桃井和馬「本当のイラクは報じられているか」

放送日:2004/5/8

先月(4月)、フォト・ジャーナリストの桃井和馬さんと対談した。対談のタイトルは、「本当のイラクは報じられているか」。
イラク戦争報道の偏りは、米軍やイラク側の情報コントロール等々、よく指摘されていたが、実は、本当の姿が伝わるのを阻害している要素はそれだけではない。《非日常的な部分だけ報道する》取材者の心理、《取材意図に沿った言動を親切心で取ってしまう》被取材者の心理、等も無視できないのだ。その辺りの実態を、今年(2004年)2月にイラク現地で取材して来た桃井さんの写真を見ながらトークしたので、その模様をご紹介する。

まずは、まだ現在ほどの混乱状態に陥る前のファルージャを、ちょうど険悪な空気になり始めた瞬間のようなタイミングで桃井さんが訪れた時の様子。たまたま米軍とイラク人との間で激しい交戦があった直後、そうとは知らずに桃井さんは町に到着した。

(以下、録音再掲)-------------------------------------------------------

桃井:
ファルージャの町に朝9時ごろ着いたんですが、7時くらいに大規模な戦闘が起こった直後だったと。警察署が破壊されたりしていて、町中みんな殺気立っていて。手榴弾を持った奴がいて、カメラを向けようとしたら、バーッと来たの。久しぶりに怖かったですね。

−「危ないな」と思う一方で、「凄いのが撮れた」とも思わなかった?

桃井:
…それは、ありますね。(会場笑) でも、今回はテレビのリポーター役だったので行きましたが、本来の僕のスタンスとしては、そういうところには全く行かないで、例えば人々の日常の生活を写真に撮っています。

危険で殺気立っている場面ではなく、ごくありふれた日常だけを撮っているのだ。我々は、戦争関連の写真や映像しか見ていないが、実はそこに映し出されていない、もう一つの素顔のイラクの生活もしっかりある。
かつてアフガンの首都カブールが陥落した時の本当の様子をこのコーナーでも採り上げたが、現在のバグダッドはどうなのか。市内の中央市場の前で撮った写真(下)をスライドで示しながら、桃井さんが語った。

町の様子

桃井:
これは、バグダッドの中心にある市場です。バグダッドというと「皆が苦しんでいる」とか「飢餓が起こっているんじゃないか」とか想像されるかもしれないですが、全然そんな事はない。もう市場もガンガン活気がある。でもこういうのは、テレビでは出せないんです。

−これを出したら、つじつまが合わなくなりますもんね。

桃井:
そうです。“戦争があって大変な国”のはずなのに、っていうね。

−これ面白いですね。よーく見ると、普通の車の間で、戦車も1台、渋滞にハマってる。(会場笑) 完全に、日常と戦争が混在してるわけですね。

桃井:
そうそう。これはアメリカ軍の戦車ですね。

会場では、私が写真の中の戦車を指差して初めて会場からドッと笑いが起こったが、そのように改めて指摘されなければ見落としてしまうほどに、戦車が何気なく日常の中に紛れ込んでいるのだ。ある意味で非常に象徴的な写真と言える。

次の1枚は、同じくバグダッド市内で、警備に立つ1人の米兵と、ごく普通のイラク人の中年女性。この2ショットに、カメラマン桃井和馬は何を狙い、私・下村は何を感じ取ったか。

町の様子

桃井:
なんかいいでしょ? 恣意的に、この“離れている感じ”に絵作りしたかったんですね。

−絵作りしたって言っても、頼んでやってもらったわけじゃないんでしょう?

桃井:
やってもらったんじゃなくて、たまたまです。でもこの瞬間を狙ったのは僕の意図ですよ。もし、このおばさんがアメリカ軍に近づいていく瞬間を撮れば、“アメリカ人に仲良く近づいていっている”というイメージになる。でもすれ違った後を撮ると、“アメリカ人に背を向けて歩き去っていく”という、違ったイメージになりますよね。写真のトリックではあるんです。写真には大抵キャプションというものが付きますが、僕らはそのキャプションで真摯に対応するしかないんですね。

−しかし、このおばさんが「我関せず」という顔をしているのが新鮮ですね。大抵、報道写真として出てくるものは、米軍に対してイラク人がシュプレヒコールをしているか、逆に歓迎の意思表示をしているか。この人みたいに《どうって事ない》普通の顔をしているっていうのは、逆に非常に面白いなと思います。

1枚目は《生活車両と戦車》の共存だったが、今度のは《おばさんと米兵》の共存なわけだ。対談のテーマ「本当のイラクは報じられているか」とは、つまりこういう事。戦闘シーンをそこだけ切り取られて見せられるより、ずっとリアリティがある。

次に紹介する2枚は、イラクに関する ある種の“先入観”を引っくり返してくれる写真。まずは、とても立派に舗装された道路のシーン。

桃井:
これは実は、80年代に日本が作りました。開戦以降1年間、全然メンテナンスしていないのに、こんなに状態がいいんです。いかにすごい道が出来ていたかっていう事ですね。

−サダム・フセイン時代の社会資本整備って事ですね。
NGOの人なんかからも本当によく聞きますが、「国境を越えてイラクに入った途端に社会資本が立派になる」と。フセインの圧政に苦しんでいたというだけはない、もう一つのイラクの顔が、こういう路面にも現れていますよね。

桃井:
テロの後、アメリカが戦争をやったのはアフガンとイラクですよね。アフガンというのは本当に何も“ない”んですよ。ほったて小屋みたいなところにみんな住んでいて。でもイラクは、無茶苦茶いろんなものが“あった”国なんです。元々アラブ随一の工業国だし。今はみんなアフガンの事を忘れてますけど、本当に援助が必要なのはアフガンなんですよね。イラクは石油の施設さえ回復すれば、ちゃんと利益が出るはずです。

イラクも永年の経済制裁で国民生活が苦しい、というのももちろん事実ではあって、そういう一面ばかりが報道されるが、実はアフガンなどとは地力が全然違う。
そんな基礎体力を今後どう活かしていくか、が課題だが、そういう観点に立ったサポートはNGOなどの得意領域で、力で抑える軍隊の担当する仕事ではない。それは反戦思想云々とは関係ない、客観的な役割分担の話なのだが、日本では、先日の人質事件後、「NGOは勝手にチョロチョロ動くな、今は軍隊だけの出る幕」という声が拡がった。戦闘シーンばかり見せられるから、そういう世論が簡単に生まれてしまうのかもしれない。

そしてもう1枚、桃井さんが我々の先入観に揺さぶりをかけてくれたのが、右の写真。つぶらな瞳の子供の顔は、困難な状況にある現場のフォト・リポートには、いわば“付き物”のショットだが…

子供
桃井:
「子供がかわいい」ってよく言うじゃないですか。世界のいろんな国々にジャーナリストが行って、“スラムの子供たちの目が輝いていた”みたいな。でもそこには、もっとわかってなければいけない前提があると思うんですね。
僕はペルーのスラムに住んでいた事があるんですが、スラムっていうのは地獄なんですよ。本当に何にもなくてね。朝起きてみたら死体が落っこっていて、その横で子供たちが遊んでいるというような。だから本当に、1年間のうち364日はどうしようもない日常、辛い日常なんです。そこに、例えば我々のような来訪者がカメラを持って行って写真を撮る、それは向こうにとっては、たった1日だけある“晴れ舞台”の日なんですよ。それはもう、目がキラキラしますよね。

−写真を撮られるなんて、当分は家で話題になるくらいの大イベントでしょうね。

桃井:
そういう事なんです。本当に子供たちは純粋でかわいいですが、単純にそれだけの認識で終わらせてしまったらもったいないと思うんですね。その同じ子供たちに、僕はペルーでだと1ヶ月に8回くらい盗みに遭いました。子供っていうのは、悪いものも良いものも全部持っていて、その《可能性》だと思うんです。それを良くするのは大人の役目だし、教育をきちんと責任持たなければならない。「子供達の目が輝いている」という単純な話だけではないと思うんですね。

困難の中で無邪気にしている子供の写真というと、単純に感動を呼び起こしてしまうが、読み取るメッセージはそれだけでは足りない、というわけだ。
写真や映像は、放射する光が強いほど、それに眼を奪われて、その向こう側に隠れている物が見にくくなる。そういう“輝いている写真”こそ、惑わされずによ〜く見ていただきたい。

さて、「本当のイラクは報じられているか」というテーマのこの対談、最後の論点は、イラクに限らず“本当の現場”を見にくくしているもう一つの意外な要素―――《取材相手のサービス精神》について。桃井さんがかつてのフィリピンでの体験を、私が子供時代過ごした町田と数年前のキューバでの体験を語った。

桃井:
(取材相手から)何を取材してるのって聞かれるわけですよ。その時に例えば「フィリピンの貧困についてです」って答えると、カメラを向けた瞬間に、彼らは「私達の貧困をどうにかしてください!」って言ってくれる。でも取材が終わるとパッと、「どこかご飯食べに行きましょうか」ってなるんですよね。(会場笑)

−私自身が報道を鵜呑みにしなくなった原体験とも同じですね。子供の頃に近所で天然痘が発生したんですが、私たち住民自身が、カメラを向けられると頼まれてもいないのに“不安におののく近所の住民たち”という顔を反射的にしてしまう、という。

桃井:
そうそう。例えばテレビや新聞が“フィリピンの人は怒りに手を震わせていた”とか書いてしまうのを見ると、「もうちょっとフィリピンを分かった方がいいよ」と思いますね。僕は、そういう裏腹な部分をも報道しないといけないと思うしね。

−本当に、フィリピンに限った事ではないんですよね。僕はTBS時代にニューヨーク支局にいた事があるので、キューバによく取材に行きましたけど、そこでも同じ事がありました。インタビューしている間は「カストロをどうにかしてくれ!」と深刻な顔で訴えていた人が、撮り終わった途端に「まぁ、いいから踊りに行こう」と笑顔で誘ってくる。そういうもんなんですよね。

誤解なきように書き添えるが、この対話は、「貧困なんてウソだ」と言っているのでは全くない。貧困は、厳然たる真実だ。 しかし、「それと同時に存在する、明るさ・逞しさもまた真実だ」、と僕らは言いたいのだ。どんな物事も、一面だけで捉えては見誤る。純真な瞳の子供が盗みを働き、涙で貧困を訴える人がニコニコ踊りに行く。それが《現実》というものなのだ。

付記---------------------------------------------------

実はこの対談、世界一周航海中の『ピースボート』船内で4月8日に開かれた、洋上対談である。その模様を、船内で私の講演会などの手伝いをしてくれていたボランティア・スタッフが、録音→テープ起し→ピックアップして、下船する私に手渡してくれたのが、今回の放送と相成った。(多少、付け加えたり削ったりはあるが。)

この対談のようなピースボートの船内企画は、常に同時に何本も開催されている状態で、乗船客もとても回り切れない。それに加えて、もちろん寄港地でも盛り沢山の交流プログラムがあるので、それらを初めて組織的に映像記録している『ピースボートTV』が、どんな番組を作り貯めて世界一周から戻って来るか、非常に楽しみだ。

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