「うっきーちゃん」、国語教育学会に登場!

放送日:2003/10/18

先週土曜日からの3連休(10月11〜13日)、沖縄で開かれた『全国大学国語教育学会』に参加してきた。「国語教育」は私の専門外だが、以前このコーナーでもご紹介した教材ビデオ『うっきーちゃんのテレビふしぎたんけん』が、この学会の分科会の話題で取り上げられたので、『うっきーちゃん』の制作に関わった私にもお呼びがかかった。

分科会に集まった現場の国語の教師達からは、このビデオを見て、結構辛口な意見が出た。

(学会会場より)----------------------------------------------------------
参加者A: 最初このビデオを見て、「なんだこれは」と思ったんです。私が小学校1〜2年生の時、『鉄腕アトム』を見てさめざめと泣いた自分を懐かしく思い出したんですね。小学校1年生がこの教材を見て、「なんだ、結局人の手で作っているカラクリなんじゃないか」、こういう冷めた目で見てしまったらどうしようと思って、「うちの子供には見せまい」と思ったんですよ。同じような感覚でご覧になった先生もいらっしゃったんじゃないかなと思って、発言しました。
参加者B: (アニメやドラマは)嘘は嘘ですよ。でも1年生の児童に、そういう気持ちにさせるというのは、1年生の段階ではちょっと首をかしげるかなあ、と。
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いわゆる“夢を壊すな”論は根強いのだが、「現実を知る」=「夢が壊れる」わけではない。大人の我々でも、ドラマに出ているのは俳優だと分かった上で、それでも十分にのめり込み、感情移入する事が出来る。大切なのは、≪現実だと知った上で夢見る力≫だ。“夢を見るためには現実を知らしむべからず”では、与えられた情報に対して必要以上に期待したり幻滅したりと、振れ幅の大きい反応しか出来なくなってしまうのではないだろうか。
今回の分科会では、「メディアの受け止め方を教える重要性は分かるが、もっと子供の発達段階についての研究を進めなければ」という意見が最後に出た。つまり、“何歳でどこまで教えるか”というタイミングの研究だ。これは確かに、意見の最大公約数かなと感じた。

他にも、『うっきーちゃん』については様々な意見が出た。例えば、アニメの登場人物であるカナちゃんが、着色によってどうイメージが変わるかを実験するコーナーがある。青い服を着たカナちゃんをビデオで見せてから、「みんなも好きな色に塗ってみよう」と実践をさせているのだが、その構成の順序について参加者から質問があり、『うっきーちゃん』制作チームがたじろぐ一幕もあった。これは大変深いテーマを含んでいるので、会場での私の発言も合わせてご紹介する。

(学会会場より)----------------------------------------------------------
参加者: 色でカナちゃんの性格を表現する時に、初めにビデオに出てきたブルーの色に影響されて、その次に色を塗る時、子供の中にブルーが刷り込まれていないのか、という事が1点。実践授業のクラスの中で、ブルーに色を塗った児童は何人いましたか?
制作メンバー: 40人のうち12人が水色の服に塗っていましたので、4分の1以上ですから、「絵を見て子供たちが影響された」っていう事はあるいは多かったんじゃないかと思います。
制作メンバー: 私達も実は、制作の中でその点は最後まで悩んだといいますか、「ああ、どうしよう」と思ったところだったので、さすが鋭いご質問だなと思いました。
下村: 答えの一つを見せた上で、「君だったらどう塗る?」というこの順序は、これでいいんじゃないか、という気が私はしました。もし、例えば白黒のカナちゃんを見せてから「色を塗ってみよう」とやると、多分今までの、≪文字と静止画しかない読書から自分の想像力を広げる≫という教育と、子供たちの頭の中の動きが同じになってしまうのでは、という気が私はします。むしろ、動きも声も色も、全部の情報が与えられている上で、≪さあ、そうじゃないものも作ってみよう、新しい発想の仕方を持ってみよう≫という事が、この教材によって身に付けさせたい“力”なんじゃないかと思うんです。
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つまり、本を読んで情報を受け取る力と、映像を見て情報を受け取る力の≪違い≫がポイントなのだ。本には文字しかなく、情報が限られているので、読む人は想像力のスイッチを自動的にONにして、自分の世界を広げていく。その広げ方をどう豊かにするかが、これまでの国語教師の腕の見せ所だった。しかし映像は、情報量が多く、“全ての情報が既にそろっている”という錯覚を与えるので、見ている人が自動的に想像力のスイッチをOFFにしてしまう。それを意識的にONにする習慣を身に付けさせる事が、新しい国語教育の役割だと私は思う。

ところが、これまで文字情報の受け止め方だけを教えていた先生達にとっては、「自分で想像しましょう」という所からのスタートは、あまりに初歩的なレベルで、物足りないようだ。この分科会でも先生達は「それによって何の力が付くのか」という、もう一歩先の意義を求めたがった。意識の高い教師がよく「教科書教えるんじゃなくて、教科書教えるんだ」と言うが、映像に関しては、まだ映像何かを教えるのではなく、映像そのもの教える段階にある、と認識してもらいたい。
この問題について、信州大学教育学部の藤森先生の質問に、私がこう答える場面があった。

(学会会場より)----------------------------------------------------------
藤森: じゃあ結局、映像教育は言葉の学習と同じ線上につながっていて、映像メディア独特の教育はないのでしょうか?
下村: 今までの国語の教育で得られていた文字情報の受容レベルに≪追いつく事≫が、今の映像教育に必要な事であって、その先の独自性なんて、今はまだいらないんです。本を読むのと同じレベルで、映像を受け止められるようになる事が、現段階の指導目標だと思います。
藤森: もう一点。「≪キャラクターの色が変われば性格も変わる≫というのは自明の事で、何も教育しなくても、子供たちが勝手に学ぶもの。なぜこれを取り立てて学習指導する必要があるのか」というやや過激な反論を、私達はどう考えればいいんでしょうか?
下村: ≪色が変われば性格も変わる≫は自明ではありません。子供たちどころか、大人の視聴者たちだって、ほとんどそんな事、気付いていないです。「色が変われば印象って変わるんだ」「自分はその印象に踊らされているんだ」とまず気付く力を付ける事が、授業に求められていると思うんですよ。だから、先生方にとってはあまりに幼稚で物足りないかもしれませんが、まずはそこから始めていただきたいというのが、私の思いです。
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この学会のこの分科会を選んで出席する先生方なので、意識はとても高いのだが、それぞれの学校に帰った時に他の先生達へ、こうした授業を行う意義をどう説明すればいいのか、その≪言葉≫が見つからずに苦悩しているようだ。
その苦悩は、藤森先生のまとめの言葉にも滲み出ていた。

(学会会場より)----------------------------------------------------------
藤森: さっきから、映像と言葉の違いは何だろうとずっと考えていたんですが、やっぱり映像が持っている情報の力の強さが、言葉よりも圧倒的に強いという事だと思うんです。慶応大学教授の佐藤雅彦さんが、情報の力関係についてのエッセイを毎日新聞に載せた事があって、それは、右向きの矢印を書いて「左を見よ」と文字で書いておくと、皆右を見てしまう、というものでした。映像という具象イメージが持っている力はものすごく強力で、それゆえに、いともたやすく人が飲み込まれてしまう。その時、踏ん張って飲み込まれないようにする、防波堤になる知見というのを、どうしてもどこかで教えなければならない。“映像教育は国語科の領域ですか?”という異議を跳ね返して、もっと≪映像≫を授業の中に取り入れていかなくちゃいけないんだろうな、と思うんです。
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現状では、「既存の国語科の枠内に、≪映像≫をどうやって納めるか」という事に力が注がれているが、そうではなくて、「既存の国語科の枠をどう広げるか」と発想すべきではないだろうか。 20世紀型の国語科の枠の中に留まろうとする“守旧派”の先生達に、外界から「黒船が来た」と思われないためには、もしかしたら「メディア・リテラシー」という得体の知れない単語の使用をやめるのが第一歩なのかもしれない。こんなピンと来ない外来語を使わなくても、「映像の見方・作り方を勉強しよう」だけでいいわけだ。それに加えて、総合的学習や社会科の時間とどう分担・連携していくかを、国語学会だけなく、幅広い現場の意見を交えて話す場が欲しいと感じる。

最後に、この会の司会者、群馬大学の中村先生の締めくくりの言葉をご紹介する。

(学会会場より)----------------------------------------------------------
中村: 今日の議論が、下村さんのラジオ番組『眼のツケドコロ』によってどうアレンジされて構成されるのか、我々自身のメディア・リテラシーのためにも、土曜日の放送とホームページへの掲載を、非常に楽しみにしてまいりたいと思います。
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今、このホームページを見ている出席者の先生方は、「ははぁ、こうまとめたか」と思っていらっしゃるだろう。ご自身の分科会の記憶と比較しながら、≪伝え手によって情報表現は変わるんだなぁ≫というこの実感を、次の授業に反映していただければと思う。

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