「若き女性美術作家の生涯」全国上映へ

放送日:2002/1/26

「With…若き女性美術作家の生涯」ポスター 大阪の『毎日放送』(MBSテレビ)がオンエアした、ある報道ドキュメンタリー番組が、大反響を呼んで再放送を繰り返した末、とうとう映画になった。これから全国を上映会が巡回する。今回は、その作品「With・・・若き女性美術作家の生涯」を紹介したい。

この番組を見た中村キャスターは、「こんなことってあるのか!?フィクションじゃないの!?」という感想を持ったという。たしかに、それほどに劇的な展開だ。2000年「日本賞」ユニセフ賞、アジアTV賞ドキュメンタリー部門第2位、アジア太平洋放送連合賞審査員推奨、国際エミー賞のアジア代表、上海TV祭優秀作品、2001年ニューヨーク祭優秀賞、・・・など数々の受賞も、当然だと思う。

作品は、98年に大阪芸術大学を首席で卒業した女性の活動に密着したもの。制作したMBS報道局の榛葉健ディレクターと話した。

榛葉:
佐野由美さんは23歳の美術作家で、ネパールの貧困地区にある小学校で、ボランティアの教師をされていたんです。その1年間の活動期間に、現地での佐野さんの活動をずーっと記録していったのが、おおよそのあらすじです。
そのボランティア活動のきっかけになったのが、阪神大震災だったんです。

長田区で被災して、自宅も全壊。佐野さんはその時、自分の《生き方》についても揺さぶられた。映画の中で、彼女はこう述懐する。

「生きるってことと死ぬってことの背中合わせの状況の中で、自分が美術をやっているってことが何の役にも立たないっていうことに、ものすごくショックを受けたんですね。空が赤く燃えるのを見ながら、美術が絶対に必要なものであるっていう考え方が、ものすごくガラガラガラって崩れましたね。」

榛葉:
佐野さんの場合、自宅が全壊して、一旦は瓦礫の中で埋もれていたんです。そこをご家族の方に助け出されて、何とか命が助かった、という経緯をたどったこともあり、彼女自身が『生きる』ということと『死ぬ』ということについて、考えたんです。同時に、美術というジャンルを通した『表現者』として、美術が何の役にも立っていないということをまざまざと見せつけられました。
その真っ只中で振り返ってみたら、長田区の中でも、お年寄り等、自分以上に苦しい立場の人達、困難な境遇の方がたくさんいらっしゃることに気付き、被災者でありながらボランティアをしようという立場に変わっていったのです。
何か人に“やってあげている”という気持ちには、ある意味でいやらしい感じが伴うと思います。佐野さん自身も最初はそう思っていたんですが、実際取り組んでみると、そんなおこがましい気持ちではなくて、「自分が生まれ育った長田のために何かしたい」という非常に素直な気持ちになっていった、と語っていました。そのようなことがずーっと積み重なり、さらにその延長線上に「ネパールに行ってみよう」、特にあの国は非常に困難な境遇にある人達がいるから―――ということで、行くことを決意するんですね。

そして、98年4月12日=いよいよネパールに向けて出発する日、関西空港でのシーン。

榛葉:
「いよいよ出発ですね。」
佐野:
「はい。」
榛葉:
「どうですか、今の気分は?」
佐野:
「なんか、ワクワクしてます。精神的なしんどさ、そういうものも抱えないと、いい経験にならないと思うんですよ。だからそれも含めて、いい1年にしたいと思ってます。」

作品から感じられる佐野さんは、ものすごく明るくて、常に前を向いて歩いている人、という印象なのだが―――

榛葉:
ご家族から伺うと、実は陰で泣いていたり、辛い思いをしていることがいっぱいあるそうです。しかし、人前に立った時にはものすごく一生懸命やっている、という所が鮮明に印象に残っています。

オンエアした授業風景 こうして、1年間のネパール美術教師生活(無給)が始まった。赴任先は、首都カトマンズの隣・パタン市の「ラリット福祉小学校」。日本のNGOの寄付金に支えられている学校だ。

佐野さんが、教室の子供達にネパール語で“片付けておいてね”と言っているシーン〜

榛葉:
「賑やかな授業ですね。」
佐野:
「賑やかですね。体力要ります、物凄く。
毎日、エネルギー!」

榛葉:
佐野さんがネパールに行ったときに知っていた言葉はたった三つしかなくて、「こんにちは」「おいしい」「ありがとう」、これだけだったんです。ボランティアですからお金もそんなに持っているわけではない、言葉もそれしかできない、もう丸裸の状態でとにかく現地に行ってみようと。ですが、「2ヶ月で言葉は全部分かった」ということでした。生徒さんから言葉を教えてもらったそうです。

この後、映画は、現地取材映像と、佐野さんのイラスト日記紹介を織り交ぜながら展開してゆく。その中から、日記のシーンを1つ紹介しよう。
1年生の女の子・コピラちゃんの家は、貧しい家庭ばかりの中でも、一番貧しい家だった。コピラちゃんの具合が悪くなった時、佐野先生が家庭訪問して「病気ですよね」と告げると、母親は『私たちは貧しい。どうやって薬を買うのだ』と問い返してきた。その時の日記朗読場面より。

「『私たちは貧しい。どうやって薬を買うのだ』と質問してきた彼女に対して、『買ってきたよ。これはビタミン剤で、これは下痢止め』と説明を始めた。母親は、何の屈託も無い感じで、薬を受け取った。帰り道、私はコピラを心配する気持ちと、何かやるせない気の重さを抱えながら、貧困街を歩いて帰った。私は一時的に、コピラやその他の本当に貧しい家に、物を与えられる。けれどもそんな人は、この国には数え切れないほどいるし、私が一時的に物をあげても、彼らの行く手は無いのだ。終わりの無い洞察に迷い込んだような気がした。どうして、この世は不平等なのか。」

榛葉:
やはり、現場に深く入って行ったからこそ、そういう思いになったんだと思うんですね。ドンドン社会の中の矛盾とか厳しい事に直面していき、彼女に限らず世界中のボランティアの人達が思い悩んでいらっしゃると思うんです。佐野さんは、ボランティアであると同時に美術作家であったために、そうやって考えている部分を、言葉とか絵とかにして残していったんですね。そこが、彼女にとってすごく大事な所なのかな、と思います。

本「ネパール滞在日記 − パタンの空より」 佐野さんが遺したこうした思いは、映画とは別に、素敵なイラスト本にもなっている。
『ネパール滞在日記 − パタンの空より』(シーズプランニング発行/03-5428-5680)
そこには、例えばこんな一節がある。98.12.15の日記。
「小学校の時、まりちゃんという知的障害者の子が1人いた。学年の終わりに作る文集の、『将来の夢』という寄せ書きの所に、彼女は『優しい人になる』と書いてあった。私は、『漫画家になりたい』と書いた。まりちゃんの夢は、何の能力もなくても出来ることだな、すごく簡単な、と思った。けれども今、ジャナクプール行きのバスから、流れゆく平野風景を眺めながら思う。新幹線の運転士になるよりも、看護婦さんになるよりも、そしてアーチストになるよりも、《優しい人になる》というのは、なんて難しいのだろう。」

榛葉:
佐野さんは、壊れやすいくらいのデリケートな心を持っていたと思うんです。それと同時に、誰もが簡単に行けるわけではない非常に困難な地域にまで身を投じて行く、その両方があったからこそ佐野さんは優れた表現を手に入れることが出来たのかなと思います。
彼女は、こう言ってました。「旅をするだけでも、絵を描こうと思ったら描ける。何日間かそこの地域に滞在して、描いて、日本に持って帰って来て仕上げて、作品として展示することも出来る。だけれども、描かれる側の人の本質を見極めるためには、その地域に住まないとだめだ。人っていうものがわかってこそ描ける絵がある。だから私は旅行ではなくて一年間住むという道を選んだ。」

美術に何が出来るんだ、という無力感から始まったけれど、佐野さんは結局ちゃんと、その美術を武器にした理解の仕方、伝え方をしてみせたのだ。
そして1年の任期を終えてネパールから帰国する数日前、佐野由美さんは突然、思いもかけない出来事で、23歳で世を去る。この結末と、それを直視した異例の映像表現については、ここでは敢えて紹介しない。上映会で、現実を受け止めていただきたい。

第1回の一般公開の上映会は、既に13日に大阪で開かれた。会場でのアンケートに記された、観客の感想は―――
●中年層:「彼女の倍以上生きている自分に、これから何が出来るか考えさせられた映画です。」
●同世代:「私も夢を追い続けている一人です。あなたのことを知れば知るほど惹かれ、そして同じ物を追い求めていた。この春から、タイで子供達と生活することになりました。ちっぽけな私に何が出来るか分かりません。由美さんは、ネパールでかけがえのない宝物を見つけたんでしょうね。私も頑張ります。命ある限り子供達と共に歩みたい。今日は本当にありがとう。」
●14歳の子:「私も美大を目指しつつ、美術をして何の役に立つんだろうかととても悩んでいました。“1つのペンが、1枚の紙が、1つの言葉が”という言葉にすごく感動しました。わたしも由美さんのような人になりたいと思いました。この作品に出会えて本当に良かったです。」
―――共通しているのは、どの世代の人も皆、単なる観客ではいられなくなり、『自分の生き方』を問い直している、ということだ。

イラスト クリックすると大きく見えます 今後の上映スケジュールは・・・
来週水曜(1/30)・・・東京・吉祥寺「武蔵野公会堂」
2/6・・・横浜「神奈川県民センターホール」
2/23・・・東京「お茶の水クリスチャンセンターホール」
その後、奈良・神戸・広島などでの上映会が決まっている。

榛葉:
自然に段々と広がってきまして、映画関係者だけではなくて色々な地域の方々が、「自分の町でも上映して欲しい」という声をかけて下さる数が、日に日に増えているんですね。これからもまだまだ時間をかけて、丁寧なコミュニケーションを続けながら、全国でこの映画を見ていただけるように、頑張って巡回していきたいなと思っています。

ビデオ販売も始まっている。映画・ビデオとも、収益の全てが、佐野さんの遺志を継いでネパール等の教育水準向上のための資金に充てられる、という。

※映画・ビデオの問い合わせ
『with・・・若き女性美術作家の生涯』全国普及委員会
 Tel 0285-25-3104
 Fax 0285-25-3129
 http://www.with-ambitious.com

【 放送後日談 】 今回は放送後、上記委員会やTBSに問い合わせ電話が殺到し、たちまちのうちに、鹿児島や秋田などでも上映会誘致の打合せが始まった。さざ波は、さらに拡がっている。
佐野由美という表現者は、自らの作品と、榛葉健という表現者を得て、今も確実に生き続け、出会いを続けているのだ。

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