地下鉄サリンから9年…北村浩一弟が語る(前半)

放送日:2004/3/20

今朝(3月20日)でちょうど丸9年を迎えた、地下鉄サリン事件。あの時、実行グループを手伝った1人の信者に、今回は眼をツケる。

9年前の3月20日の朝、各実行犯は、サリン袋を持ってそれぞれの決められた駅へと移動を開始した。その中の1人を車で丸の内線四ッ谷駅まで送るべく、車を運転した信者がいた。後に指名手配で有名になった、北村浩一受刑者だ。「運転手役を務めた」ことで、殺人罪が摘要され、去年秋、最高裁で無期懲役が確定し、現在服役中である。

実は彼の弟も、事件当時、オウム出家信者だった。その後脱会して、今は普通に暮らしている。そんな弟さんの自宅にお邪魔して、先日じっくり話を聞いてきた。
まずは、9年前の今頃、彼自身が体感していた、教団内部の雰囲気からご紹介する。

弟:
地下鉄サリン事件が起きたっていう話を、僕のいた施設に外から来た人が喋っていました。「外では“オウムは世界一のテロ教団”って言われてるぞ」とか、笑いながら話してたんで、「なんだ、それ」と思って。「また世の中でいろんなデマが流れてる」「またデッチあげか」と思ってました。
もうその頃は、強制捜査が始まっていたかと思うんですけど、「いよいよ日本政府がオウムを本格的に弾圧してきたぞ」「これから頑張らなきゃ」という感じでしたね。

−それから、逮捕される人がどんどん出て、どの辺から「これはもしや」と思い始めましたか?

弟:
いつ頃から認識したかっていうのは、記憶にないです。

−教祖が逮捕された時なんかは?

弟:
その頃は全然、デッチあげだと思ってましたから。尊師が逮捕されたら、日本はカルマによって滅びちゃうから大変だと、本気で思ってました。逮捕されても何もなかったですけど…。

「サリン」=「でっち上げ」、「強制捜査」=「国家弾圧」、「教祖逮捕」=「日本は滅びる」。あの頃、教団はメディアに対してもこういう主張ばかりしていたが、内部でも、一般信者は本気でそう思っていたわけだ。現在、その思考パターンの延長で、「教祖死刑」=「殉教」と見ての信仰強化が、今でも“麻原彰晃”を信奉している一部の信者の中で起きるのではないかと、懸念されている。

次に、この弟さんがオウムに入信した経緯について聞いた。兄弟揃って入ったわけではなく、兄が先に入信、弟さんは後からだった。

弟:
大学3年になる少し前に、兄から連絡がありました。僕が住んでいた近くでオウムのイベントがあるっていう話で、僕は全然行く気はなかったんですが、親が行ってみようという事で行きまして。そこで本をもらって、親が「面白いみたいだから読んでみたら」って言うので読んで、ハマってしまって。1週間後には教団の支部に行っていた、という感じですね。

−あなたが入った頃、浩一お兄さんはどういう状態だったんですか?

弟:
富士にいたと思うんですけど…。富士から、例えば東京や名古屋へ荷物を運ぶ便があったんですけど、その運転をしてるっていうのは聞いてました。

−“弟よ、入ってきたか!”という感じはありましたか?

弟:
淡々として、「おう、入ったか」という感じでした。

本人よりも親がむしろ関心を示したというのは、今から見ると信じられないが、当時はこういう超能力ブームで、オウムも一般にはほとんど危険視されていなかった。その雰囲気が思い出されるエピソードだ。私も色々な信者に会ったが、「本を見て」は、一つの典型的な入信パターンである。

弟さんは、地下鉄サリン事件には、北村浩一受刑者のように直接関わることはなく、当時は上九一色村から少し離れた所にある「清流精舎」という施設で作業していた。ソ連製の自動小銃を真似て武器製造が行なわれていた場所、と先日の麻原判決文の中でも言及されている工場なのだが、そこでの様子を、彼はこう語る。

弟:
旋盤とかそういうものを使って、色々な部品とかを作っていました。

−何の部品を作っていたんですか?

弟:
何の部品かっていうのは教えてくれないんですよ。とにかく、図面のものを作れっていう、そういうのばっかりだったんで。逆に、聞いてはいけないっていうか、聞かなくてもそれを作るのが帰依なんだ、それが修行だという感じでやってました。
工場で働いている時に、夜中だったんですけれど、麻原が村井秀夫と一緒に、「おう、がんばってるか」と言って入ってきた事があったんです。それで、僕の名前を呼んで、「がんばってるな」って。その時「ああ、尊師にそんな事を言われた」と喜んだっていうのはありましたね。

これだけ≪考えずに指示に従う≫構造だと、今また「麻原回帰」と公安の報告でも言われる中で、また何か上層部から指示が出たらそのまま従ってしまう一般信者がいるのでは、と心配する声もあるだろう。しかし、何事も可能性がゼロとは言えないが、今のアーレフには、攻撃的行動に出る≪手段≫が特に無い。差し迫った危険よりは、むしろそうやって「怖い、怖い」と仲間はずれにし続けて、反社会的気持ちを彼らにわざわざ与える方が、よっぽど危険ではないだろうか。

アーチャリーと呼ばれた三女の和光大学入学拒否の問題も、そういう流れの中にある。あの問題で、「拒否するのは如何か」と他人事のようにコメントする文部科学省の態度は、実に無責任だ。地方自治体のオウム信者住民票受け容れ問題等にも通じる事だが、本当に困っている現場を、国という単位でサポートする方向に転換できないのだろうか。受け容れる大学が出てきた場合に、そこをどうバックアップするかを考え、例えば専門家を送り込む等の対応があってしかるべきだろう。

―――さて、その後、実行犯送迎の運転手役として指名手配された北村浩一“オウム自治省次官”は、1年半余りの逃亡生活の末、96年11月に逮捕。1・2審とも判決は「無期懲役」で、去年10月、最高裁で刑が確定した。
一連の動きを、兄の逮捕当時まだ現役信者だった弟さんは、どう見ていたのだろうか。

−お兄さんの逮捕は、どうやって知りました?

弟:
その時は東京にいたんですけど、教団内の同じ部署の上にいた人が、「逮捕されたよ」と教えてくれたんです。「ああ、つかまったか」「それも修行だな」と、そんな事を思っていたような気がします。

−で、無期という判決が出てしまったわけですが…

弟:
その頃は、がっかりしたという記憶は特になかったと思いますね。「これからまだ戦争は起こる」と思ってた。「それで世の中が変わって出所できる」と、そんな、今から考えれば妄想というか、幻想というか、そういうものを持っていたと思います。

どこまでも、自分たちの論理で都合のいい方向にすぐ解釈できる思考メカニズム。この弟さんは、その後結局脱会したわけだが、なぜ今でも現役で信じ続けている人達がいるのか。次回は、現役信者の心理を、この弟さんとの対話で考えていく。

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