新書『報道被害』出版! 著者・梓澤弁護士に聞く

放送日:2007/2/ 3

先々週、岩波新書から『報道被害』(税込価格777円)という本が出た。帯には「今、メディアが本気で取組むべきこと」とある。この本の著者、梓澤和幸弁護士にお話を伺う。

■第1章/報道被害と向き合う

――この本で紹介されている“報道被害”の実態調査の結果から、まず紹介していただけますか。

梓澤: 新聞を半年分、全部コピーを取りまして、実名で出てくる、いわゆる被疑者・被告人と、被害者の方にお手紙を送って、「周りでどんな事が起きてますか?」ということをお尋ねしたんです。大体、全国版(の新聞記事)で見て、半年間で700~800人なんです。その記事が発表された結果、どういう事が起こるかと言うと「近所の人が目を伏せて、口を利いてくれなくなった」とか、子どもが学校で「おまえの親父はこういう事をやっただろう」と、いじめを受けるとかですね。要するに、世間からつま弾きをされる。本当は、捕まっただけでは無罪の推定を受けるはずなんですが、日本という国は「一度お上にヤラレたら、もう終わり」という風潮がありますから。

もちろん、《実際に反社会的行動を行なった》結果としての白眼視と、《報道のされ方》の結果としての白眼視とが混在している点は、留意しなければならない。しかし中には、不起訴となったのに、逮捕時の報道で“クロ”のイメージが流布されたままになってしまうケース等も少なくない。更に問題なのは、報道の結果として白眼視されるのが、加害者側だけではないという現実だ。

梓澤: 被害者の方の側では、被害に遭ったのだから別に悪い事をしていないのに、“見下す視線”と言うんでしょうか、そんな見られ方をするんです。不思議なんですよ―――「私達は安全な場所にいる。あの人はかわいそうね」的な、世間の空気。被害者であるのに、なにか、世間からよそ者扱いをされる、阻害される。

■第2章/松本サリン事件、第3章/犯罪被害者取材

第2・3章では具体例として、松本サリン事件、桶川ストーカー殺人事件、4年前の福岡一家4人殺害事件(中国人の元留学生3人組に有罪判決)の3つのケースについて、報道でどんな被害が発生したかが、かなり詳しく分析されている。その最後に、こんな一節がある。

―――――『報道被害』P.91より――――――――――――――――――――――――――――
私達は、悲惨な事件の報道に接しても、自分には関係ないこととしてニュースをただ消費しているだけかもしれません。また、被害者に何か欠点や責めるべき点があれば、それを糾弾するというような視線を向けてはいないでしょうか。そうした態度や視線は、共感とか、共に生きる、という姿勢とはかけ離れたところにあるものです。犯罪被害者(遺族)に二次被害をもたらすメディアの取材と報道は、実は私達のこうした視線に応えているものなのかもしれないのです。
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ここで言う“私達”とは、視聴者、つまり一般市民だ。

梓澤: 市民の側も、自分の中に湧き起こってくる、「あ、セックス・スキャンダル? ちょっと覗いちゃおう」みたいなナマの好奇心が起こったときに、「そうではない! 私は今どこにいて、このニュースを見てんの?」と(自省・自制することが必要です)。自分もまた社会を作っている構成員として、僕はよくやるんですけど、良い記事を見たら、その報道機関に手紙書きます。「これはおかしいじゃないか」「ちょっとおかしいな」と思ったら、電話します。それに対してまた報道機関側も、批判も賞賛も来たら直ぐそれにレスポンスするような、そういう関係が出来て行くと、僕は、報道っていうのは必ず変わって行くんじゃないかな、という希望を持ってるんです。

これは、私も常々講演などの場で唱えていることで、100%同意見である。現実問題として、全ての手紙や電話に担当記者本人が返事まですることは不可能だが、寄せられた意見を心に留めて、次の取材姿勢に活かすことは、いつでも出来る。

■第4章/報道被害とたたかう

この章の小見出しは、「メディアとの交渉」「仮処分による差し止め」「訴訟」となっており、極めて実践的だ。具体的に報道被害に遭ったときにどうするかが、事細かに書かれている。

――しかし、この本を予め読んでいた人が報道被害に巻き込まれれば役立つでしょうけど、そうではない渦中の人に対して、こういう方法があるというのを伝えるのは難しいですよね?

梓澤: いや、伝えてくれる人が時々いるんです。それがまた、ちょっと面白いパラドックス(矛盾)なんですけどね。よく、被害者や加害者の自宅等の周辺で、皆で本人や家族をわぁーっと取り囲んで、“メディア・スクラム”っていう囲みが出来るでしょう? 僕が20年間、報道被害に遭ったいろいろな家族などから話を聞いていると、その中で何件か、その囲みの中から誰か(記者)が声をかけるケースがあるんですよ。「奥さん、弁護士会行きなさいよ」って。これ、感動的じゃないですか!

実際、報道被害の渦中にある人に、いち早くコンタクト出来るのは、まさに取材者だ。取材者は発生直後からその場にいるので、報道被害対策のノウハウを伝えるには、実は適役なのだ。私も実際、加熱気味の報道現場では、『サタデーずばッと』取材キャスターの肩書きを15分間ほど外して、個人として当事者と“密会”し、メディア対策をアドバイスすることが時々ある。それは決して、《同業者に対する裏切り行為》ではなく、むしろ無用な混乱を収拾し、適正な情報を出しやすくするための交通整理―――つまり《同業者をも取材対象者をも利する行為》なのだ。

■第5章/報道不信とメディア規制

この章では、一般市民の報道に対する不信感がこのまま高まると、「法的に規制されてしまうよ」という警告がなされている。報道の自由を考える市民集会で、ある青年が会場で、こう発言した。

―――――『報道被害』P.137より―――――――――――――――――――――――――――
「報道の自由が危機にさらされているというが、一体マスコミは市民の権利を侵害している事を反省しているのか? とても、今日の壇上の発言を、そのままには受け取れない。」
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――これは、「メディアを守ろう」という方向性の集会に参加した人ですよね。そういう場ですら、こんな声が上がっているんですか?

梓澤: その青年が立ち上がって発言したとき、私はすぐ近くにいたんですが、その発言よりもっとびっくりしたのは、その周りからその発言に対して、拍手がわぁーっと起こったんですよ。

私も、メディアに対する法規制に反対する運動をどう展開するか、というテーマの集会で、同じような場面に遭遇したことがある。どうも、我々メディア側の人間が「知る権利を守れ!」と言うとき、それは《国民の》知る権利ではなくて、《メディア業界人の》知る権利だと勘違いされている節がある。

  梓澤: 僕もそう思いますね。つまり、「本当に私達と同じ所に立ってくれてるんですか?」っていう意味での不信感が、一般国民の側に長くあると思うんです。それを払拭しないと、メディアが政治家の不正や公務員の偉い人の不正を報道しようとする毎に、それを嫌がっている人達は、国民のメディア不信を利用して、「あなた方国民の希望を入れて、メディアをシメてあげましょう」というところへ行っちゃうと思うんですよ。


―――――『報道被害』P.162より――――――――――――――――――――――――――――
報道被害は実に深刻です。それを繰り返させない具体的な方策を生み出すことが何よりも大切なのはもちろんなのですが、しかし、それが一方で、私達の目を塞ぎ耳を閉じる結果をもたらすことがあってはなりません。この点に留意すべきではないでしょうか。
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梓澤: 近代社会というのは、膨大な人口を抱えて1つの国を作っているわけです。その国の方向を出すときに、やっぱり情報が血液のように皆さんに行き渡っていなきゃいけない。民主主義を成り立たせていくときに、メディアっていうのは、その《血管》の役割です。血管を、情報という血液が生き生きと流れていく。血の巡りが良ければ顔色が良くなるように、それこそ「美しい国」になるんじゃないかと、僕は思うんですよ。そうじゃなくて、情報がピタッと止まって、「上で何やってんだか分かんないけど、何となくおかしいよなぁ。だけど、しょうがねぇか」ということだと、それは、市民が本当に主人公の国ではない!

つまり、「知る権利」というのは、社会という巨体に血を巡らせる権利であって、メディアがネタを得るための特権ではないのだ。

■第6章/市民のための報道へ

そして最後の章は、具体的にこれからどうしたらよいかという提言だ。本の帯には、こんな言葉が掲げられている。「とげとげしくない言葉が行き来し、何かを生み出すような関係ができないものか」―――単なる批判本ではない、建設的な提言をまとめるために、梓澤弁護士はいろいろな国を回って報道事情を視察したという。

梓澤: スウェーデン、イギリス、アメリカ、それからオーストラリアに行きました。メディアが自分達で自主的な機関(報道評議会)を作って、報道による被害が起こったときには、それを助けましょう、と。僕が第4章で書いた、苦労して裁判で名誉毀損の回復訴訟をやるのは、単にお金と労力だけではない、凄まじい力がいるんです。それをもっと、メディア側が「私が起こした過ちなんだから、私がそれを回復しましょう」という制度が(それぞれの国には)出来てるんです。

――日本にも、『BRO(放送と人権等権利に関する委員会機構)』というのがありますが、それでは、まだ物足りないですか?

梓澤: 僕は『BRO』を非常に評価しています。「BROがあります。来てください」って、1万件のCMを放送してるんですよ。それによって、実際に何千件という苦情が来て、その苦情を解決することをやってる。ところが、これはテレビ・放送関係の苦情対応だけで、新聞・雑誌という活字については、こうした苦情申し立て体制が出来ていないんですね。それを何とか作って欲しい。それをこの本の中で提言してます。

――著書の中では、「各メディアのトップの決断ですぐ出来る事もある」と、具体例も紹介していますね。

梓澤: 青森放送は、「犯罪・事故の被害者にマイクを向けないように」という、社長の方向性が出てるんです。だから、青森放送はそういう取材をやらないんです。
報道批判はいろいろあって、現場で「行儀が悪かった」とか、確かにそれはそれで批判しなきゃいけないけど、同時にもう1つ、そういう事をやらせてしまっている、リーダーシップを取っているのは社長連中なんだから、そういう人達の舵取りを変えて欲しい、リーダーシップを発揮して欲しい。そうすれば、報道と市民の関係はもっと改善されていくというのが、この本のもう1つのメッセージです。
実は私、20年前から報道被害問題に取組んでますから、(初めの頃)現場で語り合っていた記者達が、そういう(リーダーシップを発揮すべき)幹部になってるんですよ。その人達に、これから僕は会社を回って、この本を1冊1冊お届けしようと思います。

■自分の立場で出来ることを

――梓澤さん達仲間で集まって、弁護士集団としての動きは何か?

梓澤: 『報道被害救済弁護士ネットワーク(LAMVIC)』に、弁護士が集まってます。それから各都道府県に弁護士会があって、人権擁護委員会があります。何か困った事があったら、そこに駆け込んでいただければ、必ず対応してくれると思います。

こうやって、皆がそれぞれ自分の立場で何が出来るかを考えて、動き出すことが必要だ。特に、我々メディア側は、大体批判する役で、批判されにくいからこそ、自分達で「これでいいのか」と常に検証していかなければならない。

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