メディアリテラシーに取組む教師達が語る、悩みと喜び

放送日:2006/12/09

先日、埼玉県川口市にある『スキップシティ』という施設で、シンポジウムが開催され、主に小学校でメディアリテラシー教育に取組んでいる先生達が集まった。私も講演者の1人として参加し、講演後の壇上でのトークでは、先生達と現場の本音を交わし合った。
“メディアからの情報を踊らされずに受け止める方法、メディアを使って自ら情報を発信していく方法を学ぶ。それがメディアリテラシーだ!”―――と一口に言うのは簡単だ。だが、メディアリテラシー教育が学校のカリキュラムに導入され始めたのは、ごく最近のこと。頼りになる専門の教科書も乏しい状態で、現場では、先生達の手探りがまだ続いている。

■完成を焦って、芽を摘むな

『スキップシティ』は、大変面白い映像ミュージアムがある他、子供達が映像作品を作るための設備を貸し出したり、指導員を派遣したりして、地元周辺の学校のメディアリテラシー教育を全面的にサポートしている。私とのトークに参加したのは、皆この『スキップシティ』を利用して、生徒達に映像制作(身の周りの出来事をニュースにまとめたり、何かを宣伝するCMを作ったり)体験授業を試みたことがある、または目下チャレンジ中の、小学校の先生達だ。
映像制作などしたことのない先生達が、自分が体験していない事を子供達に教えるのは、確かに難しい。幸いこの地域では、『スキップシティ』から派遣される指導員が《技術的な部分》の指導は担ってくれるのだが、悩み所はむしろ、本来先生たちが得意とするはずの、《教育的な部分》にあるようだ。一方的に答えを教えず、子供たち自身による発見や気づきを促そうという、他の科目では当然のように先生達が行なっている“教育のプロの技”が、メディアリテラシー教育の場では「どうもうまく発揮できない」と、先生達は言う。

教師A: 我が校でも20時間、「総合的学習の時間」の一部として、映像学習(でこの施設のプログラム)を使わせていただいてるんですけども、やはりその20時間の中で、子供達の意見を待つ時間がどれだけあるか。それを考えると、どうしても「いい作品にしてあげたい」っていう気持ちもありますので、こちらの方も、待っていないでどんどんアドバイスし過ぎてしまったり…してしまうことが、よくあります。
教師B: 5年生になると映像学習があるというので、「5年生の担任、嫌だな〜」というのが本音でした。最初は「20時間も?」っていう思いがあったんですが、その20時間ってのが本当に少なく感じるのが現状で、ついつい口を出すのは皆さんと同じようにあります。
下村:
僕もいろんな学校で見てきてるんですけどね。あんまり作品の完成にこだわらない方がいいかな、と思ってます。かなり破綻した作品でもそのまま出しちゃっていい。未完成でも、どんな作品の中にもキラッと光る所があるんですよ。

先生達としては、限られた20時間のカリキュラムの中で、ビデオ作品を「とにかく完成させなくちゃ」ということに焦ってしまって、つい作り方にまで口出しをしてしまう。ところがその助言というのが、普段テレビを見て染まっている《大人の発想》で言うものだから、《子供達の自由な表現》の芽を結局摘んでしまっている。喩えてみれば、図工の授業で、絵の構図や色使いにまで、先生がいちいち介入して型にはめてしまうというような状態だ。
各地の学校を回っての私の指導体験では、ビデオ作品が未完成に終わっても、確かに学びはある。[企画構成を考える]だけで終わっても、普段使ったことのない脳ミソの使い方が出来るし、[取材]の段階で終わっても、相手とのインタビューの難しさで多くを学べる。[撮影テープの編集]途中で終わっても、映像の撮り方・繋ぎ方で情報のイメージがどんなに変わるか、ということを発見できる。
以前このコーナーでお伝えした岡山県笠岡市立中央小学校で、子供達が作った映像作品の発表会に私が審査員として伺ったときの事だ。当初予定では、24班ある作品の中で第1位、第2位、第3位を決めようとしていた。しかし私は、24個の全作品それぞれに「この作品はこの点で伝え方が1等賞」というコメントを出した。表現の仕方に「これは間違い」というものは無い。より真ん丸に近いか、いびつなマルかという、程度の違いはあっても全部がマルなのだ。(しかも、情報の伝わり方としては、多少いびつな方が印象に残ったりもする。) だから、綺麗な真ん丸の作品を完成させることに焦る必要は無いのだ、と先生達に伝えたい。

■脱線のようで、実は本筋

トークの中では、先生方が脱線だと考えるものが、私から見ると脱線ではない、という事例も飛び出した。

教師C: 先程ですね、「子供に任せて」というお話だったんですが、子供に任せていくとですね、結構小道具にこだわってしまうというんでしょうか。何かこう、撮影時に眼鏡をかけてみたりとか、髭をつけてみたりとか、映像の効果として字幕を入れて、その文字が溶けてくような加工にして欲しいとか。伝えたい内容よりもそちらの方に目が行きがちになってしまった時に、教師としては、「それも面白いかもしれないけど、伝えたいメッセージってどういう事だろう?」っていうようなところで、話を戻したことはありました。
下村:
これもね、全国共通の悩みだと思うんですよ。やたら字幕とかヒュンヒュンって飛んで来たりとかね。やっぱり面白いから、パソコンの編集ソフトにある、そういう“おもちゃ”に走るんですよ。でもそれもね、僕はいいと思ってます。要するに、面白がってるんでしょ? 面白いってことはいいんですよ、それで。《表現の喜び》を感じてるんだから。その時に、「じゃ、どうして溶ける文字の方が、その文字に書いてあるメッセージは皆に伝わりやすいと思うの?」っていう風に、訊く。そうすると、「いや、ここは怖い話だから怖い感じのドロドロっていう字の方がいいんだ」とか、子供達が一生懸命理由を考える。それって、一見小道具へのこだわりなんだけど、そこもね、《メッセージを伝わりやすくするための工夫》なんです。「それより大切なのは、メッセージの本筋だろ!」って、話を戻さなくていいのかも知れないですよ。逆に、そういう所でも、「あ、僕達意識してなかったけど、そういう隅々まで《伝わりやすくするための工夫》って凝らされてるんだな」って自分で気がつけば、それでいいのかなっていう気もします。

「作文を書いてみよう」と言うと、鉛筆を握ったまま最初の1文字目が書けずに固まってしまう子供は多いが、「撮影してみよう」と言ったとき、ビデオカメラの赤ボタンを押せずに固まってしまう子は1人もいない。「テレビを作ってみない?」という問いかけは、実に子供達がノリやすいのだ。彼らは、楽しみながら授業をしていくうちに、段々と発信の難しさ・奥深さ・怖さを自然に体得していく。

■“スローフード”効果と、善意のトリック

悩みのぶっちゃけ合いに続いては、「映像制作体験授業をやってみて良かったこと」の報告。まずは、「掃除の後の箒の片付け方をきちんとしよう」と全校生徒に呼びかけるビデオを、子供達が作ったときのことを、ある先生が語った。

教師D: 去年作ったアド(=広告)ビデオの中で、「箒をちゃんとしまおう」ってのがあったんですよ。箒をしまう時、吊り下げずに立てかけて置くと、毛先が曲がってリーゼントみたいになっちゃって不良になる、というストーリー設定だったんです。それを作った時に、それ以来、箒を吊り下げない子が、誰もいなくなりましたね。だから、単に口で「何かやろう」って言うんじゃなくて、自分達で本当に作ったアドビデオは、《相手》に訴える目的ではあるけれども、でも実は《自分》に訴えてる効果があって、それを作った子達は、それ以来そのルールをずっと守るというところが、すごく良かったです。

制作した子供達の、箒の扱いが良くなった理由は、単に《発信した者の責任》を自覚したということだけではない。そのメッセージを自分達が手作りで《丁寧に作った》から、身体に染み込んだのだ。今は、ネットで何の苦労も無く情報が入手できる時代で、情報はいわば“ファーストフード”状態になっている。その結果、確かめずに引用したり、部分的に無造作に捨てたりと、情報の取り扱いが雑になっている。一昔前までは、調べ物は時間がかかる“スローフード”だった。だから自ずと、「相手にちゃんと食べてもらおう」という気持ちが生まれ、情報の扱いは今よりも丁寧だった。映像制作体験学習には、そういう《情報の大切さ》を復権させる教育効果がある。

次は「空き缶ポイ捨てはやめよう」というビデオを作った子供達のエピソード。

教師E: 男の子が、ジュース飲んで、缶をポ〜イって放り捨てたら、後ろでプロ野球選手の役の子が、カーンって上手く打つ。で、その缶が飛んでって、ゴミ箱の中にポコッと入る。これは、映像を編集で繋げてるわけですね。ポイッてやった映像と、缶を投げて打たせる映像。次は、誰かがポーイと、ゴミ箱に放り込む映像。その3つのシーンを繋げると、本当に、飲んで後ろに投げた缶をプロ野球選手がカーンとゴミ箱に打ち込んで、「おい、ポイ捨てダメじゃないか、いつもゴミ箱に捨てろ」と一喝するシーンになるんです。それを校内放送、お昼の時間に流すわけですよね。1年生から6年生までが見るわけです。そういうシーンってのは低学年がものすごい喜んでね。そのお兄ちゃんがね、「あ、野球の上手なお兄ちゃんだ、お兄ちゃんだ!」って囃し立てられてね、「いや違うよ、あれはどうのこうの」って一応言うんだけどもね。「じゃ、説明してあげれば」って言ったらね、「あれは分からないよ」って。やっぱり、いくら口で言っても小さい子には分からない。自分も今までわからなかったけれども、実際に制作体験をしてみたらいろいろと気づいたんですよね。そういう点では、すごく映像学習の意義があったなってことを、強く感じました。

この子供達は、「視聴者はいとも簡単にトリックを本気にしてしまうのだ」と、身をもって実感することが出来た。しかもそのトリックは、メッセージを分かりやすく届けようという《ポジティブな》工夫なのだ、という驚きも体験した。メディアリテラシー教育を机上だけで学ぶと、「メディアは騙すから気をつけろ」という行き過ぎた否定的姿勢を植え付けられがちだが、この子達は、「悪意で騙そうとしたわけでは全く無いのに、こういう反応に遭遇した」という貴重な体験を得た。メディアに対してネガティブになり過ぎる“副作用”を回避しながら、大勢に発信すること・冷静に受信することの難しさを、この子達は学べたのだ。

■「再チャレンジ可能な」カリキュラムは実現するか?

このような《学び》は、実際に何か映像作品を作って発信してみないと、なかなか実感しにくいのかもしれない。そして大切なのは、子供達が何かを実感した瞬間、先生がそれを子供達との会話で言語化して、意識として定着させることだ。

下村:
カリキュラム上、あんまり作品を練って練って…っていう時間が無いという現実を考えても、もう不完全なまま行っちゃって、“伝わらない作品”が出来上がって―――むしろそこからどうするかですよね、教育として大切なのは。見る者にメッセージが狙い通り伝わらなかったことを確認した時に、最後に子供達とどんな会話をするか。「なんで伝わらなかったんだろうねぇ?」と。伝わらなかった人達に、どう受け取ったのかをよく訊いて、「あーそうか、ここでこの順序で情報出しておけば伝わったのに!」みたいなことを、最後に先生が一緒に悔しがってあげると、すごい学びになったりしますよね。だから最後の発表会って、ものすごく大切なステップだったりするんです。
教師D: 「失敗を恐れなくていいんだ」って仰いましたよねぇ。ま、ホントそうなんだよなぁ、って思ったんです。でもね、発表会の時に子供達の顔を見てると、メッセージが上手くいったチームは「すごい、やったぜ!」っていう顔をする。ちょっとうまく伝わらなかった子は、やっぱり落ち込む顔するんですよね。その時、他のチームの作品を見て、「ああやれば良かったんだな、俺達もやりたいなぁ」って顔してるんですよ。でも、チャンスが無い、1回しか。誰かさんが言ってる、“再チャレンジ”ができない。そこらへんはどうなのかな。フォローをどうやってやってくのかなぁ。「どうして伝わらなかったんだろうね」って話はできるかも知れないけど、「じゃあ今度は」ってのが無いところが寂しいですね。

この先生の不満を解消するには、もっと授業時間数を増やすしかない。今現在、「総合的学習の時間」の中から20時間を捻出するのも、一部の進んだ学校でしか行なわれていない。最早これは現場で解決できる問題ではなく、カリキュラム・制度の問題だ。今回のシンポジウムの客席には、総務省などの役人の姿もあった。こういう現場の声を、是非、今後に生かしていただきたい。

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