先週金曜(10月24日)の夕方、日本テレビ社長が記者会見し、視聴率買収事件を打ち明け、謝罪した。先週の、テレ朝ダイオキシン報道判決問題に続き、2週連続でメディア絡みの問題になるが、今回はこの視聴率買収事件に眼をツケる。
■「視聴者の信頼を揺るがせた」か?
私もこの事件を聞いて唖然としたのだが、その後1週間の報道のされ方には、「そういう切り口でいいの?」と首をかしげる点もあった。
例えば、非常に多くのニュース番組や記事が、この問題を評して「≪視聴者の≫信頼を揺るがせた」という言い方をしていたが、本当にそうだろうか?視聴率を信頼して行動しているのはテレビの制作者とスポンサーだけで、視聴者は「この番組は視聴率が高いから見よう」「低いから見るのをやめよう」と思ってテレビの前に座っているわけではなかろう。視聴者の判断材料はあくまで≪面白いか・面白くないか≫であって、その結果が視聴率につながるのだ。「物差しの目盛りが、お金で動いちゃうの?」という衝撃は、やはりその目盛りに全面的に依存している業界人だけのものではないだろうか。「視聴者の信頼を揺るがせた」という言い方は、業界人が自分たちの内輪のショックを日本中のショックのように過大評価した、一種の傲慢さの現れのように思える。
■「視聴率至上主義=悪」か?
また、毎度おなじみの「視聴率至上主義が悪い」論もあちこちで展開されている。この際だからあえて言わせてもらうが、私は、視聴率至上主義者だ。≪視聴率=支持率≫なのだから、電波を預かって放送する者が、自己満足ではなく、1人でも多くの人に情報を伝えようと志向し、視聴率の向上を何より大切に考えるのは当たり前ではないか。「視聴率至上主義」という単語が登場した途端に「やっぱりそれが悪いんだよね」と思考停止して、議論がストップしてしまう状況では、何も生産されない。無造作に一律に“悪”と捉えるのではなく、『良い視聴率至上主義』・『悪い視聴率至上主義』をきちんと峻別して考えるべきだ。
『悪い視聴率至上主義』というのは、今回のケースのように、「数字のためなら何をやってもいい」という所まで転がっていってしまったもの。それに対して『良い視聴率至上主義』とは、より“聞く耳持ってもらう”=「どうすれば視聴者にもっと受け入れてもらえるだろう」と考える、絶え間ない努力なのだ。例えば、この『眼のツケドコロ』コーナーで、誰も注目していないニッチな話題を取り上げるかどうか検討する時に、「それじゃみんな聴かないからやめよう」と判断するのは『悪い視聴率至上主義』。「それはみんなが知らない事だから、もっと工夫して伝えよう」と試行錯誤するのが、『良い視聴率至上主義』だ。題材選びや表現方法の自己満足を避けて、一人でも多くの人に受け入れやすい題材・表現を探す、その努力までを「視聴率のためにやってるんだろ」と否定的に見られては、かなわない。
■普通なら超えられぬ“一線”
その努力の結果としての高い視聴率は、制作者としてはやっぱり嬉しい。それぞれの局に高視聴率をとれた時の祝い方があって、TBSなら、伝統的にコロッケ・パーティーが開かれる。放送局には、番組単位ではなく、実は1分単位での視聴率がグラフとなって翌日届くので、「誰の編集したVTRで上がった」「誰のスタジオ発言中に下がった」が全部リアルに出てしまう。改善のための分析にはなかなか便利だが、気になる人にとっては、大変なプレッシャーだ。この事件を起こした日本テレビのプロデューサーも、その重圧に負けてしまったのだろうか。
しかし、誘惑は感じても、買収を実行に移すには、高い自制心の壁があるはずなのだが…。実は、私もかつて、ある特別番組の制作チームにいた時、スタッフの一人の知り合いが偶然、視聴率測定機をつけている家であると分かったことがある。普通なら、業界に何十年といても測定機をつけている人の存在に遭遇する事などまず無いのだが、この時は本当に珍しく、分かってしまった。制作スタッフの皆で、「よ〜し、菓子折り持って、出動だ!」「0.3%プロジェクト!」(当時、我々は視聴率を測定する世帯が300戸だと思い込んでおり、割り算すると1世帯あたり0.3%だった)などと冗談で言っていたのだが、まさか本当に買収を実行するなんて、頭の片隅にも思い浮かばなかった。(品のない例えで恐縮だが、「あいつブッ殺す!」と言いはしても、実行に移す気など毛頭ないのと同じ事だ。)
この一線を越えてしまったら、自分の仕事の評価基準を喪失する事になるのに、どうして越える事が出来てしまったのだろう。それだけは、どうにも理解できない。
■日テレ社員よ、逃げずに答えよう!
事件発覚後の日テレ側の対応(社長会見や、氏家会長の謝罪)については、特にコメントしない。ただ、一般社員の一部が、他局のニュース番組の取材に対しノーコメントで「逃げていた」のは、どうしても私は納得がいかない。確かに、こういう時「事情を知らない社員は黙っておこう」というのは、普通の対応かもしれない。しかし、報道業界の者に限っては、その対応では許されないはずだ。我々は、普段、何か問題を起こした人・団体に、マイクを突きつける仕事をしているのだ。逆の立場に立った時に逃げたら、日々やっている仕事の自己否定になると、私は思う。
TBSがオウム真理教に坂本弁護士のビデオを見せた事が分かって大バッシングされた時(96年)には、TBSの建物のまわりに、各局からたくさんの取材陣がやってきた。「ビデオを見せた」という89年の事実経過そのものについて何一つ知らなかったほとんど全てのTBS社員は、その時、口をつぐむ道を選んだ。私も同様に、事件自体については何も答えられる情報を持っていなかったが、回答できる範囲の質問(現在の社員としての責任の感じ方など)には、逃げずに全て答えた。そんな私の単独行動は、なるべく誤解を増幅させないように組織として危機管理をしている最中にあっては、軽率なスタンドプレイにも見えたかもしれない。しかし今、日テレの社員には、やはり「こういう仕事に就いてしまったのだから」と腹をくくって、可能な限り、質問に答えてもらいたい。それでこそ、また明日から他人にマイクを向けられるのではないだろうか。頬かむりをせずに堂々と真相究明して、こんなアホらしい事件はこれっきりにしてほしい。
■[前回の補足] あらためて、≪印象≫判断の危険性について
前回のこのコーナーで、テレ朝のダイオキシン報道への逆転判決に対して、「番組の印象は十人十色」と私論を述べたのに対し、「現にダイオキシン報道では、所沢の農作物の価格の急落が起きたのだから、1つの印象が被害を生んだことは明らか」との意見を受けた。それはその通りだと私も思う。
ただ問題は、こういう明らかな反応が≪読み取れないような事件≫の場合でも、今回のケースが「判例」として適応されうるという事だ。例えば、ある番組が政治家A氏の汚職疑惑について追及し、A氏が応戦して「放送で名誉を傷つけられた」と告訴した場合などで、裁判官が「確かに、この番組はA氏の名誉を傷つけるような≪印象≫を与える」と軽率に判断したりしたら、本当に、権力者を監視する報道はしにくくなる。「印象で判断」を乱用されては困るのだ。
2週連続でメディアの問題を取り上げたが、今回の日テレ事件より、前回のテレ朝事件の方がはるかに深刻な事態だという事を、強調しておきたい。