今回は、一見、何の接点も無さそうで、実は繋がっている2つの話題に眼をツケる。
■息子の事故死から10年…スマイルの恩返し
まずは最初の話題、今日から活動を開始するNPO『スマイル横浜マリンクラブ』代表の永井等氏(眼のツケドコロ・市民記者番号№44)にお話を伺う。
――どういう活動をするNPOなんですか?
永井: 難病と闘っている子供達、交通遺児、施設生活を余儀なくされている子供達、様々な障害を負いながら頑張って生活している子供達を、乗船体験にお招きし、スマイルの一時をプレゼントしたいという活動です。横浜・みなとみらい地区水域と、そこに隣接する河川で船を出します。
――どうして、こういう活動を始めようと思われたんですか?
永井: 私は船に関わる仕事を天職としまして、37年間、船一筋でやってまいりました。その船を利用して、何か力になれればということで、始めました。
実は私の息子が、10年前に交通事故で亡くなりまして…。亡くなった息子の友達が、かなり多く私達を支援して支えてくれています。現在でも、年に1~2回私達を呼んでくれて、励ましの会をやってくれて、夫婦共々感謝しております。ちょっとその恩返しを社会に対して…みたいな気持ちもあります。
NPO法人として登録する前から、永井氏は既に時々、いろんな人達を招いて船に乗せ、楽しんでもらっているという。ハンセン病元患者で、今74歳の藤原登喜夫さんもその1人だ。
――お住まいは、以前ハンセン病患者専門の施設だった、静岡県御殿場にある「神山複生病院」というところだそうですね。
藤原(電話): 一般的には、ハンセン病の療養者と言いますとね、何か療養所の中に閉じこもっているというような想像をされる方もいるんでしょうけれども、私個人としては寮に住んでいるような感じで、全く自由な気持ちなんです。
――そこである日、急に「船に乗らないか」という話が来たわけですか?
藤原: ここの病院というのはカトリック経営です。それで、私もちょいちょい教会に出かけておったんです。そこで、シスターも含めて「船に乗らないか」という誘いがありましてね…。クルーザーで、食事をしながら(横浜港やベイブリッジを)見物したんですよ。それはとっても楽しかったですねぇ。(笑い)
――このクルージングは、お勧めですか?
藤原: ええ、それはもう。有難いですよね。
――いよいよ今日から正式にNPOとしての活動スタートということですが、初日のご予定は?
永井: 今日は、障害を持って作業所で働いている方達のグループと、近隣の幼稚園の子供達を船にお乗せし、水上から大岡川の岸辺の満開の桜をお花見する、ということを計画しています。
――今後、このクルーズに参加してみたい人やグループは、どのように申し込んだらいいんですか?
永井: 今作成中のホームページをご覧になって、申し込んで頂けたらと思います。
■人生の御礼に、ワシャワシャワシャ
もう1つの話題は、ローマ法王に謁見して来た、桜井哲夫さん(82歳)という詩人の話。クルーズ体験をした先程の藤原さん同様、この桜井さんも、元ハンセン病の人達が入居する国立療養所に暮らしているカトリック信者だ。
桜井さんは、何故ローマ法王と会うことになったのか? 桜井さんの孫娘のような親友で、バチカンまで付添い、一緒に法王と握手して来たという金正美さん(眼のツケドコロ・市民記者番号№45)にお話を伺う。
――先月14日、バレンタインデーにローマ法王と会えたということですが、どういう経緯で?
金: 桜井さんは、17歳の時にハンセン病の療養所「栗生楽泉園」に入所されたんですが、それからもう60年以上、ずっと療養所で生活をされているんです。本当に長い療養所生活の中で、6畳一間の部屋からほとんど出ずに詩の制作を続けて来られたんです。そういった環境の中で詩が書けたり、あるいは詩を書く心・感性を持てたり、人間性を持てたのは、「カトリックの信仰のおかげだ」と、彼は言っているんです。82歳を迎えて、人生を振り返って、改めてその御礼を申し上げたいということで、ローマに行ったんです。
――信者の方で、ローマ法王にお会いしたいという人は、世界中に山ほどいると思うんですが、どうしてそれが実現したんですか?
金: 桜井さんは、自作の詩集「津軽の声が聞こえる」と、法王に宛てた手紙を添えて、今から3年前にバチカンにお送りしたんです。しかも、日本語では読めないと思って、わざわざ英訳をして、それを製本してお送りしたんですね。普通はそこで、法王からお返事が来るなんて、誰も思わないんですけれど、法王の代理人から感謝状と御礼の手紙が来たんです。それで、不自由な身体ですけれども、勇気を振り絞って「よし、行ってみよう!」ということで、今年実現しました。
――バチカンに行って、法王の謁見の時間帯にその場にいても、普通は遠く仰ぎ見るだけだと聞きましたが?
金: はい、そうなんです。今、一般謁見が、大体1週間に1回、水曜日に行なわれているんですけれど、1回に1万5千人程の方が謁見をすることになるんです。今のベネディクト16世という新しい法王は、不公平にならぬよう、個人謁見を一切なさらないという方なんです。でも、その日はたまたま、祭壇から降りて来て下さったんです!
――その時、桜井さんは、法王に何を伝えたんですか?
金: 法王はまず、最前列に座っている桜井さんの姿を見て、もう何も言わずに近寄って来て、頭をワシャワシャワシャワシャって撫でて下さったんです! (桜井さんの顔は)ハンセン病の病気の後遺症で、眼球も摘出してますし、鼻も崩れてしまっていて、手の指も無いんですけれども、その姿を見て、(法王は)近寄って来て、ワシャワシャワシャっと頭を撫でて下さいました。桜井さんはその時に、たった一言ですけれど、「世界のハンセン病者のために祈って下さい」と日本語で語りかけていました。
本当は、先程の藤原さんのように、ここで電話で桜井氏とお話ししたいのだが、声帯も摘出してしまっており、声もうまく出せないのだという。
――桜井さんは、その出来事の後、いかがですか?
金: 桜井さんは体重が35㎏しかないんです。すごく小柄でちっちゃくて。「35㎏のオレには、とっても背負いきれないぐらい大きな祝福をもらって、今どうしようかと思ってるの。この祝福を一緒に背負ってくれる若い世代を、これから沢山増やして行きたいの」って言ってます。今は、「自分達の体験とかハンセン病の歴史を、小学校・中学校の若い世代に訴える活動を、これからして行きたい」って言ってました。
■差別の根拠法から100年…社会は変わったか?
ハンセン病の元患者達を差別する根拠法として悪名高かった、戦後の「らい予防法」。その前身である「癩予防ニ関スル件」という最初の法律が誕生したのは、1907年3月18日。先々週の日曜で、その法律の制定からちょうど100年だ。法律自体は11年前に廃止されたが、桜井さんや藤原さんを始め、まだ沢山の人達が、現に日々の暮らしを送っている。ハンセン病問題は、決して過去形で語ってはいけないのだ。
金: この間、ある中学校に行った時に、勉強会が終わった後、ある中学生の男の子が1人、私のところに来てくれて、こんな事を言ったんです。「実は僕も小学生の時に、水疱瘡で休んだクラスメイトが、ある日学校に出て来て給食当番になった。その子がよそった給食を、『病気がうつるからイヤだ』って言って、『皆で食べない』といういじめをしたことがあるんだ。僕はそのとき、何の気なしにやっていた。けれど、今日勉強を深めてみると、それは昔の人達がハンセン病の人にやった事と同じ事を、知らず知らずのうちにしてたんじゃないかとふと思って、すごくショックだった」って言ってくれたんです。
私は、その事が、実は1番大事だと思っています。こうした社会問題は(ハンセン病だけでなく)、私達の日常生活の中に似たような事が沢山あって、そういう事にどこまで気づいて行けるかっていう、そこに気づいていくような目を持って行きたいなぁと思ってるんです。
えっ、と思うようなものを遠ざけてしまう構造・心根が、世間にはまだまだ一杯ある、と金さんは言う。
桜井さんとの交流を描いた金さんの著書『しがまっこ溶けた』(NHK出版)を読むと、金さんと桜井さんの間柄は、ハンセン病という存在など全く介在しない、本当に普通の親友同士なのだということが伝わってくる。
――金さんとしては、「ハンセン病」問題そのものには、今後どう向き合って行くんですか?
金: 5月12日(土)・13日(日)の2日間、桜井さんの暮らす「栗生楽泉園」の地元、群馬県・草津町で、第3回ハンセン病市民学会が開かれます。ハンセン病の元患者の方が、この先どうやって生きて行くのか、(その方達の)社会復帰をどう支援していくのか、ということも含めて、療養所の方々と共に、学生さんや私達一般市民が、一緒になって考える学会です。それにぜひ参加して来ようと思っています。
※3年前のちょうど今頃、このコーナーでご紹介した本『証言・ハンセン病/
もう、うつむかない』(筑摩書房)の著者・村上絢子さんも、この学会にパネ
ラーの1人として参加する。
永井: 桜井さんもぜひ、船に乗りに来て下さい。
金: ホントに、ぜひ伺わせて下さい!