今週、民主党代表に菅直人氏が返り咲いた。これを受けて、今後の民主党の行く末などが様々報道されているが、このコーナーではあえて菅直人氏の無名時代に目を向け、「菅直人よ原点を忘れるな!」というメッセージを込めてお伝えしたい。
かつて「菅直人の一歩」という半生記を書かれた、ジャーナリストの伊藤雄一郎さんにお話を伺う。
―菅氏とのお付き合いはいつから?
- 伊藤:
- 早稲田の学生の頃、二回目の選挙のお手伝いをしたときからです。
実は、1980年、菅氏33歳での衆議院議員初当選の半年後から、当時大学生だった私・下村と故・久和ひとみも、菅氏の元でお手伝いをしていた。伊藤さんと私は、その時からの“戦友”であり、今よりずっと若い菅直人氏を見てきたのだ。
−当時の菅氏は?
- 伊藤:
- 我々学生から見ても、いわゆる国会議員のイメージとは程遠い、兄貴的な付き合いやすい存在でしたね。良くも悪くも、上から押さえつける感じではなかったです。
かといって、主義主張がなかったわけではないですね。俺はこうなんだ、という自己主張の段階で留まり、他人には押し付けない感じでした。
東工大出身ということもあってか、非常に細かい性格でもあった。一つ一つの数字にこだわりも見せ、そのあたりが「イラ菅」と呼ばれる所以かもしれない。
- 伊藤:
- 今で言う『デジタル志向』でしたね。私は当時、政治家のイメージとして「どんぶり勘定」と思っていたのですが、それと正反対の人でも政治家が出来るんだ、という新鮮な感じを受けました。
−そのような菅氏が、何故政治家を目指した?
- 伊藤:
- 元は山口県の出身で、高杉晋作が好きだったそうです。政治についても、お父さんと良く語り合っていたと言っていました。途中で転勤に伴って東京に出てきて、東京工業大学に入学しました。当時は学生運動が盛んな時期で、そこでリーダー格だったというのが最初です。
企業に就職ということを考えられず、弁理士の資格を取って自営の道を選びました。仕事はやりながら、徐々に市民運動にも入っていきます。ここで、市川房枝さんの選挙を取り仕切ったり、日本の高い地価を考える運動をしたり、そういう部分から現実の政治の世界へとアプローチしていきました。
当時、菅氏が酒の席で良く語っていたことに、学生運動時代の出来事がある。
学生運動の仲間達と、「10年後には仲間の一人を国会に送り、次の10年で自民党に対向しうる野党勢力を作り、次の10年で天下を取る」という約束をした、というのだ。この通り、菅氏は国会議員になり、民主党を作り、という所まできている。次の「天下取り」というのは必ずしも権力を取る、という狭い言葉の意味ではなく、市民が物事を決められる世の中になれば、という志向なのだ。
- 伊藤:
- 現在、物事の考え方が変わってきて、『改革』というものが必要になってきているのは明らかです。それを、小泉流のやり方でやるのか、それとも他のやり方でやるのか、菅さんなりに決意を新たにしたのではないでしょうか。
菅直人事務所では、当時学生が来ると、何をやれというのではなく、「君はここで何をしたいの?」と問いかけられた。そこで下村達学生スタッフは、ごく普通の一市民が立候補から当選するまでの「市民選挙マニュアル」を作ったり、久和ひとみが手書きで、選挙の際の電話掛けマニュアルを作ったりしていた。まさに、手作りの運動だったのだ。
−この原点を見ると、現在「民主党」という既存勢力に菅氏が取り込まれている、という感じは受けませんか?
- 伊藤:
- 既存勢力を巻き込み、うまく活用していくことは必要です。ただ、原動力としてこの原点を忘れないで欲しいし、ここがまさに菅直人の存在理由なんです。それを魅力と感じている人が相当数いるんですね。
当選前に読売新聞社から出された、「無から有への挑戦」という菅氏の著作がある。この中で菅氏はこう述べている。
日本には政治に関して二つの神話がある。一つは、政治は汚らわしいものだとする神話であり、もう1つは政治体制は変わらないと言う神話である。私達は、この二つの神話に挑戦したい。
−国民がこれを求めている部分があるにもかかわらず、何故菅氏が支持されてこないのでしょう?
- 伊藤:
- 国民と言ってもなかなかひとくくりには出来ません。これらはあくまで都市に住む若者に限った話です。他の人々について、民主党という物を理解しようとしているのかすら疑問です。菅さんは、ここから新たな活動を進めていく必要がありますね。
地方に行けば、『民主党って何?』という人もまだまだ多いですから、国民に広く根を広げていく戦略が大事だと思います。
野党が現在のような状態で政治に選択肢が存在しないという形は、何党の支持者であれ、国民にとって不幸である。菅氏が党首返り咲きを果たしたことをきっかけに、民主党が息を吹き返すことに期待したい。