地下鉄サリンから9年…北村浩一弟が語る(後半)

放送日:2004/3/27

前回(3月20日)は、地下鉄サリン事件からちょうど9年の日ということで、この事件で殺人罪が確定して現在服役している北村浩一受刑者の、弟さんのインタビューの前半をお伝えした。彼自身の当時の思いを中心に伺ったが、続きとして今回は、今も信仰を続けるお兄さんや現役信者たちの考え方について探ってみよう。

まずは、兄・浩一受刑者について、弟はこう語る。

−お兄さんは無期懲役が確定したわけですが、それは“自業自得”なんでしょうか。それとも“何かのせい”?

弟:
兄には、「自分を変えたい」という思いがあったと思います。そこでオウムという駒があったので、それを採ってしまった。他の選択肢があったらそれを採れたかもしれない。でもたまたまそこにオウムがあって、それを採ってしまったんだなと思います。

−そこに引き込んでいった松本智津夫のせいだ、という感情は?

弟:
それは、ありますよ。例えば、仏教と言いながら、偽物の仏教を教えたりした人ですから。こんなものを兄に教えて、というのはありますね。

北村浩一受刑者は、裁判中に一度は脱会宣言したが、後に「あれは偽装だった」と再び信仰宣言している。なぜこれほどまで頑なに信じ続けるのか、弟はこう語る。

弟:
兄は未だに信仰を続けています。(刑務所の)中にいたら、いろんな人と接する事も少ないだろうし、心が変わるきっかけも持てないだろうし…。無期懲役になってしまって、兄の心はずっとこのまま変わらないのかなあって、そういう思いはありますね。

−無期懲役になった事で逆に、教えから抜け出すチャンスを失ってしまった…

弟:
そうですね。判決が出るまでは、兄は拘置所で1人の生活だったんですけど、弁護士を通じて、オウムからの差し入ればかりされていたんですよ。ダンボール2箱分になるくらい、オウムの本をもらってて。

−読む本は全てオウムの本?

弟:
そうですよね。でも、僕がまだ信者だった時の事を考えると、オウムに対して否定的なものは自分から読まないようにしていたんで、仮に、兄へそういう(オウム以外の)本を送ったとしても、読まないだろうと思います。

出所後、また教団の活動に戻る信者が少なくないのは、こうした“純粋培養”のような環境のせいなのだろうか。服役中であっても、「社会から隔離されている」という状態だけを見れば、サティアンにいた時と似たような環境とも言えるのかも知れない。

しかし、社会に出ている現役信者たちには、世間の批判の声は充分聞こえているはずなのだが、なぜ揺れずに今も信仰を守り続けているのか。それについては、自身が教団の中にいた時の実感から、弟はこう言い切る。

−現信者の人達は、これだけ居づらい状態で、なぜまだ信じ続けているんでしょう?

弟:
僕が中にいた時の経験で言うと、外で何が起きていても、そういう情報は入ってこなかったり、自分で入れようとしなかったりするんです。だから関係ないというか。外から見れば、「世間でオウムはダメって言われてるのになんで居続けるのか」って、疑問を持つと思うんですけれど、それすら持たない。中にいる人にとっては当然の環境というか…。ガラスの球に水が入っていて、その中に魚が入って生きているような、一つの出来上がった世界とういか。

物理的に情報が“耳”に届かないわけではないけれど、それが“脳”まで届いていないという事だ。

現信者の思考パターンで特に核心の部分は、「犯罪行為をしたことは認める。でも教えは素晴らしい」と、分けて考えられるところにある。その思考方法を、弟はこう解説した。

弟:
教団の人は、「犯罪を犯したとしても、言っている事は正しい。それを知っている私達が、なぜ悪いって言われるの?」って思ってるところはあると思います。(犯罪と教義を)切り離せるって考えちゃってるんです。普通だったら「切り離せない」と思いますが、切り離せないなんていうのは“感情に振り回された”考え方で、レベルが低い事だ―――という、そういう教えがあるので。そうやって「(やってる事と言ってる事は)切り離せる」と思ってること自体が、社会とのギャップを産んでるというか…。

「こんな犯罪を実行した人たちの教えは信じられない」という繋げ方は、感情的判断でレベルが低く、“それはそれ・これはこれ”と分けなさい、というわけだ。だったら、まず信者自身が、ちゃんと峻別している事がわかるように行動してほしい。「今信じているのは、麻原彰晃という教祖そのものではなく、教義だけ」という事が、幹部の声明でなく、個々の信者の行動という目に見える形で示されるようにならなければ、世間は安心できない。

脱会した弟は、個々の信者の甘えを、こう厳しく指摘する。

−あなた自身の生き方や人生観は、あの事件の頃とどう変わっていますか?

弟:
考えてみると、オウムにいた頃は、「解脱・悟り」とか、「自分を完成してから皆を救済するんだ」とか言ってましたけど、なんだかんだ言って自分の事しか考えてなかったんだと思います。周りにいる人達すら、心の中で蔑んでいたので。そうやって、周りの人すら幸せにできなかったら、もっと多くの人なんて、幸せにできるのかなって、今は思いますね。

「救済」という考え自体に、自分より下にいる者を上に引き上げてやる、という一種傲慢な部分がある。それで本当にみんなのために動けるのか。それがこの弟さんの、今にして思う指摘だ。

世間が批判し不安に感じているのは、「信仰」そのものではなくて、こういう「姿勢」。そこに1人1人の信者が、本当に気付いてほしい。

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