あなたが知らない北朝鮮! 下村の平壌滞在報告

放送日:2007/12/15

11月下旬から今月上旬にかけ、北朝鮮に行って来た。その取材リポートは、今週(12月11日)『NEWS23』で放送し、また12月22日の『ブロードキャスター』でも放送する。今朝は、そこには収まらなかった、7泊8日の平壌滞在で垣間見えた北朝鮮の姿を、敢えてチョー素直に《見たまんま》の目線でご報告する。

■空港で、早くも崩れる先入観

11月27日の午後、北京からの高麗航空直行便で平壌に着いた。166人乗りの旅客機は、満席。乗客の多くは中国人や韓国人、1割が白人やラテンアメリカの人で、見かけないのは日本人だけ、という感じだった(ビジネスクラスには、核施設の査察に向かう日本の外務省関係者が少々座っていたが)。
平壌空港に降り立ち、有名な金日成主席の巨大な肖像画が掲げられた空港ビルを写真に撮ろうとカメラを向けていると、早速、制服の女性がすっと近寄ってきた。来たな、と思って身構えると、にこにこしながら「あっちの方が良く撮れますよ」―――え? これが、北朝鮮人から聞いた第一声だった。
その後、預けた荷物が出て来るベルトコンベアーの所に行き、回ってくる荷物を見ていると、荷札には韓国の道路公団や観光学博士、農業関係者などと書かれており、南北の交流が進んでいることが実感される。出迎えの5才ぐらいのラテン系の少年に、到着したばかりの親戚のおばさんらしき女性が手を振り返したりと、いたって普通の空港風景で、ピリピリした空気は全く感じられない。ここはホントに北朝鮮なのか? 見ると聞くとは、大違いだ。
入国手続きの場所で、北朝鮮当局から派遣されて来た2人の現地コーディネーターの出迎えを受けた。以後この2人は、帰りの空港までずっと我々に密着し、泊まるホテルまで一緒という、早い話が“見張り役”。ソフトムードではあるけれど、事実上、勝手に動くことは許されない。国の入り口で早くも、硬軟両方の顔が見えた。

■ 平壌―――立ち並ぶビルと、戦時体制と

チャーターした車から移動中に街を見るとき、心がける事を2つ、前もって決めていた。第1は「日本人拉致被害者がいないか捜すこと」。手元には、特定失踪者の顔写真リストを常に忍ばせていた。そんな人達が、外国人の眼に触れる平壌市内をふらふらしているはずもなく、確率的には、偶然見つけられるわけなど無いのだが、我々日本人のほとんどは長年、被害者家族の訴えに耳を貸さなかった≪無関心に対する責任≫がある。訪問する機会を得た日本人の当然の責任として、捜す努力は全員がしなければいけないと思う。北朝鮮の政府が言っている「(拉致被害者は)もう生存していません」という言葉を全く信じていない私は、一生懸命に道行く人の顔を目で追った。
しかし第2に、北朝鮮の全国民が拉致の犯人というわけでは当然ないのだから、「“怖い国”という一切の先入観無しで、目に映る物をそのまま見よう」とも心がけた。物凄く当たり前で幼稚な決意だけれど、日頃の報道のトーンを見ていると、案外これが出来ていない記者が多いような気がしてならないから。

―――そんな先入観抜きの眼で見た平壌は、ビルが立ち並ぶ、すっきりした市街地だった。すっきりして見える理由は、「コレ買ってください」というきらびやかな看板やネオンサインがほとんど無いこと。あるのは「団結!」といった固いスローガンの文字ばかりだ。人通りは結構あり、特に平壌駅前は大賑わいで、バス停は大行列だった。それは、日本から来た報道関係者に繁栄ぶりを演出するためにかき集めたエキストラの群れ(笑)とはとても思えない、実際の市民の姿だった。交通機関は、自転車、トロリーバス、路面電車、ふつうの電車、地下鉄。マイカーがほとんど走っていないため、道路は渋滞知らず。たまに見かける信号は、電力不足で点灯していないため、大きな交差点の真ん中では女性警察官が立って、芸術的なほどキビキビした身のこなしで交通整理をしていた。
取材用でなく個人の観光用ならば、そういった場面の写真撮影も結構OKで、ずいぶん撮ることができた。しかし時々、コーディネーターから唐突にストップが入る。例えば、ある大きな建物を撮ろうとすると、「そこはダメ!」。その時点では、どういう理由で撮影が許可されないのか分からなかったのだが、後で、頻繁に北朝鮮に出入りしている在日の人いわく、「あそこの建物はね、地下に戦車がいっぱい格納されているんだよ。だから有事にはワーッと戦車が湧いてくるんだ」。コーディネーターの目を盗んで、丘の土手のような所にある石の扉を撮ろうとしたときも、その在日の人が「ここは中が武器庫だから、カメラを向けたらどこからともなく兵士が飛んで来るよ!」。真偽の程は確認の仕様も無いが、そういう施設があちこちにあるのだそうな。広場では、よく若者が行進の訓練をしていたが、これもカメラを向けるのはダメだった。こういう状況を見ると、朝鮮戦争は休戦だけで、法的には終わっておらず、「やっぱりこの国は、まだ戦時中なのだ」と実感する。

■日本語あふれる博物館で聞いた、ガイドの後悔

一般の人達の対日感情は、もともとなのか、拉致問題以降に一段と冷えたのかは分からないが、やはり悪かった。博物館にいる日本語を話す女性ガイドに、「どうして日本語を勉強したんですか?」と訊くと、「失敗でした。日本語勉強したの、大変後悔してます」と流暢な日本語で言うのだ。日朝友好のつもりで「いつか役に立てる日が来ますよ」と元気づけると、「いや、そうは思えません。だから私、今、英語を勉強し直してるんです」と言う答え。彼女らは、日朝が国交正常化して日本人がワッと訪れて来る日など、二度と来ないと思っているらしい。こういう話を聞くと悲しくなる。

博物館には、戦時中の新聞記事が歴史資料として厖大に展示されていた。当時は日本統治下だったので、新聞も日本語で発行されており、例えば「金日成という輩が暴れている」などといった趣旨の記事が日本語で確かに報じられている。それらがそのまま拡大コピーで展示され、その下に朝鮮語の解説が付けられていた。(つまり、この国の人達は解説パネルで記事内容を知り、我々日本人は逆に直接展示資料が読めてしまう、という皮肉な状態。それだけに、展示物からストレートパンチを受けているような感覚だった。)当時にタイムスリップするようなリアリティ。主張や学説、整理された年表などではない、現物の展示で歴史学習をしているのだ、という点が私には最大の発見だった。
これだけの量のナマの史料を、子どもの頃から連れて来られて、沢山見て勉強していれば、歴史をろくに勉強せず実感の無い日本人と、気持ちのズレが生じるのは当たり前だ。日本人はよく、戦争責任を問う東アジアの人々の発言に対して、「いつまで遠い昔の事にこだわってるんだ!?」という反応をするが、そういう日本側の違和感は、被害者・加害者という《立場の差》から出て来るだけでなく、《知識量の差》からも出ているのだということを思い知らされた。たとえ戦後生まれであっても、彼らにしてみれば、これは昔の事ではなく、日々見て勉強している事なのだ。

■のどかな場面を撮らせない理由

これほどまでに日本への印象が悪い中で取材をするのは、実に大変だった。観光用の写真はいいのだが、テレビ用となると「ダメ」だらけで、毎日コーディネーターたちと“日朝交渉”の連続だった。たとえば、川辺をのどかに散歩する可愛い男児と祖父を撮ろうとすると、「それダメ!」。「なんで? こういう平和的な普通の庶民の姿も日本に紹介しようよ」と我々が言うと、「いや、こういうのを撮って行って、向こう(日本)に行って、“寒くて住む家も無い、かわいそうな小さな子どもがおじいさんと一緒に川辺をさまよい歩いてる”というナレーションをつけるじゃないか。これまでにそういう事がいっぱいあったじゃないか! だからダメだ」と言うのだ。
これは不幸なことだが、日本メディアに対する彼らの警戒心は物凄い。それが「後ろめたい隠し事を暴かれることへの警戒心」なら、我々も誇りに思えるのだが、話を聞いてみると、どうもそういうレベルではない。北朝鮮の取材現場では善意ある趣旨説明で撮影しておきながら、日本に戻って、現実と異なる状況説明で「北朝鮮は今こうなってます」という“悪意の”ナレーションを後から付けられた、という苦い経験が、実際沢山あったのだ、と彼らは言う。(もしそれが本当で、実例のVTRを示してもらえるなら、そのままメディア・リテラシーの教材になりそうな話だ。)
取材が大変な理由は、日本メディアへの警戒心だけでなく、もちろん社会体制の問題もある。基本的に、全て物事は許可が必要で、いちいち「そのシーンはなぜ必要不可欠なのか」を説得しなければならない。そのための話し合いは連日深夜に及び、本当に日朝双方とも疲れ果てた。「オンエアに使うかどうかは分からないが、一応撮っておく」という発想は、一切通用しない。従って、地下鉄などはもちろん撮影不許可、平壌在住のコーディネーターの自宅に行くのも上の許可がないとダメで、すべて回答待ちなので恐ろしく時間がかかった(結局、自宅訪問は実現せず)。コーディネーター達も、相当苦労して上司を説得し、こちらの要望に出来る限り応じようとはしてくれたのだと思う。我々日本人が「どうして北朝鮮人は、柔軟に状況に対応した即決ができないのか?」と呆れるとき、丁度それと同じ程度に北朝鮮人の方は 「どうして日本人は、事前に物事を計画しておけず、思いつきで動こうとするのか?」と、お互いに相手のやり方に呆れながら妥協点を探す、という感じだった。

■日本人の尺度では測れぬ、北朝鮮人の「不満」センサー

そういった、何でも許可を仰ぐという体制を、彼ら自身は「自分たちは自由が無い」とはあまり深刻に感じていないように見えた。少なくとも私が首都で出会った人達に限定すれば、「じっと我慢しているが、内心は不満が爆発寸前」という感じは受けなかった。「そんなはずは無い。彼らは処分が怖くて、平気なふりをしているだけだ」と、多くの日本人は反論するだろう。《自由に動けるのが当然》の社会に生きる人間には、《上の抑圧があって当然》という人間の発想は、どうしても演技としか受け取れない。
例えば《自由に飛べるのが当然》の鳥たちにしてみれば、《地べたしか動き回れなくて当然》という人間の発想はどうしても理解できず、「爆発寸前の不満を抑え演技している」としか思えないだろう。生まれた時からそれが当たり前の状態であるとき、“不満感知センサー”の感度は根本的に変わるのだ、ということを、他の常識の中で生まれ育った者が想像し切るのは、難しい。
もちろん、彼らに「不満が全く無い」などとは、私も思わない。多くの人間が「鳥みたいに空を飛べたらなぁ」と思ったことがあるように、彼らも「上の許可無しでもっと動けたらなぁ」と思うことは、当然あるだろう。ただその思いが“爆発寸前の不満”にまでは至らないという、感度の問題だ。「北朝鮮の国民全員が、24時間抑圧を自覚し苦しみながらいつの日か解放されるのを夢見ている暗い国」というイメージは、極端だ。
実際、肩で風を切って子分2人を連れて歩いている、ガラの悪い兄さんもいたし、外国人相手のカラオケで陽気に歌う従業員の女の子もいた。その兄さんも女の子も、胸には金日成主席のバッヂを付けているのが、我々から見るとどうしてもアンバランスで、説明不能な違和感を覚えるのだが、多分彼らの中では辻褄が合っていて、両方とも一体となって日常生活が成り立っているのだ。簡単に、「北朝鮮の人達はこういう人達です。こういう社会です」という風には割り切れない、と改めて痛感した。

■デュエット1つにも浮かぶ、表情の多様さ

もちろん、カラオケに行けるのは外国人や一定程度以上の恵まれた人だけで、そこにあるのは一種の“虚構の世界”だろう。だが、従業員の女の子たちが見せるいろいろな表情は、ごく自然で、あの“喜び組”やマスゲームの演者たちが無理して作っているような、ぎこちない満面の笑みではなかった。例えば、彼女らが、平壌訪問中の在日朝鮮人の高齢者と一緒にデュエットしている場面。昔の大変な苦労を歌詞にした歌を、高齢者は当時の辛い日々を思い出して、目に涙を浮かべながら歌っているのに、隣の女の子はにこにこしながら歌っている。その両者の表情の違いを見ていると、この国にも世代間のギャップはあり、決して全国民が一色の思想で心まで染め上げられているわけではないのだ、としみじみ感じる。こうした事は、いくらニュースを見ていても分からない。
私は、北朝鮮の体制を擁護するわけでは全く無い。もし仮に今、日本社会が、極端にお人好し路線で「北朝鮮と仲良くしようよ」という空気の世論一辺倒だったなら、同じ今回の見聞でも、私は厳しさの側面を強調して「そんな甘いもんじゃない」と報告しただろう。だが、今の日本の世論は逆に警戒一辺倒なので、今回は「そんな怖いだけじゃない」という側面を敢えて前面に打ち出して報告した。
コインには常に、2つの面がある。両国の国民が、お互いの一面だけを見るという姿勢を改め、最終的には、私たち日本人が誰でも北朝鮮を見に行けて、現地のガイドの人が「日本語勉強して良かったです」と言えるような関係になって欲しい。拉致問題を「棚に上げて」ではなく、拉致問題を「解決する」ためにも。

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