原爆ドームの隣に住んでいた少年、被爆直前の我が町をCGで精密復元

放送日:2008/8/30

先週は、被爆者100人以上を乗せた船が、まもなく世界一周の証言の旅に出る、という壮大なスケールの話を紹介した。今朝は、これとは別個に進行しながら、ここに来て連携することになった、もう1つのヒバクシャ・プロジェクトに眼をツケる。
被爆する一瞬前の広島の町を、CG(コンピューター画像)を使って復元してみようという、「ヒロシマ爆心地・復元プロジェクト」に関わっている、寶田七瀬さんとポール・シェパードさん(眼のツケドコロ・市民記者番号№72)にお話を伺う。
寶田さんは、インド洋大津波の被災地の子供達を訪ねたミュージカル劇団『虹』の一員として、このコーナーで去年の1月に報告をしてくれた。その放送の時には、「間もなくこの被災地ツアーの模様をビデオにまとめてインターネットで公開する」とのことだったが、その後、公約は果たされた。

――今回のプロジェクトは、あのミュージカル活動とは全く別の取組みなんですね。

寶田: ミュージカルのほうは、私のプライベートな活動で、今回のは、私が今働いているTBS・i-campの取り組みです。

■仕事だけど、インターンだけど、思い入れを持って…

寶田: 爆心地をCGで再現するというこのプロジェクトは、以前からTBSが注目していました。リーダーの田邊雅章さんという方は、少年時代、原爆ドームの隣のお家に住んでいて、戦後はずっとドキュメンタリー作家としていろんな作品を作ってこられた方なんです。60歳のときに、残りの仕事として何をやるかということを考えたときに、自分の故郷の町をCGで再現したいということを思い立たれて、原爆ドームを始め、自分の故郷の町である猿楽町とか、爆心地である細工町とか、今手がけようとしているのが、平和記念公園がある場所をCGで再現しようとなさっているところです。

今の人たちは、公園が元からあって、その直近に原爆が投下されたような錯覚を持ちかねない。そこまで勘違いしなくても、少なくとも、あそこに普通の人々が暮らす町があったことまでは、なかなか想像が及ばないだろう。

寶田: その広島復元プロジェクトに関する10分程度のドキュメントを作るということで、私がi-campから送り込まれたというわけです。(広島・長崎に関する)ほとんどの活動が、原爆《後》の事を伝えるばかりな中、田邊さんがやってらっしゃる活動は本当にポジティブです。その様子を伝えることで、こういう平和アクティビティもあるんだよということを世界に伝えたくて、(私はドキュメントを)作っています。

――シェパードさんは普段、何をしていらっしゃる方なんですか?

シェパード(通訳/阿部 明日香さん=TBS・i-campスタッフ): 私は現在、南カリフォルニア大学の学生で、アニメーション学科の修士課程で勉強しています。TBSと南カリフォルニア大学がパートナーシップを組んでいるインターンシップ・プログラムがあるのですが、それに大変興味を持ち(参加し)ました。

――特にこのテーマに手を挙げたのは、広島に何か特別な思い入れがあるんですか?

シェパード: 初めて広島を訪れたのは、今年の3月でした。広島には短い間しか滞在しませんでした。3日位だったのですが、その間、多くの親切でフレンドリーな方々にお会いすることが出来ました。そして、彼らとの会話の中で必ず出てきたのが、世界平和の大切さ。それは、私の心を本当に大きく動かしました。平和は、とても大切なことだと思ってますから。

■世界中の映画祭で伝えたい

――実際、寶田さんとシェパードさんが作る短編ドキュメントは、どんなものになりそうですか?

寶田: 今、70代・80代の被爆者の方々っていうのは、当時、子供だったんです。10代だった方々なので、子供時代の話を中心に聞いています。その話をもとに、ポールが3つの物語を作りまして、インタビューとその物語を交互に入れて、10分の作品を作ろうと思っています。なので、ドキュメンタリー半分、創作も半分入っているんですけれども、ちょっとユニークな作品になると思います。

――基本的に、日本語なんですか?

寶田: 英語です。やっぱり、広島のことっていうのは、これからどんどん海外に伝えていかないといけないと思ってまして、あえて英語で作っています。

――シェパードさんは、英語で作ることによって、これをどんな人たちに観てもらいたいですか?

シェパード: 出来るだけ多くの映画祭、特に、有名な映画祭にぜひ出品したいと考えていますが、一番大事なことは、世界のあらゆる国の映画祭に出すことだと思っています。一部の地域、たとえば日本や米国だけではなくて、中国やロシア、ヨーロッパ、アフリカ諸国といった国々の映画祭に出品したいと思っています。
 寶田さんが言ったように、このドキュメンタリーは、前向きな新しい方法論として、平和の大切さを訴えています。私たちのミッションは、この短編を世界中の人々に広めて、今までとは異なった形で平和を伝えていくことだと思います。

――「それがミッション(使命)だ」っていうのは、単なる研修で映像制作をしてみようというレベルを超えた、熱いスピリットを感じますね。

寶田: そうですね。本当にいろんな大変な事があるんですけれども、ミッションがあるから撮り続けて頑張れるっていう感じです。

■悪ガキたちが遊んでいた町

――お2人とも最近、広島取材から東京に戻ったばかりで、今まさに編集の真っ最中ということですが、実際の被爆者の方に会って話を聞くっていうのは初めての経験でしたか?

寶田: はい、私は初めてでした。

シェパード: はい、初めてでした。

――何か難しい事っていうのはありませんでしたか?

シェパード: 最初、ヒバクシャの方々に大変辛い出来事について聞くのは、本当に緊張しました。でも、話を伺っているうちに、この「ヒロシマ爆心地・復元プロジェクト」が原爆のことではなくて、今は存在しなくなってしまった町や文化に焦点を置いたものだと気づきました。そこで、今回のドキュメンタリーのコンセプトを、ヒバクシャの方々の子供時代の思い出話に置くことにしました。それは、被爆者の方々が、本当に喜んで話して下さるものでした。

――これは原爆の話ではなくて、原爆によって失われた、彼らが愛していたもの、大切にしていたものの物語だと…

寶田: そうです。私もポールと同じく、(被爆者の方々とは)違う世代だったり、部外者なのにどこまで聞いていいんだろうっていう不安が、最初あったんです。けれども、実際に聞く思い出の話が凄く面白くて。広島って、川の町なんですけれども、ボートにカップルが乗ってて、そこに砂を投げて遊んだとか。(笑) 誰かが運んでいたスイカを盗んで食べたとか。原爆って聞くと凄く悲惨なんだけど、その前の時代というのは、彼らは普通に子供で、子供らしい遊びをしていたんだなっていうのが分かってきて。「もっと聞きたい」っていう風に、インタビューを止められなかったっていうのがあります。

■『ピースボート』で新たな種をまく

――でも、「もう失われて戻って来ないものを、振り返って懐かしがって何になるんだ?」という考え方もあり得ますが、どうですか?

シェパード: 過去を振り返ることには、2つの意味があると思います。1つは、自分の住んでいた地域が無くなってしまった人々にとっては、もう二度と自分の家や暮らしていた町に戻ることが出来ません。ですから、この復元プロジェクトを通して、彼らは町をもう一度見ることが出来るんです。2つめは、その無くなった町を、広島を見ることが出来なかった人々に対して見せることです。大事だと思うのは、決定的な破壊によって、どれほどのものが失われるのか、そして怒りや憎しみを極限にまで至らせてはいけない、ということを伝えることです。

話を聞けば聞くほど、先週ご紹介したNGO『ピースボート』共同代表の中原大弐さんの考え方と、実によく似ている。中原さんは、「いつも限られた時間の中で、被爆後のことだけを話してきた証言者たちに、その前に広島に何があったのか、何が失われたのかを共有したい」と語っていた。

――まさにその『ピースボート』のプロジェクトと、この「ヒロシマ爆心地・復元プロジェクト」が、船の出港直前にして、何か一緒にやろうという話になってきてるんですって?

寶田: はい。『ピースボート』の船は世界中行くと思うんですが、田邊さんが制作した被爆前の広島のCG映像のDVDを船に積み込むことになったので、いろんな方に見せてもらえれば、と思っています。

そこからまた、何か新しいコラボレーションが生まれるかもしれない。

シェパード: 私たちのドキュメンタリー作品が『ピースボート』(の船内や寄港先)で上映されるのは、大変嬉しいです。もう1つ面白いのは、『ピースボート』に乗っている人々の心に種をまくことです。その種を持っている人たちが、自分なりに平和の大切さを伝えていくミッションがあると思います。乗船者の数が増えていくほど、そしていろんな人々に伝えれば伝えるほど、世界中に平和活動が広がっていけば素晴らしいと思っています。

先週に続いて今週のプロジェクトも、実にワールドワイドで、両方ともこれからの展開が非常に楽しみだ。

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