高校教師が作った未来劇、青山で開演

放送日:2005/3/19

今回は、東京・青山円形劇場で来週水曜(3/23)から上演される、高校の国語の先生が作った演劇に着目する。
2005年にある学校で起きた凄惨な事件が遠い引き金となって、はるか未来、30世紀の世界で若者達の冒険物語が始まる、という壮大なストーリー『ヘル・ファイター』を作った、西森英行さんにお話を伺う。

西森さんが教師になる以前に結成した劇団「InnocentSphere」にとって、青山円形劇場へは初進出。プログラムに掲載されているストーリーを紹介すると・・・、

遥か遠い未来の果て、27世紀の大戦によって死の荒野と化した地球。わずかな陸地は無数の都市国家に分断され、国々の間では絶え間ない争いが繰り返されていた。
世界のはずれ、とある貧しく小さな国に住む少年ケイは、ある日、古代の遺跡から発掘された一冊の古文書を見つける。『2005』と書かれたその本には、かつてこの世界を生きていたひとりの少年が語る、争いも憎しみも無く、幸福で活力に満ちた、当時の世界の様子が鮮やかに記されていた。
やがてケイは、本に書かれた希望の世界を目指し、未来を変えるべく壮大な旅にでる。

30世紀を生きる主人公の若者ケイは、
「世界は、自分の力で変えることができるんだ!」
「これは、遥か千年の海を越えて俺に宛てて届いた手紙だ。俺は、こいつのことが知りたい!」
と叫び、希望に満ちた世界を夢見て、古文書を書いた人物の子孫を探す旅にでる。
リハーサルを拝見したが、ケイが仲間達の協力や古文書の希望の言葉に助けられながら、激しく対立する国々の国境を次々と越えるときの大立ち回り、円い舞台を縦横無尽に走り回るアクション満載のエンターテイメントの空気が伝わってきた。

興味深いのは、「希望に満ちた世界」として2005年が描かれ、それには、ある学校で起きた凄惨な事件がダイレクトに関係している、という点だ。

−ここには、西森さんの「教師」と「劇作家」という二つの職業が相互に影響しあっているんですか?

西森:
世代の違う子たちに届く言葉は何なのか。逆に、今の子ども達にとってリアルな言葉って何なのか、っていうのを考えていくと、ふたつの職業は、かなり大きく影響をしあっていると思いますね。
演出の勉強をしているとよく出てくるんですけれども、役者の台詞をいう「スタニスラフスキー・システム」というテクニックがあって、3種類の言い方がある。「第1の輪」は自分一人の独白、「第2の輪」は一人の相手に対しての言い方、「第3の輪」は観客席に向かっての言い方で、こうした違いを役者は意識して使わなきゃいけないんですが、実はこれ、学校の先生が授業をやる際に、持っているとすごく活かすことができる技術なんです。やっぱり聞いている人って同じ刺激のままで聞き続けると、飽きてしまったり聞かなくなったりするんですね。それを、ときどき一人に対して言ってみたり、あるいは自分の独り言さえも混ぜてみたりすると、聞いてくれるようになる。

−教室という閉じた空間が、ちょうど小劇場のようなサイズの感覚なんですね。舞台同様、教室にも“外の風”を持ち込んでいるんですか?

西森:
かなり積極的に外から教材を持ってきて、授業の3分の1から半分くらいはそれをやって、教科書の内容をやって、というふうにやっているんです。例えば、下村さんの書かれた本や記事を授業の内容とリンクさせてやらせていただいたり、『報道は何を学んだか』(岩波ブックレット)を紹介して、実際にこんなことが起こっているんだとか、こんな体制で報道は行われているんだかいう話をしてみたり。『違う人間なんですよ』という詩とリンクさせて、(オウム教団を内側から撮った)森達也監督の『A』という作品を授業で取り上げたり。これはすごく考えさせられましたね。

−子ども達が西森さんから得るものはすごく大きいでしょうね。しかし同時に、逆に西森さんが子ども達から感じとっていることもあるのでは?

西森:
今、高校生はみんな携帯電話を持ってて映像もみることもできるんですけど、イラク戦争の人質殺害事件のときに、授業に行ったら生徒がなんかぶつぶつ言ってるんですね。で、何かなと思って聞いてみたら、香田証生さんが殺害された現場の、その瞬間の映像を携帯電話でキャッチすることができて、それをみんなで回して見ることができて・・・。見たら見たでみんな後悔してるんですけど、そういうことができてしまうという現実がある。だから、《見なくてもいいものを見られてしまう》環境もあるっていうのを、すごくリアルに感じるところでもありますね。
今、先生もそうですし社会的にもそうですけれども、世代差のなかで新しいルールを作っていかなきゃいけない。そこで暗中模索しているところに、さらにそんな状況が入ってくると、じゃあどうしていこうか、というのを一緒になって考えていかなきゃいけない。そんな問題がすごく多いですね。

−ストーリーのきっかけとなる物語上の学校での凄惨な事件は、大阪での池田小事件(男性が校内に乱入し、児童8人を刺殺)や、寝屋川小事件(17歳の卒業生が、母校を訪ね教師を刺殺)で実際に起きた事とオーバーラップしますね。

西森:
寝屋川の事件がちょうど今回の脚本を書き上げたときに起きたこともあって、すごく悩んだりもしました。毎回作品を書く度にその時代のニュースとリンクしてしまうところがあって、慎重になる部分もあるんですけれども、逆にそこから普遍的なものがくみとれればいいかなと思う部分もあったんですよね。

−虚構の世界の物語に、現実がすぐさま追いつき追い越していってしまう。それでも西森さんは《今》を描こうとし続けているわけですよね。

西森:
今、ものを書く人、特に演劇なんかは現代性がそこに反映されるので、作家さんや作り手の人達はすごく困っていると思いますね。9.11があったりオウムがあったりしたときに、どれだけ表現者がショックを受け影響され、かつ絶望したか、表現というものを考えたか、というのはリアルに感じますね。
僕らはもともと始めたときからエンターテイメントとしてお芝居をやりたいと考えているんです。そのなかで、僕らの個性とは何かを考えたときに、どんな架空の作品を作ったとしても、なにかしら現代の空気が入り込んでいる、というような作品を作っていきたいと考えていて、そこはもう《闘い》ですね。

−報道の世界も「現実を描く」という点では共通していますが、異なる「メッセージの伝え方」がここにはありますね。

西森:
僕は僕の立場で何ができるのか、というスタイルでやっているところがある。今のお芝居の流行として「現代の絶望を切り取っておわり」、というスタイルが多い。もちろんその絶望がリアルにあるのはわかるんだけど、じゃあ、その上でなんなんだ、それでおわりじゃないだろう、というようなところを、さらにもう一歩描いていきたいというのが、この作品でも強くあります。
だから、「人間をつきつめて、つきつめて、つきつめていくと最終的に何が残るのか」と、「それでも何故あなたは前に進み、あなたは朝目覚めて、これから生きていくのか」というところを、毎回あぶりだせればいいなというのが、作品を作るうえでずっと考えていることですね。

−教室の先生と生徒の間に限らず、社会全般で「コミュニケーションが成り立たなくなっている」と言われていますが、そうした状況へのチャレンジともいえそうですね。

西森:
学校という場でも、一昔前の先生や親は偉いという建前的な口上が一切通用しないような状況なので、そういうなかでルールを作り合わねばなりません。「こうなんだぞ」と《教える》というか《教授する》という形が、そればかりではあんまり有効ではない時代なんだということを強く感じてもいます。むしろ一対一だとか生身に近い形で、「まあ、そうはいってもさあ」といったところ、内面的な部分を、対話しながらお互いに作っていく。「僕も分かんないんだよ。教えているけれど、ここで誰がどう考えたかは分からないんだよ。でも、それを一緒に考えていこうよ」と。
ある意味では、お芝居を作る上で役者と演出家がやっていく対話であったり、演者とお客さんがやっていく対話と同じようなやり方で、「こうだ」という教授の仕方じゃない伝え方っていうのを、これから教育現場でもやっていけるといいじゃないかとすごく思いますね。
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