ジョン・アルパート夫妻、日本の学生達と大いに語る

放送日:2007/1/13

一昨日(1月11日)、エミー賞を15回も受賞している実力派ビデオジャーナリストのジョン・アルパート氏と、パートナーで『ビデオで世界を変えよう』の著者・津野敬子さんが学生達と語る会が、早稲田大学で催された。

■本能で立ち上げ、ストリートで育つ

約35年前、市民メディアの世界的な草分けであるニューヨークの『ダウンタウン・コミュニティ・テレビジョン』(DCTV)を2人で創設し、まだ開発されたばかりのビデオカメラという新しい機械を担いで活動を始めた頃の初期の思いを、津野さんはこう語る。

津野: その頃は、テレビの放送局が3つか4つしかないような時代で、大企業に完全にコントロールされてたわけなんですね。そういう時代、本当に弱者の声っていうのは全然、届かない。何かあれば、大男たちがカメラを持って来て、撮影して、それをニュースで流すみたいな時代に、私達2人の中ではそういう世界に入るなんてことも、敷居が高すぎて考えてもいなかったんです。私達が始めた最初の4年位は、コミュニティーの様々な問題を自分達が撮って、「コミュニティーの人達の生活が良くなるように」と、それを更に彼らに見せてました。
“ビデオで世界を変える”なんて大きな考え、実は無かったんです。何となく本能的に、「皆が自分達でビデオの力っていうものを知ったら、このビデオで自分達の言葉で自分達の世界を語りかけたら、きっと何かが変わってくる」みたいな、そういう本能みたいなことで、みなさんにカメラを持ってもらって、自分たちの話を撮ってもらって、それを流し始めたんですね。

“流し始めた”と言っても、35年前では当然、今のようなケーブルTVも衛星チャンネルも、ましてやインターネットも無い。2人は、小型ワゴン車にテレビモニターを載せ、マンハッタンのチャイナタウンの街角や小さな公園で自作のビデオを上映していた。視聴者は、足を止めてくれる通行人達だから、面白いところでは笑ってくれるが、つまらないとさっさと行ってしまう。面白い作品を作らなければ見てもらえないという環境で物凄く鍛えられた“ストリート感覚”は、今回の講演会のような場でも息づいていた。

アルパート: [英語]例えば私がこう、この会場でこうやって話している間に、客席の側で誰が寝ているかっていうこと、私にはすべて分かっています。それは別に、私にとって差し障りはないんですけれども、「もっとこのプレゼンテーションをどのように面白くしたらいいんだろう」と常に、私は考えています。「歌えばいいんだろうか。あるいは、ここで踊りでも披露すればいいんだろうか」と考えながらやっています。

■《伝える使命》を自分にも相手にも言い聞かせ…

“人が見てくれるものを”と常に意識しながらも、アルパート氏が実際に選ぶテーマは、決して「行列ができるラーメン屋」という方向には流れず、いつも社会派的な直球勝負だった。例えば一昨日の会で披露された、彼らの初期の作品の中には、ニューヨークの庶民が行く病院がいかに設備が劣悪で、貧しい患者達が命を落としているかを告発する作品があった。カメラは救急処置室まで入り込み、患者が死んでしまう瞬間まで映し出している。だが、その撮影には「大いに悩んだ」と津野さんは言う。

津野: (患者が死んでしまう)このシーンの後に家族が来て、皆泣いてるシーンがあったんですね。それを撮っているときに、自分の中で、悲しい家族にカメラを突き付けているということに対して、非常に罪悪感を感じるっていうんですか。こんなプライベートなことに、お父さんが又はご主人が死んだその人たちが泣いているのを撮るっていうことに、すごくこう…。それはいつも取材しているときに感じる―――みなさんも将来(この仕事に就いたら)感じることだと思うのですが―――自分がしていることに対してどこで止めるべきか、どこまで入っていくべきかっていう一線ですね。時には自分自身も感情に流されて手が震えちゃったり、一緒に泣き出したりすることがあるんだけど、そういうとき、「ここでがんばらなくちゃ」っていつも思いました。「これを伝えることは、この話を他の人に見せることは、自分の使命だ。だから、今カメラを突き付けてることは、非常に個人としては申し訳ないんだけど、これによって他の人がこの人達の悲しみに共感してくれれば」っていう風に(自分に)言い聞かせながらやってきてました。

アルパート: [英語]私達はとてもオープンなので、取材相手に対しても、いろんなことを言っていきます。それが、例えば本当に悲劇的なことであって、本当に悲しい事実であったとしても、「この場面が人々に有効に訴えるんだ」ということを、取材相手に分かってもらいます。私の仕事というのは、お医者さんみたいなもので、患者さんに「悪いけど、ここを切ることによって、良くなるんだよ」というのを伝えて、それを分かってもらう。そういうことをします。

取材相手とじっくり話して、彼らにとって(他人に)見せたくないような悲しい場面、プライベートな場面でも、納得してもらって、自分自身にも言い聞かせながら撮影していく―――エミー賞15回受賞というアルパート氏の実力は、こうして取材相手との間に信頼関係を築いた結果、得られたものなのだろう。
アルパート氏は自分の仕事を、悪いところを良くする医者の仕事に喩えているが、今の日本の報道人は、果たして皆が本当に「後でこの人(社会)が良くなるため」と考えながら切り込んでいるだろうか…。

■基本姿勢は、《愛国心》と《恩返し》

アルパート氏や津野さんがカメラを向けるテーマは、次第に、アメリカ国内の問題から海外へと拡大していった。特に彼の名前を世界的に有名にしたのは、数々の戦場取材だ。「世界でアメリカが一体何をしているのか」をテーマに戦場へ行き、時には反米ゲリラ側に従軍したりもして、作品を発表していった。そのスタンスについて、今回の会を企画した『アジアプレス・インターナショナル』の野中章弘代表が尋ねた。

野中: アメリカ人として、アメリカが、つまり自分の祖国が関わった戦争、しかも、おそらく何か不正義の戦争っていうかね、「これは、ここで起きていることは正しくないのではないか。自分の国が行なってることが正しくないのではないか」という現場に行ったときの、ジャーナリストとしての気持ちっていうかね。どういうスタンスっていうか、その時の気持ちをちょっと聞かせてもらえますか?

アルパート: [英語]この(反米ゲリラ従軍)レポートを行なったときですね、沢山の人々が私達に、いろんな事を言いました。その中で、「愛国心が無いのではないか」とも言われました。しかし私は、これは私が考えるもっと高いレベルでの愛国心だと思っています。《国が正しいことをするのを手伝うこと》―――それが、本当に素晴らしい愛国心なのではないかと思います。

これから憲法改定論議が盛り上がっていくであろう日本社会で、メディアの人間達は、彼のこの言葉を重く受け止めるべきではないだろうか。

日本生まれの津野さんも、「自分達の活動は、政府のしてくれたことへの恩返しだ」というエピソードを披露して、アメリカ社会への愛着を語った。

津野: アメリカの社会で、私みたいに無名で、何のキャリアもない人間が作った小さいビデオ作品に対して、奨励金をいただいたんですね。それは、政府からの助成金でした。実はそのとき、2人とも完全にお金がなくて、2~3年間、自力でウェイトレスやタクシーの運転手をしながらやっとビデオやってて、「もうやめよう」って本当は言ってたんです。もう2人の経済力ではとても続けるのは無理だったんです。貯金通帳には18ドル位しか残ってない状態で、「どうやって次の家賃を払うか」みたいなときに、初めてそのお金をいただいて、多分2000ドル位だったと思うんですけど、救われたわけなんですね。それで私達の人生が、ビデオを一生やっていくことになるとは、夢にも思わなかったんですけど、私達は『DCTV』を作りまして、無料のビデオワークショップを始めました。
誰かが助けてくれたので自分の現在がある―――それが自分達の感謝する原点です。この(私達に)与えられたチャンスっていうのを、他に必要な人達にもあげたいっていうのが、非常に前提としてあって。特にお金が無いマイノリティーの人とか、なるべくそういうチャンスのない人に来ていただいて。どうやってフィルム制作やビデオ制作をするか、本当にこれがどういうものかっていうのをちょっと味わってもらう位の感じのコースなんですけど、それを無料で、20年間やって。「フィルム制作をしたいけど、大学に行くお金がない」「習うだけでも数千ドルかかる」みたいな時代に、入口を低くして、かなり多くの人に来ていただきました。

政府から受けた恩義を、少数派の国民たちに、2人は恩返ししていった。私がここ6年ほど無償で取り組んでいる市民メディア・アドバイザーという仕事を、遙かに本格的に、20年も続けてきた彼らには、本当に頭が下がる。

■今再び、《先駆者》になれるとき!

この会の質疑応答で、印象に残るやり取りがあった。

学生: 個人的に映像を作って、誰のチェックも受けずにインターネットに流すということが、今流行ってますけども、それについてどうお考えですか?

アルパート: [英語] 素晴らしいと思います。あなた達の年代が、このインターネットをどういう風にコントロールして行くのかというのを決める―――そういう時だと思います。もちろん大企業は、インターネットに流れているものをコントロールしたいと思いますし、すべての人々を《消費者》として扱いたいと思っています。今のこの時点というのが、あなた達にとって、戦うチャンスだと思っています。
ビデオがもともと出たときに、私達はいわゆる《先駆者》と言われていました。だから、私達は成功することができました。今の時代では、インターネットというのがだんだん広がってきて、あなた達が《先駆者》になるチャンスというものを持っています。今、大きく出来ている波の上にそのまま乗っかることができれば、そのままその大きな波は、あなた達を運んでくれるでしょう。

《先駆者》となって、インターネットの大波に乗れ―――まさに文字通りの“ネット・サーフィン”だ。アルパート氏のこの言葉は、まだ芽生え始めたばかりで、ヨチヨチ歩きの日本の市民メディアへの力強いエールになるだろう。映像版市民メディアを世界で最初に始めた人の1人が、津野さんという日本人女性だったという事実にも、大いに勇気付けられる。
以上は一昨日午前中の学生達との対話の模様だが、引き続き行なわれた午後のシンポジウムも、会場の大ホールは、アルパート氏の話を聞きたい日本人観客で埋め尽くされた。この場に集った人達は、これからそれぞれに何を始めるのだろう。どうか、耳学問でオシマイにはなりませんように!

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