明後日、60回目の終戦記念日がやってくる。
台湾南東部の都市・台東市の郊外にある、山岳民族の村。そこで生まれ育ち、今は畑仕事などをしながら1人で暮らす85歳の陳徳儀さんは、流暢な日本語で、私の訪問を歓迎してくれた。60年前、陳さんは、台湾人山岳民族で組織された日本軍「高砂義勇隊」の一員だった。南洋の激戦地でかろうじて生き残った仲間達と、5年前、初めて日本を訪問した時のアルバムが、自宅にあった。
- 下村:
- よろしいですか、これを拝見しても。
いろんなものがありますね。この写真はなんですか?
- 陳:
- これは、平成12年に招待されて、日本に行ったんです。
- 下村:
- 『台湾高砂義勇隊 訪日記録』。…この「岡田耕治」というのは?
- 陳:
- 日本人が岡田耕治、台湾人が陳徳儀、原住民がクラサイ。3つの名前を持っています。
- 下村:
- 60年前までは、「岡田さん」だったわけですね。
- 陳:
- そうです。
台湾人名、山岳民族ピューマ族としての名前、そして日本人名。3つの名前を持つ陳さんは、太平洋戦争が始まって日本軍に入るまでは、地元の小学校の先生だった。
- 陳:
- 「朕惟フニ 我カ皇祖皇宗 國ヲ肇ムルコト宏遠ニ」…私覚えていますよ、まだ。
「徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」って。教育勅語。
- 下村:
- それも子供達みんなに?
- 陳:
- 教えました。そしてこれを暗記までさせました。
- 下村:
- みんな、全部暗記しました?
- 陳:
- みんな、教育勅語まで教えた。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ 以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」って。教育勅語。
- 下村:
- 今でも全部、覚えてらっしゃるんですね…。
- 陳:
- ハイ、覚えています。
「皇民化教育」。陳さんは、自分自身がその教育を受けただけでなく、次の世代の台湾の子供達に、一生懸命、それを叩き込んでいたのだ。今から110年前(明治28年)から太平洋戦争が終わるまで、50年間も日本の統治下に置かれていた台湾では、それが当たり前の姿だったのだ、と陳さんは言う。
- 下村:
- 学校で教えたのは、そういう「日本人の誇り」だけですか? それとも高砂の「民族の誇り」みたいなものも教えられたんですか?
- 陳:
- この民族の事は教えていない。特に日本語ですね。国語読本といって、みんな日本文でね。
- 下村:
- たとえば陳さんの場合、「ピューマ族の誇り」というのはお持ちなんですか?
- 陳:
- 教えていない。みんな日本語で教えている。
- 下村:
- 心の中ではどうでした? 高砂の誇り、ピューマの誇りみたいなのは?
- 陳:
- なかった。当時はみんな日本語だからみんな日本人だ。みんな、日本人に切り換えてしまったんだ。
しかし、普段はそんな状況に慣れているにせよ、いよいよ戦争に直面しても尚、自分達の民族意識よりも、心から「日本の為に」という気持ちで、命がけで戦えるものなのだろうか。
今、「高砂義勇隊」の遺族の一部は、「日本の為に戦わされた父や祖父を、勝手に日本の靖国神社に祀るな」と、抗議をしている。その一方で陳さんを含む少なからぬ生き残りの兵士達が、当時は皆自発的な志願兵だった、と証言している。
強制か、自発か――どちらが歴史的事実で、どちらが誤りなのか?
実は、どちらも誤りではない《真実の二面性》であったことが、戦場での記録を綴った陳さんの
手記の、この一節からも読み取れる。
【手記より】 日本は明治28年より、台湾を領有した。その時から、日本人1等・台湾人(漢民族)2等・高砂族3等国民だと、その地位きわめて不平等であった。
- 陳:
- 高砂族をみんな苦力に出して、奴隷に扱って…。「俺は、日本人並みに行こう」って。
- 下村:
- つまり、日本人並みの、兵隊のようなことをすれば、奴隷扱いされないと?
- 陳:
- 兵隊になれば、日本人。兵隊になれば、何と言いますか、威張ったもんですよ。
そして、私は日本の兵隊に行って、日本のために働いた。
- 下村:
- その頃は、とてもたくさんの若者が志願したと言う風に聞いていますが、みんな同じような理由だったのでしょうか?
- 陳:
- そうです。志願は、いま話を聞くと、強制的に兵隊に出したとか、言っていますが、実際は、そうじゃない。みんなこれは、志願です。日本のために、みんな志願して行った。
本当は日本人が仇なのに、どうして、喜んで日本のために働いたか? それだけ日本は、この高砂族は皇民化教育を受けて、そして天皇陛下のためにみんな、お国のために尽くすという、この精神でもって、鍛え(られ)たわけですよ。
つまり、確かに《志願》だったけれども、その背景には、日本兵になることでやっと3等国民扱いを脱することができる、という思いがあった。…これは、そういう時代を作った統治者・日本による事実上の《強制》みたいなものだ、と考える遺族がいても、無理な解釈とは言えまい。
個人の《自発的志願》でもあり、同時に時代の《強制的誘導》でもあった。
――先日、まずTVでこのリポートを放送したところ、私のこの解説に対して、視聴者から何件かの強い抗議が届いた。「なぜ本人が志願だと言っているのに、下村はそうやって捻じ曲げて伝えて、日本を悪者にしたがるのか!」と。しかし、コインの両面を見つめることが“捻じ曲げ”だとは、私は思わない。
こうして、念願かなって勇んで日本軍・高砂義勇隊として戦場に赴いた陳徳儀さん。所属した部隊 の生還者は、半分以下だったという。なぜ自分は戦死せずに生き残れたのか? 陳さんは、こう 力説する。
- 陳:
- 精神で行く!精神! 精神が強ければ、生きて帰る。弱いなら、向こうでさよならする。
- 下村:
- それは、何精神ですか?
- 陳:
- それは、日本精神だよ。どんなんして私は戦争するか?できるだけやりましょう。天皇陛下のために、お国のために日本の国のためにやろう!この精神があって帰って初めて、生きて帰ったんだ。
- 下村:
- お国のため、日本のためと考える時に、台湾のためということはあまり意識になかったものですか?
- 陳:
- いや、それもそうです。けれども、それは、小さい。私のお母さんは小さい。日本の国が大きい。天皇陛下がもっと大きい。
こうして戦後、やっと故郷の村に戻った陳さんだったが、そこにはもう、出兵を祝ってくれた時の空気は全く無かったという。独立した台湾社会で、“日本の手先”として肩身の狭くなった陳さんたちは、ひっそりと暮らすことを余儀なくされた。そして御存知の通り、日本政府からも、「もはや日本人ではない」ということで、軍人恩給などは1円も出なかった。
- 陳:
- 自分の考えでは、私はこの、中国に背いた形になる。からして、これはもう、自分で引っ込んで。日本からは、「ありがとうございます」も何もない。まあ、そうです。私は、「日本人から棄てられた」と思ったけど、やっぱり、何も日本からくれとは言わないよ。要求しない。
今でもそうですよ。私は好きで兵隊になった。喜んで志願して行ったんだから、まあ、お国のために働いたのは間違いないけども、負けて、「負けたから、俺に賠償金くれ」というのは、そんなことは言えないよ。
ずっと後になって、日本政府は、台湾人の戦死者遺族への弔慰金や、負傷者への見舞金支給、未払いのままだった保険・貯金などの返還措置を行なった。陳さんにも請求権はあったが、「わずかばかりの金額を受け取っても仕方ない」と、ついに手続きをしなかったそうだ。
最初に御紹介した、あの5年前の日本訪問の時のアルバムをめくりながら、陳さんは、その時に出会った日本人たちの印象を、こう語る。
- 陳:
- 日本人の心は、温かいね。とても親切にしてくれた。日本人と会話すると、とても心が温かくなる。
- 下村:
- 靖国神社にいらっしゃったときは、どんなお気持ちでしたか?
- 陳:
- 靖国神社は、もう本当になんと言うか、心がバーっと上がって、本当、私の兄弟はこんな立派な社に祀ってあるなと、日本人にありがとう…。
- 下村:
- 今、あえて基本的なことを伺いますけど、今、陳さんの心は、なに人ですか?
- 陳:
- 私は日本人よ。
- 下村:
- それは変らず?
- 陳:
- わしは、台湾語も中国語も使えない、日本人。私は日本人よ。
この言葉の表面だけを聞いて、あなたは単にホッとしますか? それとも、《時代》というものの力の大きさを感じて、立ちすくみますか?