河野澄子さん逝く(1)松本サリン事件から14年の夫婦愛

放送日:2008/8/ 9

松本サリン事件の第1通報者である河野義行さんの妻・澄子さんが、今週火曜(8月5日)に亡くなった。自宅隣の駐車場でオウム真理教信者たちが撒いた毒ガスで倒れてから、14年余り。今朝は、義行さんが理事を務めるNPO『リカバリー・サポート・センター』の磯貝陽吾事務局長と、事務局末端メンバーの私で、澄子さんの14年間を振り返りたい。
磯貝さんの現職は、テレビ朝日『報道ステーション』のデスク。事件当時は、同局の『ニュースキャスター』という番組のスタッフとして河野家と深く関わり、以来、交流を続けている。

■事件発生1秒前までの澄子さん

世間の人(磯貝さんや私も含め)は、あのサリン事件が起きてから河野さんご夫妻を知ったので、事件発生の1秒前まで河野さん達がどんなご夫婦だったのか、当然分からない。ただ、磯貝さんはその後の付き合いの中で、義行さんから幾度となく夫婦のエピソード等を耳にする機会があった。

磯貝: いろいろな話を聞いたんですけども、やっぱり奥さんの澄子さんのほうがずっと偉くて、それから強くて賢くて…。

――家に飾られている、元気な頃のご夫婦の写真を拝見すると、本当に聡明な美人という感じですよね。じゃ、澄子さんが、家の中をちゃんと束ねていたと。

磯貝: そうですね。それはもう、凄まじいぐらいに。買い物は、全部きちっとする。ゴミは、全部分別して出す。それから、ピアノ教室をやってましたから、長女の真澄ちゃんも次女の真紀ちゃんも、お母さんにピアノを習ってたということです。

――我々が知る河野さんの実像は、本当にすっ呆けた親父ギャグから、毒のあり過ぎるブラック・ジョークまで飛ばす“オッサン”じゃないですか。あの河野さんに、澄子さんはどう応戦していたんでしょうね?

磯貝: ひと言言うと、十言(とこと)返ってくるらしいんですよ。10倍返し。だもんですから、河野さんも、それ以上は言わずにそっと(その場を)抜け出して、とかね。

■語りかけへの微笑み返し

そんな夫婦の家に、1994年6月27日の夜、突然サリンガスが侵入し、あの事件が発生した。義行さん自身も入院したが、退院して以来今週火曜まで、義行さんは、講演旅行などで松本を離れる時を除いて毎日のように澄子さんを見舞い、「今日はこんな事があったんだよ」などと話しかけ続けていた。

――あれは、医学的に見れば、意識不明の人に対する一方通行の語りかけということになるのかもしれませんが、我々、傍で見ていて、とても一方通行には見えなかったですよね。

磯貝: 決して、一方通行じゃないですよ。脳って、使わないと退化していくじゃないですか。澄子さん自身は、病院でMRIから何から全部測ってみると、約90歳レベルの脳に萎縮してたらしいんです。もう物理的に縮んでた。にも関わらず、耳だけは最後まで聞こえていた。耳から入ってくる情報だけが、澄子さんには頼りだったということで、その耳からの情報を、義行さんは絶えず入れていた。だからこそ、音楽も流し続け、語り続けた。で、語り続ければ続けるほど、澄子さんの顔が柔らかくなるんですね。(表情が)変化するんです。これはびっくりするんですけれど、泣くし、ちょっと微笑むようになったりね。

――頬の周りが緩むんですよね!

磯貝: そう。河野さんが語りかけると、凄く落ち着いた顔立ちになっていくと。

■澄子さんのおかげで始まった被害者ケア

言葉だけでなく音楽も、ということで、遠藤郁子さんというピアニストとの交流も生まれた。サリン事件から1年半位が経った辺りで、澄子さんの為のコンサートも、東京のサントリーホールで開かれた。

――普通、サントリーホールを取れるのなんてずっと先なのに、本当にめぐり合わせと言うか、ポンと日程が空いたんですよね。

磯貝: そうなんです、たまたまキャンセルが出てしまって…。それで(計画を)立ち上げて、わずか2ヶ月(の準備)でドーンとやってしまったらば、超満員になってしまった。で、そのチャリティのお金が600万円入ったので、300万円は松本、300万円は東京の地下鉄サリン事件の人たち用という風に分けて。それで、松本の方々の検診を、そこからスタートしました。

――東京の分は、それを財源とした活動が前身となって、最終的には2000年に『リカバリー・サポート・センター』が出来たと。

磯貝: はい。そういう経緯ですから、河野澄子さんがいてくれたおかげで、被害者の方々のケアが出発した、ということなんです。

■決して諦めなかった義行さん

お見舞いに伺うと、河野義行さんは澄子さんの枕元で必ず、「澄ちゃん、磯貝さん来てくれたよ」「下村さん来てくれたよ」と、普通に知らせてくれていた。

――耳が聞こえていたってことは、澄子さんは「あ、磯さんかぁ」って認知してくれてたと思いますか?

磯貝: 僕は、そう思いましたね。

――僕も、そう思いました。

磯貝: というのは、「磯さん来てくれてるよ」とか「下ちゃん来てくれてるよ」と言った途端に、ふわぁっという顔になる。これはやっぱり、「あ、分かってるのかなぁ」という…。

医学的な写真を見せられて、「脳がこんなに縮んでいる。もうダメだ」と、そこで諦めて語りかけをやめたら、もっと早く脳の退化は進んでいただろう。だが、義行さんは、絶対に諦めなかった。

磯貝: 実は僕、澄子さんのベッドの前で義行さんにインタビューして…。ここまで(の状態)になっちゃっていたら、やっぱり“身まかる”という部分も想定されたんじゃないかと(思って)、「お葬式とか、様々な事を用意はされましたか? 心の準備はされましたか?」って…嫌な質問をポンと、我々は平気でするわけですよ。その質問をした途端に、河野さんが物凄い目をして、口に人差し指をあてて「シッ、黙れ」って合図をして。で、僕の肩を抱いて、ちょっと(澄子さんのベッドから)離れて「磯さん、それ言っちゃダメっ! 澄子は生きてるんだから。なんでそんな事言うの?」って。「ごめんなさい!」って僕は言ったけど、もう取り返しがつかない。

――それは、義行さん自身にとって聞きたくない言葉、という意味ではなくて…

磯貝: じゃなくて、澄子さんの前で、それは言ってはいけない事だ、と。「だって澄子は、耳が聞こえてるんだよ!」と。いやぁ、「俺、こんな大失敗をしてしまって。もうこれは、出入り禁止だろうなぁ」と思いました。

義行さんは澄子さんに、自身が治らない可能性というのは、絶対に聞かせなかったのだ。

■「加害者」と「加害者側」の違い

――何でも語りかけているようだった義行さんでしたが、澄子さんに言わないようにしている事っていうのも、そんな風にあったんですね…。

磯貝: ありました。あとは、オウム(現「アレフ」や「光の輪」)の人達が時々澄子さんのお見舞いに来ても、「どういう事をやった人だよ」ということは、決して澄子さんに言わなかった。ただ「荒木さん来たよ」とか「広末さん来たよ」って。

――それは、お見舞いに来た人達が、直接犯行に手を下したわけではない、という峻別なんですか?

磯貝: 義行さんが言っていたのは、「あの人達は、《加害者》ではない。《加害者“側”の人》だ。この使い分けは、もう、全然違うんだ」と。

――それを、報告の言葉の形で、澄子さんにも分からせていた、と。

磯貝: そういう事ですね。 

■「恨まない」「排斥しない」はなぜ大切か

――だけど、世間の多くの人は、今回の訃報に接して、「やっぱり澄子さんは治らなかった。亡くなってしまった。これでも義行さんは、オウムに恨みを抱かないのだろうか?」と、自然な感情として素朴に思うでしょう。

磯貝: 僕らだったら、きっとこれで「絶対に憎くて憎くて仕様が無い」という気持ちに収斂していくと思うんです。ところが、河野さんという人は、「憎んだからといって、澄子が治るわけじゃない。恨んだから治る、というんだったら恨みましょう。だけど、恨んでも治らないんだったら、恨むだけ自分が損じゃないか。却って辛くなるだけだよ」ということを平気で言ってるんです。それは僕も、何回も聞かされました。

――僕も、それは聞きましたね…。

磯貝: 人を恨まないと言ったらおかしいけれど、何かがあっても他人を排斥するということじゃない、と。

――「恨まない」「排斥しない」という対応は、《次にまた同じ事が起きてしまうこと》への、非常に大きな防波堤になりますよね。

磯貝: そう! 犯罪の連鎖、暴力の連鎖は必ず、恨みから来てますよね。その部分を、被害者である河野さんが受け容れちゃうもんだから、今や、「アレフ」の人も、「光の輪」の人も、河野さんのところに行って、お見舞いをするわけですよ。
 心からお見舞いをしているのかどうかは、知らない。でも、とんでもない事をやってしまった人達が、とんでもない事をやられた人の所に行って、「本当にごめんなさい」と言える世の中って、とっても素敵な事だ、と僕は思うんです。

――それが、あの河野家という場所では、本当に実現されているわけですからね。じゃ、こうして現実に澄子さんが亡くなっても、やっぱり河野さんはオウムへの憎しみに気持ちを転じることなく、この状況を冷静に受け止めて…

磯貝: だと思います。

■「今日で終わった」の意味するもの

――澄子さんが亡くなった日の昼過ぎに、義行さんがおっしゃいましたね、「河野家にとっての松本サリン事件は、今日で終わった」と。

磯貝: やっぱりこの14年間生き続けた澄子さん、これが(義行さんの)力になっていた。今までは、澄子さんが一番大事。「必死になって看病するのは、当たり前の事だ」と。普通、出来ないですけどね。「当たり前の事だ」って平気で言っちゃって、本当に行動に移して、14年間過ごして来られた。

――と同時に、『リカバリー・サポート・センター』の理事として、本当に多くの被害者の方の無料検診活動にも関わって来られた。

磯貝: 「終わった」っていうコメントは、河野さんの中での、一応はピリオドかもしれないけれど、次のステップを、河野さんは当然考えておられると思う。「これからは、《人のため》にやるんだよ」ということを、(このコメントは)問わず語りに言ってます。

河野さんのコメントに、日本社会が便乗して、「終わった終わった」と忘却に入っては絶対にいけない。河野さんは前段で「河野家にとっての」と限定句を付けており、《日本社会にとっての》サリン事件は、少しも終わってはいないのだ。現に『リカバリー・サポート・センター』には、今でも毎年百何十人という人達が検診に訪れている。
―――そういう方々の1人だった河野澄子さんが、今週亡くなった。この訃報を、「被害者は、まだ苦しみ続けているのだ」ということに思い至るきっかけとして、受け止めたい。

河野澄子さんのご冥福を、お祈りいたします。

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