永田町では自民党が民主党に連立話を持ちかけるというご時世だが、先日、東京大学でも、ある2つの大きな勢力が、連携の可能性を探り合った。《学問》の世界に生きる人間と、《報道》の世界に生きる人間が集って、互いに「もうちょっと、日本の報道人はアカデミックになれないのか?」とか、「もうちょっと、報道の役に立つジャーナリズムの授業って出来ないの?」などと問いかけ合う、大変現実的なトークを展開したのだ。『メル・プラッツ』という団体の主催で、学問側からは、東大大学院の才媛、林香里・准教授が、報道側からは私が座の中心になって、4時間もの間、熱く議論を交わした。
■実力よりも看板が先行する、日本の報道界
まずは、助走。欧米と日本のジャーナリストの比較話から。
下村: アメリカに住んでいた体験からすると、現場で記者たちの実力競争が物凄く激しくて。例えば、ワシントンやニューヨークから遠く離れたどこかの州で、何か全米レベルの事件が起こると、地元の記者は「もう絶対これは登竜門だ!」ということで、バリバリに張り切って全米を意識したリポートをして、勝ち上がっていく。そういうのを見てると、やっぱり、ちゃんと《納得力》をもって相手から取材し、《説得力》をもって皆に伝えられる人だけが生き残ってくんじゃないかなと。
日本の場合は、「私はこういう仕事してきました」なんて一切示さなくても、「TBSです」って言うだけで、あるいは「NHKです」って言うとなおさら、もうそれだけで「ははーっ!」って相手が一目置いてくれるところがあって。そうすると、全然しょーもないリポートしか出来ない、もう棒読みしか出来ないリポーターでもオッケーなわけですよ。それがまかり通っちゃってる。
林: やはり実績評価っていうことは、非常に重要な事でしてね。これは1つの例ですけれども、私、ドイツに住んでいたときに、よくアルバイトで通訳をすることがあったんです。日本のマスコミの方がいらっしゃって、「この関係の人にアポイントメントを取ってください」と言われるんですね。例えばドイツなんかでTBSとかNHKとか、朝日とか読売って名乗っても、何だか分かんないわけですよ。となると、「あなたの今までのポートフォリオをください」と、私は当然のことながら(日本のマスコミの方に)お願いをすると、「そんなもの作ったことがない」と、おっしゃるわけです。それは1回だけじゃないんです。その経験は、もう何回もあって。
日本の現状は、やはりマスメディア《システム》ってものが非常に大きな力を持って作用していて、《個人》としてのジャーナリストが社会に立ち向かっていく、そのあり方はまだまだ弱い。
ポートフォリオとは、この場合「自分は今までこういうリポートをやってきた」という、仕事の履歴書みたいなものだ。海外の記者達は、それを使って相手(取材対象者だったり、自分がステップアップを目指す報道機関の採用担当者だったり)と信頼関係を築いたりもするのだが、日本の一般の若い記者には「ポートフォリオ? それ、何?」という世界だ。日本の記者は個人の力量で勝負せず、所属する会社の名前の下で安住している傾向がある、と指摘されても仕方ない。
■現状…「頭で覚えろ」vs「身体で覚えろ」
やがて議論は、そういう欧米と日本のメディア人の違いを生む出発点としての、《教育のあり方》の話になった。ここからが、本題。
下村: ほとんどの報道機関が多分そうだと思うんだけど、「大学でジャーナリズム研究してました」って聞いた瞬間、採用担当者は「えっ?」って、ちょっとヒクんですよ。「そういう頭でっかちな奴かぁ…」って。それよりむしろ、「何か(スポーツ、課外活動等)に打ち込んでました」みたいな奴の方が現場感覚があるだろうな、その瞬間の即応力があるだろう、なんて思っちゃう。
今(大学で)教えられてるジャーナリズム教育は、《仕組みや構造》の話にぐーっとウエイトが行っていて、「現場に出たときに、どうやってお前は表現するんだ?」という、まさにジャーナリストとして肝心な《スキル(技能)教育》が非常に弱いんですよね。現場では、それを痛切に感じています。
林: なるほど…。ちょっと反論もあるんですけどね。
そういうスキル教育も確かに必要なんですが、ある意味で(構造的に)プロというのは《特権者》なわけですね。外の人間として申し上げるなら、電波を持った、社会的に非常に強力な、テレビ局という企業の1人となり、しかも法律的に、取材源の秘匿とか、いろんな特権を持ってる中の一員です。
ということは、(そういう《仕組みや構造》をしっかり認識して)たとえ4月1日に入社したばかりでも、「お前、プロだろ」と言われたら「はいそうです」と答えられる人間を、やはり企業は採用するべきなんですね、ほんとは。ホントは!
だけど、企業のほうは、「そういう頭でっかちは採りたくない」と。私のような人間が学生を教育して、うるさいことを言って、そういう(学生を採用する)のはホントは嫌だと。もっと体育会系とか、体力があって、警察署長の所で1杯飲んで、夜はずっとそこでお話を聞いてですね。それを1日ではなくて365日やれるような、そういう人が欲しいと。
■理想…「頭で覚えろ」&「身体で覚えろ」
両者はどこまでも平行線で、交わることはないのか? 実は、この両者の接点を探る試みを、かつて私はこのキャンパスでも行なっていた。
下村: 何年か前、ここの東大で、客員助教授をやらせていただいたことがありました。その時に私はこだわりを持って、『メディア表現論』っていう形で、物凄く幼稚な事をやりました。例えば、五月祭のときに学生達に「君の班は『五月祭はこんなに面白い』ってテーマでビデオ作って。で君達の方は、『五月祭はこんなにつまんない』ってテーマで作って」――みたいな課題を与えました。一部の学生からは「これはアカデミズムじゃない。やってる事のレベルが低い」って感想がありましたけど、私の反論は簡単で、「そのレベルの低い事が、お前は出来ないじゃないか」と。「それも出来ないで、偉そうにジャーナリズムが語れるか!」っていうのが私の答えなんですね。
今私は、小中学校でも、東大生相手でも、同じような授業をしている。それは現在の大学生たちが、基礎になるメディア・リテラシー教育をまだ受けたことのない世代だからであり、その点では、今のところ東大生も小学生も、横一線のスタートラインに並んでいるのだ。国語の教科書にメディア・リテラシーの項目が入ってきた今の小中学生が大学に進む頃には、こういう下村型の幼稚な基礎的ワークショップは、大学ではもう不要になっているはずだ。(かなり希望的な観測だけど…)
下村: 私が実践したような部分を担うために、ジャーナリスト達は大学や現場の中にどんどん入っていって、そういう教育をジャーナリズム教育のもう片方の柱として提供していけるようになればいいんだろうなって思ってます。
だから、【スキルアップの教室】もあり、【全体の構造を考える教室】もありっていう2枚の翼で、日本のジャーナリズム教育がアカデミズムの世界で完成していくといいなって、僕は思うんです。
■「報道の玄人」は「教育の素人」だから…
この後のディスカッションでは、面白い質問が沢山出た。大学で、まさに実践型の教育を目指し、学生達にビデオ作品を作らせている先生からの質問を紹介する。
会場(大学の先生): 報道界のプロの方が、メディア・リテラシー教育の現場に入っていく時に、どこまで教えるのか。(プロはこうやるんだ、と押しつけ型で)すごく教えすぎちゃうのもたぶん問題だし、一方で(表現の自主性を尊重しすぎて)何も言わないと、そのままでは学生達が、何かを学ぶ機会を逆に失ってしまう可能性もあるかなと。その辺はたぶん按配みたいなものあると思うんですけど、どうお感じになってるか、ぜひお聞きしたいなと思うんですけど。
下村: 確かに、学校の先生以上に、「こうやって作るんだよ」と報道のプロ達は押し付けちゃい勝ちなんですね。しかも、教わる生徒側も「ほんとのテレビの人が来たーっ!」て感じで絶対視しちゃうんですよ。「例えばこうやったら」って言うと、絶対その通りにコピーして作っちゃう。
だから、「『こうやったら』っていう例示をとにかくしないでくれ」って私は(学校に出向く報道マン達に)いつも助言します。その代わり、私が言うのは、例えば「あのインタビューを取ったとき、君達すっごく感動したんだよね? それ、見てる人に、もしかしたら届き切ってないの、もったいないよね。どうしたら良いかな?」ってそこまで。後は考えてもらいます。
自分でより良い表現を《思いついていく》ことが大事で、それを見守らなくちゃいけなくて。そこでガーンとプロや先生から「これじゃ駄目でしょ。こうやったら?」っていうのを示されちゃうと、《だんだん自分の表現になっていく》っていう正常なプロセスからヒューンと曲がっちゃうんですよ。
以前私は、大学生相手に『BSアカデミア』という大学生ラジオを指導していた。その頃から、「例を示すと何でも言われた通りにやってしまう、素直すぎる今の子供達を教えるのは、非常に難しい」ものだと痛感している。数学のように答えが1つと決まっている学問ならば、先生の解き方を真似してもいいのだが、《表現》には、“1つだけの正解”など無いのだから。
■火花を散らそう、ぶるぶるしよう!
さて、果たして学問と報道は、これから、互いの役に立てるように歩み寄れるのか? 林・准教授と私は、それぞれに展望を語った。
林: 答えは無いんですが、(ジャーナリズムが旧来の枠の中で)専門知だけを磨くっていうのではもう立ち行かないことは明らかなので、じゃあ(今まで枠外にいた)市民をどこまで取り入れ《協働》していくか。〔中略〕バラバラなものがある意味で対立し、議論をし、時には火花を散らし、ケンカ別れもしちゃうかもしれないけど、そういう《過程》を提供していく。これが非常に大事なわけであって。
下村: たぶんね、こういう授業を、特に現場の人間がぼーんと入ってきてやると、学校の先生もすごく“揺さぶられ”るんですよ。で、我々報道側も、教室に行くと“揺さぶられ”る。たぶん大学の研究者達の方が、より孤高の地位にいるから、“揺さぶられ”まいとして、「そんな現場の言ってることに…」って敬遠しちゃうと思うんですけど、やっぱり“揺さぶられ”て欲しいし、僕らも大学に行って、「こんな頭でっかちの理屈なんて…」って言わずに“揺さぶられ”るべきだと思う。
だから僕は、林さんのキーワードである《協働》に先立って多分、《共振》っていうのがあると思うんですね。共にぶるぶるぶるって震えちゃう。「《共振》を恐れるな」っていうことを凄く言いたいです。学校の生徒もぶるぶる、先生もぶるぶる、研究者も、メディアの人間も、情報の受け手も、市民メディアやってる人も、みんながぶるぶる《共振》を始めると、その先に《協働》が出てくると思うんですよね。
この東大での4時間のシンポジウム自体が、まさにそういう“共に振動する”=《共振》の場だったのかもしれない。詳しくは、主催団体である『メル・プラッツ』のホームページに、「第3回公開研究会報告」というタイトルで、内容がアップされている。