新潟中越地震から丸3週間が経った。地震のような広域災害では、テレビの中継などでしばしば目にする《有名被災地》と、あまり報道されない《無名被災地》とに分かれがちである。今回で言えば、山古志村などの《有名被災地》以外にも、車道が通れなくなり、地震が起こってから本格的な帰宅が出来ずにいる人達の地域もある。今朝は、その中から、小千谷市の塩谷地区に着目したい。
おととい(11月11日)、閉鎖していた道路が一部復旧し、塩谷地区の住民に初めて時間制限付の一時帰宅が認められ、大勢のボランティアも同行した。そのボランティア・チームのまとめ役の吉村誠司さんに伺う。
−塩谷地区といえば、小学生3人が家の下敷きになって亡くなったというニュースが流れた場所ですよね。
- 吉村:
- 山を1つ隔てて反対側が山古志村で、その南が、震度7を記録した川口町。まさに、被災地のど真ん中に位置する山奥の地域です。
−その後、あの地区は、どうなっていたんですか?
- 吉村:
- 塩谷地区につながっている4つの車道はすべて土砂崩れで、全然入ることができない状況が続いていました。徒歩でも、かなり危険が伴うということでしたが、災害対策本部からOKが出たので、一度だけ調査隊として塩谷地区の数名が現地入りしました。その後、地区の方々が一致団結して塩谷地区に帰り、必要な荷物を出そうということになり、おととい(11月11日)ボランティアと一緒に入りました。
−実際、現地に入って、吉村さん達はどのようなボランティアをされたんですか?
- 吉村:
- 避難勧告地区なので、普通のボランティア活動ではありません。全壊家屋から、瓦をはいで、「多分、この辺りにこんなものが埋まっているだろう」と予想し、チェーンソーで木を切って、中に入ります。屋根を壊して、梁を切って、まさに“宝物を引っ張り出す作業”なんですね。で、その外では、引っ張り出した物をバケツリレーのように運び出します。時間が限られていましたので、その中で、どれだけ集中して出来るかが重要でした。
そういう(木を切る)作業に慣れた方に来てもらいたかったので、村おこしのために、自分達でチェーンソーを使ってログハウスを建てたりしている長野のりんご農家の方7人に来ていただきました。まさに、木の扱いについてはプロです。その方達にチェーンソーを持参してもらい、最前列でガンガン切ってもらいました。
それから、湯沢の温泉旅館組合から声をかけてもらって、建設関係の人にも入ってもらいました。短時間決戦ですので、それだけ作業の出来る方44〜5名集めて、入りました。
余震が続いていたため、被災者の方達は、自分の家から何も持ち出せていなかったんです。家の1階部分がぐしゃっと潰れて、瓦だけが目の前に広がっています。2階建ての家も、1階を押し潰して道路に出てきてしまっているんですね。そのような状態の家から、「何を取り出しましょうか」と尋ねると、「まず、仏壇、位牌、写真、そして、印鑑などの貴重品を出してもらいたい」と。最後に、亡くなった子供たちの遺品を一生懸命出す作業が続きました。
一緒にみんな、泣いていました。ボランティアの人達がね。瓦礫の中でね。
私も、子供が2人いる身なので、地区で子供3人を亡くなってしまった悲しみは計り知れません。まさに、宝物ですから。子供たちがこの場所で亡くなったというのを目の前にした時、本当に無念だったです。お父さんが最後までこだわったのは、男の子が持っていた野球のグローブだったんです。それが出てきたときには、「本当に、これでもう1回、キャッチボールをしたかった」って言っていて、僕も一緒に泣いてしまいました。私、この話を思い出すと、また涙があふれ出てきてしまうくらいの状況ですけど。本当、辛いですよ。あの地区の人達はね。
−今回の地震は、阪神大震災の時と違って、余震が本当にしつこく続いていますから、そのような作業も本当に怖いですよね?
- 吉村:
- そうですね。今、小千谷市をはじめ、災害ボランティアセンターでは、「家に入る」という作業にはボランティアを派遣できない状況にあります。僕は、神戸の地震でも、災害が起きた直後に入って、まさに崩れている家から(被災者の大切な物を)運ぶ作業をしました。解体業者の方々は、どんどん早く作業を進めたいところなんです。でも、(僕のような)ボランティアが入って、「待ってくれ!今、宝物があるんだ!」と言って、ヘルメットをかぶって、そこにもぐって運び出したんですよね。
私達が行かなければ、被災者の方が、怪我をしていても、取りに入りますから。それを何とか私達の力で取り出したい。神戸の経験がある人たちが、そこにもぐって行きましたね。私も免許を持っていますので、チェーンソーを持って、ヘルメットをかぶって全壊家屋に入りました。
−公式なルートで頼むボランティアは、今回はまだ派遣できない状態だから、本当にもっとボランタリーなボランティア、要するに、個人の判断で参加した人達って事ですね?
- 吉村:
- 今回に関しては、ボランティア保険についても、適応が難しい、という面も有りました。入る前に、今回に限っては自己責任で作業をやれる人達ということで、皆で話をしました。それによって、皆も、「よし」と身を引き締めて活動が出来て、まったく事故も怪我もなく無事終える事が出来ました。
災害対策本部やボランティアセンターに登録して、そこから仕事を割り振られるという基本形から外れた、言わば“コントロール外”のボランティア活動。万一事故が起きた場合のことを考えると、こうした“意気に感じた”タイプの行動の是非は議論が分かれるところだが、吉村さん達は、そうしたリスクも十分考慮に入れて、覚悟を決めて、特殊技能を持った人達だけでチーム編成していったわけだ。誰もが気安く真似をして良い話ではない。
−今日以降も、ボランティアとして塩谷地区の皆さんに関わっていくのですか?
- 吉村:
- はい。本当に、地区の方々は、この日を待っていましたから。それまでの3週間、避難所で心配でしょうがないんですね。「崩れた49〜50世帯の半分以上は、住めない状態だ」と地元の人が言っていました。人が住んでいない家にこのまま雪が乗ると、どうなるかってよく知っているんです。それが、分かっているだけに、歯がゆくて、人間関係もだんだん悪くなってきたり、風邪を引いたり…。少しでも大切なモノを持ち出せれば、インフルエンザが流行っている避難所を離れて、どこかに休みに出かける事もできるんですね。
地区の方たちは、「雪が降る前に、もう一度現地に入る事が出来ないか、再交渉してみよう」と話しています。仮設住宅は、早くても今月末からの着工なので、正直言って、間に合うと思えないんです。夕べ、地区の方から「もう少し、荷物を運び出したい、雪囲いも全然終わっていないので、地区に入れる日をつくりたい」という話がありました。
今回の地震が起こる1週間前、私は台風23号の被害を取材中に、川の決壊で町の大半が水没した兵庫県豊岡市で、吉村さんとバッタリ会った。ほとんど冠水してしまった町で、自分の持っているカヌーを引っ張って救援活動をしていたのが、吉村さんだったのだ。そこで話をしていたと思ったら、あっという間に転進して、今度は新潟に行っていたわけだ。
- 吉村:
- あの時、やっと2日目に水が引いて50センチくらいまで下がったときに、下村さん達とお会いしたんですね。その時、実は、孤立している家の中でお年寄りの方が倒れて、私が救急車を呼びました。しかし、水位が50センチのところに、救急車は入ってこられないし、全国から来た救急隊も帰ってしまい、ゴムボートもない状態でした。そこで、4輪駆動の赤十字の救急車両で入って来てもらって、お年寄りの方を運んで、僕はその車を冠水地域の外まで運転する事になったんです。
その赤十字の方が必死に心臓マッサージをして、外で待っていた救急車に移しかえるときに、ちょうど下村さんにお会いしたんです。その瞬間に、その方の死亡が確認されてしまいました。その方は、家の2階のぎりぎりまで浸かっていた水が引いたということで、1階に下りようとした時、階段で足を滑らせ、頭を打っちゃったんです。僕が現場に行ったときには、まだ体が温かかったんです。何で、こんな人が、こんなところで亡くなってしまうんだ〜!という状況でした。
−本当につらい場面に遭遇されていらっしゃいますが、10年前の阪神大震災からボランティア活動をずっと続けてこられたわけですよね。その体験から、今後この新潟の被災地で必要になってくるものとは何ですか?
- 吉村:
- 僕は、ボランティアグループが前に立ってやっていくんではなくて、《地域の人につなぐ》事が大切だと思っています。例えば、今日はこれから、この塩谷地区の人達と私達ボランティアの一部が一緒に湯沢温泉に行くんですが、ここの温泉は、風評被害でお客さんが9割も減ってしまったんです。「私達の温泉は大丈夫。でも、お客さんが居ない。そこに、被災者の人達を引っ張ってこよう」ってことで、自腹でどんどん人を運んでいるんですね。僕は、近くの人達に現状を見てもらう事で、「次はこんなこと必要だよね」と皆さんに話してもらえればと思い、湯沢の人達に、あえて塩谷地区に来てもらいました。
全国の方には、現地の人達の思いに《共感》するように、なるべく努めて頂きたいです。物を送れば良い、という感覚がありますが、現地では、送っていただいた物を被災者の方々に配布できる状況になくて、山積みになっている避難所もあります。僕は、「神戸も、揺れから10年経っても、震災は終わっていない」って人に言うんですね。『震収まれど、災おさまらず』って言葉があるように、震度6強の揺れを体験した人達の恐怖は、ずっと忘れる事が出来ないんですね。しかしそれは、遠くから、来て、ただ背中をさすってあげるだけ、ただ話しを聞いてあげるだけでも、(被災者の方は)すごく落ち着くんですね。だから、やっと今、始まったばかりですね。復興への道は、終わらないと思っています。