このコーナーも年内あと2回という事で、今回は年末スペシャル企画。放送の仕事をしていると、「せっかくいいインタビューが出来たのに、番組時間の制約でオンエアできずじまい」ということがよくある。今回はそんな中から、《今年涙を飲んでカットした、一番心残りな幻の爆笑インタビュー》を、復活させて御紹介したい。アテネ五輪テコンドー日本代表の岡本依子選手と、そのお父さんのお話だ。
岡本さんは、競技団体の分裂で一時はオリンピックへの出場が危ぶまれたが、「なんとか行かせてあげて」という署名が全国から9万5千人近く集まるなど、周囲の応援が空気を動かし、特例として個人資格での参加が認められた。
しかし、アテネでの結果は残念ながら初戦敗退。前回のシドニーでは銅メダルを獲っていただけに、ガッカリした人も多かっただろう。
その後どうしているかなと、10月中旬、『筑紫哲也NEWS23』内コーナー「それから七十五日」の取材で会いに行った。
本人は気持ちの切り替えができていて、持ち前の明るさとひょうきんさで、実に楽しいインタビューになった。しかし署名してくれた人達への感謝は忘れていないし、期待に応えられなかった事を申し訳ないとも思っているという。
取材の中でも、岡本さんが母校の小学校の朝礼に呼ばれ、子ども達の前で「メダル獲れなくてごめんなさい」と言ったところ、最前列にいた女の子が「気にせんでええわ」と明るく声をかけるという場面があった。そのやりとりを目の当たりにして、彼女と周囲の人の関係が象徴されているように感じた。
オンエアは出来なかったのだが、この時の取材では、署名運動を中心となって盛り上げたお父さんにも、インタビューをさせていただいた。ところが、“熱血スポーツ父さん”から感動秘話が聞けるかと思って行ってみたら、実際は正反対の“脱力父さん”だったのだ。
まずは、娘=岡本依子選手が語る父親像から。
- 岡本:
- お父さんは、ほんと力の抜けた、仙人みたいな人で。「家族みんな幸せやったら、他の事はええやん」みたいな感じの…。私が小学生の時とか、こっちはお父さんの事「すごい人」って思ってて、お父さん本人も「自分は走るの速い」とか言ってたのに、町内のマラソン大会で、めっちゃベベタ(ビリ)走ってたり。しかもそれは、一生懸命やってるんじゃなくて、どーでもいいんですよ(笑)。「こんなんで勝って、どないすんねん」みたいな感じでベベタ走ってるんです。子供にしたら速く走ってほしいんですけど、お父さんはそんなん考えないで、適当に走って、それでベベタの賞品もらって。一生懸命やらない人っていうか(笑)。仕事でも、工場で働いてるんですけど、いっつも喫茶店とかに休憩に行ってて。職場の人みんな「岡本さんが働いてるとこ見たことない」とか言ってるんですよ。
それが、署名活動の時に初めて、テレビで見たら、怖いくらいに…。
今年(2004年)の3〜4月にかけて、岡本選手の出場が一番危ぶまれていた頃、TVニュースに映る父・浩さんは、ベベタどころかまさに先頭に立って、街頭で署名集めの鬼と化していた。
そこから考えると、どうしても依子さんの話が信じられなくて、お父さん自身にもインタビューをお願いした次第だ。岡本家は、1階が小さな町工場、2階が自宅になっているのだが、依子さんに2階で話を聞いた後、すぐに狭い外階段で1階に降りていって、仕事中のお父さんを訪ねた。
−さっき依子さんにお話を聞いたら、「あんなにお父さんが一生懸命なの初めて見た」って…
- 父:
- はっはっは(笑)。まぁ、たいがいは仕事してないって評判なんで、はっはっはー。適当に、朝10時頃になったらコーヒーブレイクに出掛けたりとか、夜もそんなに遅くまで残業もしないしねぇー、のんびりやってる。
今まで、子供に何かやってやるとかそういう事はなかったですね。「やめとけ」とかってブレーキをかける事もなかったし、逆に、手伝うとかアドバイスを与えるとか、そういう事もなかったです。今回(アテネ五輪出場)の場合は、依子の努力だけではどうしようもない問題であったという事と、納得いかないって言うかね。そういうの自分自身も感じてたし。
−アテネが終わって、今あの一連の出来事を振り返って、どう思います?
- 父:
- まぁ、そうですね、ああいう事がなければ、私は一生、“怠け者の何もせん父さん”で済んだやろな(笑)。1回だけでも、こういう事もあるんだなって。私は普段仕事でも、いい加減で「根性」とか「努力」とかとは縁の遠い生き方をしてますんでね(笑)。
「普段は余計な力が一切入っていなくて、ここ一番で瞬発力が出る」というのが、格闘家の素質になっているのかもしれない。
しかし、結果としてはアテネで初戦負けという現実に直面し、これからはどうしていくのか、2人に語っていただいた。
- 父:
- メダルを目指して、メダルを獲って来てみんなに喜んでもらうっていう事で、アテネに行って、でもそれが叶わなかった。こういう事の方が、現実の中では多い事です。その時は、残念というか、気持ちが沈むという事もあったと思うけど、(依子は)冷静にすぐ立ち直って、どうしてそうなったか、自分の状況を反省しているというか。ああいう結果になっても崩れなくて、今の自分では十分でない、もっと自分を高められる可能性もあるって信じているから、私や家内は「やったらええやんか」って見守ってます。
- 岡本:
- 夢を諦めたらアカンっていう事を、お父さん(が署名を集める姿)とかから教えてもらったし。まだ《一番》になってないんで、北京五輪でとは言わないですけど、絶対に世界で一番になるために、練習したいと思うんですよ。
文字にすると、熱く力の入った発言に見えるのだが、インタビューではお2人とも、あくまでユル〜く、味のある口調で語っていた。
ところで、五輪出場ピンチ騒動の原因となったテコンドー団体の分裂問題だが、今もまだ当時と同じく、岡本選手が所属する「全日本テコンドー協会」と、「日本テコンドー連合」に分かれたまま、一本化できずにいる。
そんな状況が続く中で、アテネ後、岡本さん自身に大きな変化が起きた。今までは選手としてテコンドーそのものだけに没頭していたが、「偉い人任せでなく、自ら解決に努力していこう」と、この組織問題にも主体的に関わっていく姿勢に転換したというのだ。
この話は『それから七十五日』でも少しお伝えしたが、より詳しく御本人の思いをご紹介する。
- 岡本:
- 今までは、そういう“政治”はあんまり好きじゃないって言うか、面倒くさいっていうか。職人みたいなところがあって、「テコンドーを極めれば色んな事が学べる」って信じてたんですよ。
でもやっぱり、《社会》があって、その中でテコンドーをやってる訳だから、そういう部分に関しても、自分がやっていかな、あかんなぁーって…。「環境が悪いな」とは前から思ってたけど、結局、自分が何もやってなかった訳だから。人がいて組織が動いていくと思うんですけど、そこに自分も参加せな、あかんなと。選挙の投票に行かなあかんのと一緒だと思うんです。
具体的には、彼女は現役選手としては異例なことに「協会」の理事に就任し、この組織問題に関わり始めた。
インタビューしたのは就任直後の時期だったので、新人理事としての抱負を尋ねたところ、こんな答えが返って来た。
- 岡本:
- 「自分は組織を良くするために何かやりたいんや」って言わせてもらったら、聞き入れられて、理事に入れてくれはったから…。そこで何が出来るかは自分が努力していかなあかんと思うんですけど、その機会を与えてもらった事はすごい感謝してます。
「みんなテコンドーが好きなんやったら、一緒にやっていくうちに仲良くならへんかなぁ」って思うんですけど。一番最初にルール作らないとダメですよねぇ。
なんか、「ケンカはしない」とか(笑)。
今後のテコンドー界のビッグ・イベントとしては、4月の世界選手権がある。現在、その出場選手を決める選考会を早く開かなければいけない段階なのだが、アテネの時と同じく、団体のゴタゴタでなかなか進んでいない。そんな中、理事としての岡本さんは、選考会のお知らせや大会要綱をパソコンで作るなど、極めて事務的な部分から自分でやっている。やっと選考会の開催日が2月12日と決まったのだが、東京の大きな体育館などは既に空きがなく、大分県にやっと会場を見つけて、そこで開催される事になったそうだ。
肝心の競技の方についても、選考会のレールをきちんと敷いた上で、年明け後にアメリカへ渡って本格的な練習に参加し、再び「トップを目指す」という事だ。