨格なんでしょうね。

林:
《メディア・リテラシー》は時に“マスコミを批判する道具”みたいに使われますが、決してそうではないんですね。僕達がやってきたのは《接触》なんです。今まで触った事が無かったものに接触した。「人間が伝えて人間が受け取っているんだ」という事に気付いた。これはすごく大きな発見なんじゃないかなと思います。

ただし、《同じ人間なんだ》=だから大目に見てあげよう、という生易しい結論では決してない。むしろある意味では、「なんだ、たいしたこと無いじゃん」という厳しい“見切り”でもあった。
それは例えばこんな文章に表れている。

(『ニュースがまちがった日』より/ 林さん記 )---------------------------------------

批判すればするほど、マスメディアは閉じてしまい、かたくなになっていく。「批判を受けとめて変わるだけ の懐の深さはない」と見切りをつけるしかなかった。「マスメディアが変われないのなら、視聴者が変わらな ければ」という思いが、あらためてこの作品制作に関わった部員や、私を含む顧問のなかで強まっていった。
----------------------------------------------------------------

−「批判するほど閉じる」とは、具体的にはどういう事なんですか?

林:
元々、放送局に取材をする事は非常に難しいだろうと考えていて(実際に相当難しかったんですけど)、だから、きちんと依頼をして了解をとって、それを積み重ねながら取材をしていったんです。当然、取材されればそれがアウトプットされるのは当たり前ですよね。ところが、そうして出来た作品が例えばどこかの局でオンエアされそうになると、取材を受けた局から横槍が入るんですよ。
作品はまずラジオ番組としてNHKの全国高校放送コンテストに出したんですけど、そのオンエアの時にもね。民放のある局の人が、“NHKの電波に乗るのは嫌だ”とかゴネるわけですよ。それからビデオ番組として東京ビデオフェスティバルに出して、それがオンエアされるという時にも。取材した時点ではオンエアの許可をとっていたにも関わらず、異動で部署が変わったという記者から、「オンエアされると左遷される」と泣きが入ってオンエアできなくなってしまった。そういう事の連続だった気がします。

我々報道の人間は、何かを批判する時、取材相手が「これは放送しないでくれ」と言ったとしても、「いや、これは報じるべきでしょう」という姿勢をとっている。その立場にいる人間が、いざ高校生に取材される側になったら、「いや、これは使わないでくれ」と言い始めてしまった。そんな状況に、美須々ヶ丘の放送部は直面してしまったわけだ。

この作品放送拒否の顛末を、その後、安田さんが中心になってまとめた『NHK杯全国高校放送コンテスト』研究発表部門(スライド等を使って、放送部の活動を発表する部門)の決勝戦の場で、いきなり暴露した。準決勝まではその話は避けていたのだが、土壇場で変更を決断したのだ。その一件について、安田さん本人がこんな風に書いている。

(『ニュースがまちがった日』より/ 安田さん記)---------------------------------------

メンバーの中から「決勝ではいままで発表していない事実も言いたい」という提案があった。
正直、私は迷った。審査に影響はないのだろうか。優勝をねらうなら、絶対に変更しないほうが利口だとも思った。
しかし、私は変更するほうを選んだ。他のメンバーも同じだった。「失格覚悟で臨む」、そう決めたら「言いたいことを言える」すがすがしさがあった。
結果は準優勝。もう賞なんかどうでもよかった。私たちは、作品の公開にクレームをつけた局を批判したかったのではない。テレビメディアが自分たちの弱さを公にできない限界を、多くの人に知ってほしかった。「私たちが言わなければ」という思いが私達の原動力だった。
----------------------------------------------------------------

けっこう果敢な、“捨て身”の問題提起だったわけだ。
しかし、この本の面白いのは、タイトルの「ニュースが間違った日」だけでなく、「放送部が間違った日々」の記録も正直に記録されているところ。この高校生たちが、メディア側から反問されてハッとするような場面も、率直に描かれている! 例えば放送部員の齋藤由果さんの、こんな一文がある。

(『ニュースがまちがった日』より/ 齋藤さん記)---------------------------------------

私たちはニュースが演出されていることに疑問を持ち、それにとらわれてしまい、テレビ局に対する批判意識でかたまってしまった。そのとき、ようすを見ていたNHKの人たちが、『放送部は演出しないの?』と質問してくれた。私は『はっ』とした。私たちのどこかに『テレビ局と自分たちは違う』という意識があったのだ。このひとことで、私たちの意識は一変した。放送局も私たちも『同じメディアを使っている』。実感としてこの視点に立てるようになるまで、時間がかかった。
-----------------------------------------------------------------

林:
放送部は、テレビ局と全く同じ方法を使っているわけでしょう。でもそれが「同じだ」と気付けない固定観念があるんですよ。その固定観念との戦いだった。いかにして、生徒達が持っている固定観念を崩しながら、メディアっていうものを拡げていくか。

例えば、《演出=ウソ》というのも、固定観念の1つだ。(これについては、東大の講義でもテーマにしたことがある。)情報伝達における“演出”というのは、《分かりやすくするための工夫》であって、必要不可欠なものだ。「演出過多」は問題だが、「演出ゼロ」では、何が言いたいのかさっぱり分からないニュースになってしまう。実は“演出”とは、特殊な操作ではなく、日ごろから誰もがコミュニケーションの中で無意識のうちに行っている営みなのだ。

林:
ここで言う“メディア”っていうのは、いわゆる《発信》の事です。自分の思う事を相手に伝える、これは誰でも人間として言葉で何気なくやっているけれども、それを“メディア”として捉えるのが難しいんですよね。映像でも言葉でも、授業やファッションだって、「どんなものでもメディアだ」って心から言える、そういう力みたいなものを身に付けていく活動だったのかな、と思います。

体当たりの高校生たちが、“テレビってすごい!”と“テレビはけしからん!”の両極端に揺れながら、しかしそれをゆっくりと解きほぐしていく。怒って、戸惑って、思い込んで、批判されて、気付いて、試みて―――という試行錯誤のループ。読者も弾みがついて、読み終わってもグルグル回りが止まらないかもしれない。

−そのグルグル回りは今でも止まらない?

安田:
そうですね。卒業してからも林先生にちょくちょく会わなきゃいけなくて、もう懐かしくもなんともないんですけど(笑)。
私たち生徒と林先生の関係ってなんか不思議で。林先生には、何かを「教わった」っていう気はあまりしないんですよ。先生が既に知っている事を《教えてくれた》んじゃなくて、大きな渦の中に《ひきずり込まれた》という方がピンときます。その大きな渦の中でもがいてたのは、多分、林先生も一緒だったんだなって最近になってわかりました。一緒にもがきながら、みんなで犬かきしながらバシャバシャ泳いできた記録が、この本になったっていう感じです。

−テレビマンユニオン出身で、今は大学でメディア論を教えている碓井広義助教授が、北海道新聞に載せた書評で、「この本は三通りの読み方ができる」と書いていますが…。

林:
その通りだな、と思いましたね。まず、これまで日本にはなかなか無かった「メディア・リテラシー」の実践例として。もう一つは、一方的だったり空回りだったりしない、的を得た「メディア批判」。そして、今安田が言ったような、教えるのではなく共に学ぶ「教育論」。この三つの読み方ができると。

一粒で三度おいしい本だ。『ニュースがまちがった日』は、太郎次郎社エディタスから、1800円+税で発売中。

▲ ページ先頭へ